平家物語 二十六 大納言死去

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『平家物語』巻第ニより「大納言死去」。

死刑をまつ大納言成親のもとに、従者の信俊が訪ねきて、妻子の手紙をてわたす。成親は信俊に死後の供養をたのむ。

あらすじ

俊寛僧都、康頼入道、丹波少将成経の三人は薩摩潟の鬼界が島に流される。風土も住人も、野蛮なところである。

一方新大納言成親は、子息丹波少将成経が鬼界が島に流されたと聞き、 わずかな希望も消える。後白河法皇に出家を申し出て、許されるとすぐに出家した。

成親の北の方は、都の北山雲林院にひっそり暮らしていた。

女房や侍は人目をはばかり、訪れる者は一人もない。 そういう中に源左衛門尉信俊(げんざえもんのじょう のぶとし)という侍だけは、頻繁に 様子うかがいに通っていた。

ある時北の方は、有木の別所にいる成親を訪ねてほしいと信俊に頼む。信俊は成親から日頃受けた恩を思い、承知する。

信俊は北の方と子供たちの手紙を持って、備前の国有木の別所へ向かう。

警護の武士、難波次郎経遠(なんばのじろう つねとお)は信俊の志に共感し、 すぐに成親に会えるよう取り計らう。

成親に対面する信俊。その住まいの侘しさもさることながら、信俊はかつての主人が 出家して頭を丸めていることに驚く。

成親は北の方と幼き人々の文を読んで、涙にくれた。

こうして四五日が過ぎた。信俊は成親の最後を見届けたいと申し出るが、 許されない。

信俊は泣く泣く成親と別れ、都へ帰り上った。

都で北の方に成親の文を渡すと、出家のしるしとして一房の頭髪が出てきた。

北の方も子供たちも、泣き悲しむ。

同年八月十九日、備前・備中の境、庭瀬の郷、吉備の中山というところで新大納言成親は処刑された。

その最後の様子はいろいろに伝えられている。

酒に毒を入れてすすめたが拒んだので、断崖の下に竹や鉄の先端を尖らせたものを 植え、上から突き落としたなどと噂された。

北の方は、菩提院(菩提樹院)という寺にこもり尼となり、成親の後世を供養た。

この北の方は山城守敦方の娘で、大変な美人だった。

後白河法皇の愛人だったのを、新大納言は後白河法皇の信頼が厚かったので下賜されたのである。

原文

さる程(ほど)に法勝寺(ほつしようじ)の執行俊寛僧都(しゆぎやうしゆんくわんそうづ)、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)、この少将相(あひ)具して、三人薩摩潟鬼界(さつまがたきかい)が島(しま)へぞながされける。彼島(かのしま)は都を出でてはるばると、浪路(なみぢ)をしのいで行く所なり。おぼろけにては舟もかよはず。島にも人まれなり。おのづから人はあれども、此土(このど)の人にも似ず、色黒うして、牛の如(ごと)し。身には頻(しき)りに毛おひつつ、云ふ詞(ことば)も聞き知らず。男は烏帽子(えぼし)もせず、女は髪もさげざりけり。衣装(いしやう)なければ人にも似ず。食する物もなければ、只殺生(せつしやう)をのみ先とす。しづが山田を返さねば、米穀のるいもなく、薗(その)の桑をとらざれば、絹帛(けんぱく)のたぐひもなかりけり。島のなかには、たかき山あり。鎮(とこしなへ)に火もゆ。硫黄(いわう)と云ふ物みちみてり。かるがゆゑに硫黄(いわう)が島とも名付(なづ)けたり。いかづち常になりあがり、なりくだり、麓(ふもと)には雨しげし。一日片時(へんし)人の命たえてあるべき様(やう)もなし。

