徳大寺厳島詣(とくだいじのいつくしままうで)
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『平家物語』巻第ニより「徳大寺厳島詣(とくだいじのいつくしまもうで)」。
徳大寺実定(とくだいじじってい)は、平家の次男平宗盛に先を越され大将になれなかった。
一時は出家を考えるが、家来の提案で安芸の厳島に参詣し、大将になれるよう祈願する。
あらすじ
徳大寺実定(とくだいじ じってい)は、平家の次男、宗盛に 先を越され、大将になれず(「二代后」)、 世をはかなんで屋敷に引きこもっていた。
ある月の夜、徳大寺に仕える蔵人大夫重兼(くらんどのたいふ しげかぬ)が実定のもとに参上すると、実定は出家をほのめかす。
重兼は涙をはらはらと流し「貴方が出家すれば家臣たちは路頭に迷うことになります」といって、ある提案をする。
「平家が信仰する安芸の厳島へ七日ばかり参篭しなさい。
そこには内侍と呼ばれる巫女がいます。
内侍たちに祈請の内容を聞かれたら、正直に 大将になりたい旨を伝えなさい。
帰る段になったら名残を惜しみ、めぼしい内侍たちを連れて都までのぼりなさい。
都へ上れば内侍たちは西八條の清盛邸を訪ねるでしょう。
内侍たちは入道相国(清盛)に 「徳大寺殿が大将になりたいと七日参篭されました」とありままを伝えるでしょう。
入道相国は感激しやすい人ですから、平家の崇める厳島に祈るとはいじらしい奴と、 けして悪いはからいはされないでしょう」
実定は、この提案に感心し、すぐに精進(肉食を絶ち身を清める)して厳島へ出発した。
厳島につくと七日七夜参篭の間舞楽や琵琶などをして、また実定自身も今様を歌ったり朗詠をして厳島の明神に祈った。
内侍たちが参篭の目的を聞かれると、実定は(重兼のアドバイスどおり)、「大将になれるように」と、ありのままに答える。
七日の参篭が終って都へ帰ろうということなり、内侍十余人が見送りについてくる。
「もう一日」「もう二日」と名残を惜しむうちに、とうとう都まで着いてきてしまった。
実定の徳大寺殿で引き出物などを受け取り、内侍たちは引き上げる。
せっかく都に上ったのだから、主である入道相国を訪ねようということになる。
出迎えた清盛は、驚いて突然の訪問のわけを尋ねる。内侍たちは「徳大寺殿が大将になれることを祈って厳島に参篭されて…」と、 事の次第を話す。
都にいくらも神社仏閣はあるのに、あえて平家の信仰厚い 厳島に徳大寺が参詣したことに、清盛は心打たれた。
嫡子小松殿(重盛)が左大将だったのを辞職させ、次男宗盛が右大将だったのを 超えさせ、徳大寺を左大将に就任さた。
新大納言成親卿も、この実定卿のように賢いやり方をすればよかったのに、 おろかな謀反を企てて一家眷属を滅亡に追いやったのは遺憾なことであった。
原文
ここに徳大寺の大納言実定卿(だいなごんしつていきやう)は、平家(へいけ)の次男、宗盛卿(むねもりのきやう)に、大将(だいしやう)をこえられて、しばらく籠居(ろうきよ)し給へり。出家せんと宣へば、御内(みうち)の上下、いかがせんと嘆(なげ)きあヘリ。其中に藤蔵人大府重兼(とうくらんどのたいふしげかね)と云ふ諸大夫(しよだいふ)あり。諸事に心えたる者にて有りけるが、ある月の夜、実定卿(しつていきやう)、南面(なんめん)の御格子(みかうし)あげさせ、只(ただ)ひとり月にうそむいておはしける処(ところ)に、なぐさめ参らせんとや思ひけん、藤蔵人参りたり。「たそ」と宣へば、「重兼候(さぶらふ)」。「いかに何事ぞ」と宣(のたま)へば、「今夜は殊(こと)に月さえて、よろづ心のすみ候ままに参ツて候(さうらふ)」とぞ申しける。大納言、「神妙(しんべう)に参ツたり。余(あまり)に何とやらん心ぼそうて、徒然(とぜん)なるに」とぞ仰せられける。其(その)後何とない事共(ことども)申してなぐさめ奉る。大納言宣ひけるは、「つらつら此世(このよ)の中の有様(ありさま)を見るに、平家の世はいよいよさかんなり。入道相国(にふだうしやうこく)の嫡子(ちやくし)、次男、左右(さう)の大将(だいしやう)にてあり。やがて三男知盛(とももり)、嫡孫維盛(これもり)もあるぞかし。かれも是(これ)も次第にならば、他家(たけ)の人々、大将をいつあたりつくべしともおぼえず。さればつひの事なり。出家せん」とぞ宣ひける。重兼(しげかね)涙をはらはらとながいて申しけるは、「君の御出家候ひなば、御内(みうち)の上下、皆まどひ者になり候ひなんず。重兼めづらしい事をこそ案(あん)じ出(いだ)して候へ。喩(たと)へば安芸(あき)の厳島(いつくしま)をば、平家なのめならずあがめ敬(うやま)はれ候に、何かは苦しう候べき、彼社(かのやしろ)へ御参(おんまゐり)あツて。御祈誓(ごきせい)候へかし。七日ばかり御参籠(ごさんろう)給はば、彼社には内侍(ないし)とて、優(いう)なる舞姫(まゐひめ)共おほく候、めづらしう思ひ参らせて、もてなし参らせ候はんずらん。『何事の御祈誓に、御参籠候やらん』と申し候はば、ありのままに仰せ候へ。さて御のぼりの時、御名残(なごり)惜しみ参らせ候はんずらん。むねとの内侍共を召し具して、都まで御のぼり候へ。都へのぼり候ひなば、西八条(にしはつでう)へぞ参り候はんずらん。『徳大寺殿は何事の御祈誓に、厳島へは参らせ給ひたりけるやらん』と、尋ねられ候はば、内侍(ないし)共ありのままにぞ申し候はむずらん。入道相国はことに物めでし給ふ人にて、わが崇(あが)め給ふ御神(おんがみ)へ参ツて、祈り申されけるこそうれしけれとて、よきやうなるはからひもあんぬと覚え候」と申しければ、徳大寺殿、「これこそ、思ひもよらざりつれ。ありがたき索(はかりごと)かな。やがて参らむ」とて、俄(にはか)に精進(しやうじん)はじめつつ、厳島へぞ参られける。
現代語訳
ここに徳大寺の大納言実定卿は、平家の次男、宗盛卿に大将をこえられて、しばらく自宅に引きこもっておられた。
出家しようとおっしゃると、身内の上下は、どうしようと嘆きあった。その中に藤鞍人大夫(とうのくらんどのたいふ)重兼(しげかぬ)という諸大夫があった。
いろいろなことに気の利いた者であったが、ある月の夜、実定卿が南面の御格子をつり上げさせ、ただ一人月にむかって朗詠していらしたところに、なぐさめ申し上げようと思ったのだろう、蔵人が参った。
「誰か」とおっしゃると、
「重兼でございます」
「どうした何事だ」とおっしゃると、
「今夜は特に月がさえて、万事、心がすみますのに任せて参ったのでございます」と申した。
大納言、
「感心にも参ったものだ。あまりに何ということもなく心細くて、退屈であったので」
と仰せられた。
「つくづくこの世の中の有様を見ると、平家の世はいよいよさかんである。入道相国の嫡子、次男は左右の大将である。
すぐに三男知盛、嫡孫維盛もあるのだぞ。それもこれも次に位につくのなら、他の家の人々は、大将にいつなれるかもわからない。
ならば、結局は出家することだから、今すぐ出家しよう」
とおっしゃった。
重兼は涙をはらはらと流して申したのは、
「あなたがご出家なさいましたら、身内の上下は、皆、流浪人になってしまいましょう。重兼はおもしろい事を思いついてごさいます。
詳しくいうと、安芸の厳島を、平家はなみなみならず信仰なさってございますが、何のかまうこともございません、あの神社へ御参りされて、御祈誓をなさいませ。
七日ほどご参籠なされば、あの神社には内侍といって、優雅な舞姫どもが多くございます、めずらしく思い申して、もてなし申しますでしょう。
『何事の御祈誓に、ご参籠なさったのでしょう』と申しましたら、ありのままに仰せになってください。
そして御のぼりの時、内侍たちは御名残を惜しみ申しますでしょう。
主だった内侍どもを召し連れて、都まで御のぼりください。都へのぼりましたら、西八条へ参りますでしょう。
『徳大寺殿は何事の御祈誓に、厳島へお参りになられたのだろう』と、お尋ねになられましたら、内侍共はありのままに申しますでしょう。
入道相国はとても感激なさる方なので、わが崇めなさる御神へ参って、祈り申されるのはとても嬉しいと、よい処遇もあるだろうと思います」
と申したところ、徳大寺殿、