さる程(ほど)に、新大納言は、すこしくつろぐ事もやと、思はれけるに、子息丹波少将成経(たなんばのせうしやうなりつね)も、はや鬼界(きかい)が島へながされ給ひぬときいて、今はさのみつれなく、何事をか期(ご)すべきとて、出家の志(こころざし)の候(さうらふ)よし、便(たより)に付けて小松殿へ申されければ、此由法皇へ伺ひ申して、御免(ごめん)ありけり。やがて出家し給ひぬ。栄花の袂(たもと)を引きかへて、浮世をよそにすみぞめの袖にぞやつれ給ふ。

大納言の北の方は、都の北山、雲林院(うんりんゐん)の辺(へん)に、しのびてぞおはしける。さらぬだに住みなれぬ所は物うきに、いとどしのばれければ、過ぎ行く月日もあかしかね、くらしわづらふ様(さま)なりけり。女房侍(さぶらひ)おほかりけれども、或(あるい)は世をおそれ、或は人目(ひとめ)をつつむほどに、問ひとぶらふ者一人もなし。されども、其中に、源三郎衛門尉信俊(げんざゑもんのじようのぶとし)と云ふ侍一人、情(なさけ)ことにふかかりければ、常はとぶらひ奉る。或時(あるとき)北の方、信俊をを召して、「まことやこれには備前(びぜん)の児島(こじま)にと聞えしが、此程(このほど)聞けば、有木(ありき)の別所とかやにおはすなり。いかにもして、今一度、はかなき筆のあとをも奉り、御おとづれをも聞かばや」とこそ宣(のたま)ひけれ。信俊(のぶとし)涙をおさへ申しけるは、「幼少(えいせう)より御憐(おんあはれみ)を蒙(かうぶ)ツて、かた時もはなれ参らせ候はず。御下(おんくだ)りの時も、何ともして御供(おんとも)仕らうど申し候ひしかども、六波羅(ろくはら)よりゆるされぬば、力及び候はず。召され候ひし御声(おんこゑ)も、耳にとどまり、諫められ参らせし御詞(おんことば)も、肝に銘じて、かた時も忘れ参らせ候はず。縦(たと)ひ此身(このみ)はいかなる目にもあひ候へ、とうとう御(おん)ふみ給はツて参り候はん」とぞ申しける。北の方なのめならず悦(よろこ)んで、やがて書いてぞたうだりける。をさなき人々も、面々(めんめん)に御ふみあり。

現代語訳

そのうちに、法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼(やすより)、この少将(丹波少将)揃って、三人薩摩潟鬼界が島へ流された。

その島は都を出てはるばると、波路を乗り越えて行く所である。

めったなことでは舟もかよわない。島に人はめったにいない。たまに人はあるけれど、日本本土の人とは違っている。色黒くて牛のようである。身にはたいそう毛が生えていて、言う言葉も聞いてわからない。

男は烏帽子もせず、女は髪もおろしていない。衣装がないので人にも見えない。食べる物もないので、ただ殺生ばかり第一として行っている。

農夫が山の田を開墾しないので、米柄のたぐいもなく、園に桑を植えてそれを採ったりしないから、絹織物のたぐいもなかった。

島のなかには高い山がある。いつまでも火が燃えている。硫黄というものがみちみちている。

そのため、硫黄が島とも名付けている。雷が常になりあがり、なりくだり、麓には雨がたいそう激しい。一日片時でもけっして生きていられそうにもない。

そのうちに、新大納言は、すこし平家の圧迫がゆるくなることもあるだろうかと思われたが、子息丹波少将成経も、もう鬼界が島へ流されなさったときいて、今はそうそう気づよく、何事を期待できるだろとうということで、出家の気持ちのあることを、手紙につけて小松殿へ申されたところ、この事を法皇におうかがい申して、お許しがあった。

すぐに出家された。栄華の袂に引きかえて、浮世をよそに墨染の袖におやつれになる。

大納言の北の方は、都の北山、雲林院のあたりに、しのんでいらっしゃった。そうでなくても住み慣れない所は心憂いのに、(こんな状況なので)なおいっそう昔のことがしのばれたので、過ぎ行く日々も過ごしかねて、暮らしわずらっている様子であった。