「これは思いもよらなかったぞ。またとない妙案であることよ。すぐに参ろう」
といって、急に精進をはじめて、厳島へ参られた。
語句
■藤蔵人大夫重兼 徳大寺家の家司。伝未詳。 ■うそむいて 詩歌を吟じて。 ■神妙 感心であること。 ■いつあたりつくべしともおぼえず いつありつけるかわからない。 ■つひの事 最終的には取るべき手段だ(だから終いまで待つことはない。今すぐに出家しようの意)。 ■まどひ者 主家を失い露頭に迷うこと。 ■めづらしい事 面白い事。 ■喩(たと)へば 具体的に言うと。 ■何かは苦しう候べき 何の差し障りがありましょう。慣用表現。 ■御祈誓 神仏に祈り誓うこと。 ■内侍 神社に奉仕する巫女。 ■むねとの 主だった。 ■物めでし給ふ人 物事に感動しやすい人。 ■よきやうなるはからひ よいようなはからい。大将にさせてくれること。
原文
誠に彼社(かのやしろ)には、内侍とて優(いう)なる女どもおほかりけり。七日参籠(さんろう)せられけるに、よるひるつきそひ奉り、もてなす事かぎりなし。七日七夜(なぬかななよ)の間(あひだ)に、舞楽(ぶがく)も三度までありけり。琵琶琴(びはこと)ひき、神楽(かぐら)うたひなンど遊びければ、実定卿(しつていきやう)も面白(おもしろ)き事におぼしめし、神明法楽(しんめいほふらく)のために、今様朗詠(いまやうらうえい)うたひ、風俗催馬楽(ふぞくさいばら)なンど、ありがたき郢局(えいきよく)どもありけり。内侍共、「当社へは平家(へいけ)の公達(きんだち)こそ御参(おんまゐり)さぶらふに、この御参こそめづらしうさぶらへ。何事の御祈誓に、御参籠さぶらふやらん」と申しければ、「大将(だいしやう)を人にこえられたる間、その祈(いのり)のためなり」とぞ仰せられける。さて七日参籠をはツて、大明神に暇(いとま)申して、都へのぼらせ給ふに、名残(なごり)を惜しみ奉り、むねとのわかき内侍(ないし)十余人、舟をしたてて、一日路(ひとひぢ)おくり奉る。暇(いとま)申しけれども、「さりとてはあまりに名ごりの惜しきに、今一日路(ひとひぢ)」、「今二日路」と仰せられて、都までこそ具せられけれ。徳大寺の亭(てい)へいれさせ給ひて、やうやうにもてなし、さまざまの御引出物(ひきでもの)共たうで、かへさりけり。
内侍共、「これまでのぼる程(ほど)では、我等(われら)が主(しゆう)の太政入道殿(だいじやうのにふだうどの)へいかで参らであるべき」とて、西八条(にしはちでう)へぞ参じたる。入道相国(にふだうしやうこく)いそぎ出であひ給ひて、「いかに内侍共は、何事の列参(れつさん)ぞ」。「徳大寺殿(とくだいじどの)の御参(おんまゐり)さぶらうて、七日こもらせ給ひて、御のぼりさぶらふを、一日路送り参らせさぶらへば、さりとてはあまりに名残(なごり)の惜しきに、今一日路、二日路と仰せられて、是(これ)まで召しぐせられてさぶらふ」。「徳大寺は、何事の祈誓(きせい)に、厳島(いつくしま)までは参られたりけるやらん」と宣(のたま)へば、「大将(だいしやう)の御祈(いのり)のためとこそ、仰せられさぶらひしか」。其時(そのとき)入道うちうなづいて、「あないとほし。王城(わうじやう)にさしもたツとき霊仏霊社(れいぶつれいしや)の、いくらもましますをさしおいて、我崇(わがあが)め奉る御神(おんがみ)へ参ツて、祈り申されけるこそ、ありがたけれ。是ほど心ざし切(せつ)ならむ上は」とて、嫡子小松殿(こまつどの)、内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましましけるを辞せさせ奉り、次男宗盛(むねもり)、大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしけるをこえさせて、徳大寺を左大将にぞなされける。あはれめでたかりけるはかりことかな。新大納言(しんだいなごん)もか様(やう)に賢きはからひをばし給はで、よしなき謀反(むほん)おこいて、我身も亡(ほろ)び、子息所従(しよじゆう)に至るまで、かかるうき目を見せ給ふこそうたてけれ。