女房侍は多かったが、あるいは世をおそれ、あるいは人目をさけるうちに、訪問する者は一人もない。

それでも、その中に、源左衛門尉(げんざえもんのじょう)信俊(のぶとし)という侍一人、情がたいそう深かったので、いつも訪問申し上げていた。

ある時北の方が信俊を召して、

「ほんとうかしら。あの方(夫成親)は備前の児島にと聞いていたが、今回聞けば、有木の別所とやらにいらっしゃるという。
なんとかして、もう一度、ちょっとした手紙をも差し上げて、御消息をも聞きたいものだ」

とおっしゃった。信俊が涙をおさえて申したのは、

「幼少の頃から御憐れみを受けて、かた時も離れ申しませんでした。配所へ下られる時も、何とかして御供いたそうと申しましたが、六波羅よりゆるされないので、力及びませんでした。

お召しを受けました御声も、耳にとどまり、お叱りを受け申した御言葉も、肝に命じて、かた時も忘れ申しません。

たとえこの身はどんな目にあいましても、はやくはやく御文をいただいて、参りましょう」

と申した。

北の方はなみなみならず喜んで、すぐに書いて与えた。幼い人々も、それぞれ御文を書かれた。

語句

■薩摩潟鬼界が島 薩摩南方の海にある鬼界が島。現硫黄島と思われる。 ■しのいで なんとか乗り越えて。 ■おぼろけにては ふつうには。 ■おのづから たまに。 ■此土 このど。本土。 ■しづ 身分賤しき者。百姓。 ■薗の桑をとらざれば 薗に桑を植えて蚕を育てる=養蚕をしないので。 ■絹帛 けんぱく。絹の布。 ■たえて 下に否定の語を伴って「ぜったいに~ない」。 ■くつろぐ 罪の追求が軽くなる。 ■さのみつれなく、何事をか期すべき そうそう気づよく何事を期待することができよう。いやできない。 ■雲林院 現在、京都市北区紫野、船岡山の近くにある寺。もとは淳和天皇の離宮だったものを仁明天皇皇子・常康親王が貰い受け、さらに常康親王から僧正遍昭が貰い受けて寺とした。桜の名所として知られた。 ■さらぬだに そうでなくてさえ。このように人目を避ける立場でなくてさえ心細いのに、の意。 ■いとどしのばれければ たいそう昔が思い出されるので。 ■これには 夫成親は。 ■有木の別所 「有木」は岡山県高松。羽柴秀吉が城攻めをした「備中高松城」で有名。「別所」は寺本体と別にある僧坊。■はかなき筆の跡 ちょっとした手紙。 ■御おとづれ 便り。 ■たうだりける たび(たまひ)たりけるの音便。

原文

信俊これを給はツて、はるばると備前国(びぜんのくに)、有木(ありき)の別所へ尋ね下る。先(ま)づ預(あづかり)の武士、難波次郎経遠(なんばのじらうつねとほ)に案内をいひければ、心ざしの程(ほど)を感じて、やがて見参(げんざん)にいれたりけり。大納言入道殿は、只今も都の事を宣ひいだし、歎(なげ)きしづんでおはしける処(ところ)に、「京より信俊が参ツて候」と申し入れたりければ、「夢かや」とて、聞きもあへずおきなほり、「是(これ)へ是へ」と召されければ、信俊参ツて見奉るに、まど御住ひの心うさもさる事にて、墨染(すみぞめ)の御袂(おんたもと)を見奉るにぞ、信俊目もくれ、心も消えて覚えける。北の方の仰(おほ)せかうむツし次第、こまごまと申して、御(おん)ふみとりいだいて奉る。是をあけて見給へば、水ぐきの跡は涙にかきくれて、そこはかとはみえねども、「をさなき人々のあまりに恋ひかなしみ給ふ有様(ありさま)、我身もつきせぬもの思(おもひ)に、たへしのぶべうもなし」なンど、書かれたれば、日来(ひごろ)の悲しさは、事の数ならずとぞかなしみ給ふ。

かくて四五日過ぎければ、信俊、「これに候ひて、御最後(ごさいご)の御有様(おんありさま)見参らせん」と申しければ、預(あづかり)の武士、難波次郎経遠かなふまじきよし頻(しき)りに申せば、力及ばで、「さらば上(のぼ)れ」とこそ宣ひけれ。

「我は近ううしなはれんずらむ。此世になき者ときかば、相構へて我後世とぶらへ」とぞ宣ひける。御返事(おんへんじ)書いてたうだりければ、信俊これを給はツて、「又こそ参り候はめ」とて、暇(いとま)申して出(い)でければ、大納言、「汝(なんじ)が又こんたびを、待ちつくしべしともおぼえぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、しばししばし」と宣ひて、たびたびよびぞかへされける。

さてもあるべきならねば、信俊涙をおさへつつ、都へ帰りのぼりけり、北の方に御(おん)ふみ参らせたりければ、是(これ)をあけて御覧ずるに、はや出家し給ひたるとおぼしくて、御(おん)ぐしの一ふさ、ふみの奥にありけるを、二目(ふため)とも見給はず、かた見こそなかなか今はあたなれとて、ふしまろびてぞ泣かれける。をさなき人々も、声々に泣きかなしみ給ひけり。

さる程(ほど)に大納言入道殿をば、同(おなじき)八月十九日、備前(びぜん)、備中(びツちゆう)両国の堺庭瀬(さかひにはせ)の郷吉備(がうきび)の中山と云ふ所にて、つひにうしなひ奉る。其最後(そのさいご)の有様(ありさま)、やうやうに聞(きこ)えけり。酒に毒を入れてすすめたりけれども、かなはざりければ、岸の二丈(ぢやう)ばかりありける下に、ひしを植ゑて、うへよりつきおとし奉れば、ひしにつらぬかツて、うせ給ひぬ。無下(むげ)にうたてき事共なり。ためしすくなうぞおぼえける。

大納言の北の方は、此世(このよ)になき人と聞き給ひて、「いかにもして、今一度かはらぬすがたを、見もし見えんとてこそ、今日(けふ)まで様(さま)をもかへざりつれ。今は何にかはせん」とて、菩提院(ぼだいゐん)と云ふ寺におはし、様をかへ、かたのごとくの仏事をいとなみ、後世(ごせ)をぞとぶらひ給ひける。此北の方と申すは、山城守敦方(やましろのかみあつかた)の娘なり。勝(すぐ)れたる美人にて、後白河法皇(ごしらかははふわう)の御最愛(ごさいあい)ならびなき御思人(おんおもひびと)にておはしけるを、成親卿(なりりかのきやう)、ありがたき寵愛(ちようあい)の人にて、給はられたりけるとぞ聞えし。をさなき人々も、花を手折(たを)り、閼伽(あか)の水を結んで、父の後世をとぶらひ給ふぞ哀れなる。さる程(ほど)に、時うつり事さツて、世のかはりゆく有様は、ただ天人の五衰にことならず。

現代語訳

信俊はこの文をいただいて、はるばると備前国、有木の別所へ尋ね下る。

まず預かりの武士、難波次郎兼遠に案内をしてくれといったところ、心ざしの高いことを感じて、すぐに面会させた。

大納言入道殿は、ただ今も都の事をおっしゃり出して、嘆きしずんでいらしたところに、

「京より信俊が参ってございます」

と申し入れたので、

「夢だろうか」

といって、聞くやいなや起きなおり、

「これへ、これへ」

とお召になると、信俊が参って拝謁すると、まず御住まいの情けなさも言うまでもないが、墨染の御袂を見申すにつけても、信俊は目もくれ、心も消えて思えた。

北の方の仰せをうけた次第を、こまごまと申して、御文を取り出して差し上げる。

これをあけてご覧になると、筆の跡は涙にかきくれて、はっきりとは見えないが、「幼い人々のあまりに恋し慕いなさるので、わが身も尽きることのないもの思に、耐え忍ぶこともできません」