現代語訳
ほんとうにその神社には、内侍といって優雅な女たちが多かった。七日参籠されたところ、よるひる付添い申し、たいそうもてなした。七日七夜の間に、舞楽も三度まであった。
琵琶や琴をひき、神楽を歌ったりなどして管弦の遊びをしたので、実定卿も面白い事に思われて、神を喜ばせるために、今様朗詠を歌い、風俗・催馬楽など、めったにない歌曲が多く行われた。
内侍たちは、
「当社へは平家の公達が御参りになりますが、この御参はめずらしゅうございます。何事の御祈りに、御参籠なさったのでしょう」
と申したところ、
「大将を人にこえられたので、その祈りのためだ」
と仰せになった。
さて七日参籠終わって、大明神に暇申して、都へお上りになられる時に、名残を惜しみ申し、主だった若い内侍十余人、舟をしたてて、一日ぶんの船路を送り申す。
暇申したけれど、
「そうはいってもあまりに名残り惜しいので、もう一日」「もう二日」
と仰せになって、都まで連れて来られた。徳大寺殿の屋敷にお迎えなさって、いろいろにもてなし、さまざまの御引き出物をお与えになって、かえされた。
内侍どもは、「ここまでのぼったからには、我らの主人の太上入道殿へどうして参らずにおくべきか」といって、西八条へ参った。
入道相国はいそいで出てきて面会なさって、
「どうした内侍共は、何事があってそろって参ったのか」。
「徳大寺殿のご参詣なさって、七日おこもりになられて、御のぼりましたのを、一日ぶんの船路を送り申しましたら、そうはいってもあまりに名残惜しいので、もう一日、二日と仰せになって、ここまで召し連れられてございます」。
「徳大寺は、何事を祈るために、厳島まで参られたのだろう」とおっしゃると、「大将の御祈のためと、仰せられました」。
その時入道はうなづいて、「ああかわいそうに。都にたいそう尊い霊験ある寺や神社が、いくらもましますのをさしおいて、われらが崇め申し上げる御神へ参って、祈り申されたのは、めったにない感心なことだ。
これほど志が切実であるからには」といって、嫡子小松殿、内大臣の左大将でいらしたのを辞退させ申して、次男宗盛が、大納言の右大将でいらしたのをこえさせて、徳大寺を左大将になされた。
ああ見事にかしこい立ち回りであったことよ。新大納言もこのように賢い立ち回りをなさらないで、つまらない謀反をおこして、わが身も滅び、子息従者にいたるまで、このような悲しい目をご覧になったことは情けないことであった。
語句
■神明法楽 神を楽しませ喜ばせること。 ■今様 七五調四句の当時の流行歌。 ■風俗 諸国の民謡が宮廷音楽として取り入れられたもの。 ■催馬楽 奈良時代の民謡にルーツのある宮廷音楽。 ■郢局(えいきよく) 風俗・催馬楽・今様などの総称。郢は中国楚国の都。歌の名人が多かったという。 ■さぶらふ 「候」の女性語。 ■一日路 一日ぶんの船路。 ■さりとては それでは。ここで別れてしまっては。 ■列参 揃って参ること。 ■あないとほし ああかわいそうなことよ。 ■霊仏霊社 霊験あらたかな寺と神社。 ■嫡子小松殿内大臣の左大将にしてましましけるを辞せさせ奉り 平重盛治承元年(1177)正月左大臣、3月内大臣、6月5日、左大将を辞任。 ■徳大寺を左大将に 治承元年(1179)12月27日左大将。『古今著文集』に、治承元年6月5日、重盛が左大将を辞任したため、徳大寺はその後任になれると期待して願いがかなったら厳島明神に参詣すると願掛けをした、すると12月27日に左大将に任じられた。それで治承3年3月、厳島明神に参詣したとあり、『平家物語』はここからストーリーを組み換えと思われる。
……
徳大寺実定のかしこい立ち回りと比較して、処刑された新大納言成親のやり方のまずかったことを言っています。
徳大寺実定は小倉百人一首の「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」の作者で、この後も『平家物語』終盤まで、たびたび登場します。
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