など書かれているので、日頃の恋しさは、事の数でもないほど、悲しまれる。

こうして四五日過ぎると、信俊は、「ここにお仕えして、御最後の御有様を拝見しましょう」と申したところ、預かりの武士、難波次郎経遠は、許可できないということをしきりに申すので、しかたなく、大納言は信俊に「ならば上れ」とだけおっしゃった。

「私は近く殺されるだろう。この世になき者ときいたら、きっと我が後世を供養せよ」とおっしゃった。

御返事書いてお与えになったところ、信俊はこれをいただいて、「また参ります」といって、暇申して退出したところ、大納言は、

「お前がまた来ることを、待っていてその機会にあうとも思わないぞ。あまりに慕わしく思えるので、もう少し、もう少し…」

とおっしゃって、たびたび呼び返された。

そうはいってもずっとそうしてもいられないので、信俊は涙をおさえて、都へ帰りのぼった。

北の方に御文を差し上げたところ、これをあけてご覧になると、はやくも出家なさったと思われて、御ぐしの一ふさ、ふみの奥にあったのを、二目ともご覧にならず、形見があるのはかえって今は悲しみの許だといって、伏し転げて、泣かれた。

幼い人々も、声々に泣きかなしまれた。

そのうちに大納言入道殿をば、同年(治承元年(1177))八月十九日、備前、備中両国の堺、庭瀬の郷吉備の中山という所にて、ついに殺害し申し上げた。

その最期の有様は、さまざまに聞こえた。酒に毒を入れてすすめたが、うまくいかなかったので、岸の二丈ほどあった下に、菱を植えて、上から突き落とし申すと、ひしに貫かれて、お亡くなりになった。

まったく情けない事どもである。このような例は少ないと思われた。

大納言の北の方は、夫大納言がこの世になき人とお聞きになって、「どうにかして、もう一度かわらない姿を、見もし、見られようとて、今日まで出家もしなかったのだ。今は何のこだわりもない」

といって、菩提寿院という寺にいらして、出家して、作法どおりの仏事をいとなみ、後世を弔われた。

この北の方と申すのは、山城守敦方(あつかた)の娘である。たいへんな美人で、後白河法皇のご最愛ならびなき御思人でいらしたのを、成親卿はめったにない寵愛を受けている人であったので、与え下されたとということだった。

おさない人々も、花を手折り、閼伽の水を結んで、父の後世をお弔いになるのは哀れであった。

そのうちに時うつり事さって、世のかわりゆく有様は、天人が死ぬ前に五つの衰えが見えるという「天人五衰」とちがわない。

語句

■見参にいれたりけり 面会させるようとりはからった。 ■水ぐきの跡 筆の跡。 ■そこはかとは はっきりとは。 ■相構えて 必ず。きっと。 ■待ちつく 待っていて、ふたたび会うこと。 ■しばし 「もう少しここにいてくれ」と引き止めている。 ■かた見こそなかなか今はあたなれ 形見の品があると今はかえって悲しい気持ちが強くなるよ。 ■吉備の中山 岡山県高松市にある吉備津神社の裏の山。 ■ひし 菱の実の形に鉄を切った兵器。 ■無下にうたてき まったくひどい。 ■菩提院 菩提樹院。京都市左京区神楽岡(吉田山)の東。後一条天皇陵がある。 ■山城守敦方 伝未詳。 ■閼伽の水 仏前に備える水。閼伽は梵語で水。 ■時うつり事さッて 「時移リ事去リ、楽シミ尽キ悲シミ来ル」(長恨歌伝)。 ■天人の五衰 天人は死期が近づくと、身に五つの衰えが見えるという。

朗読・解説:左大臣光永

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