平家物語 二十八 山門滅亡 堂衆合戦

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『平家物語』巻ニより「山門滅亡 堂衆合戦(さんもんめつぼう どうじゅかっせん)」。

延暦寺の上級の僧「学生」(がくしょう)と下級の僧「堂衆」(どうじゅ)との合戦が続き、比叡山は滅亡の危機にひんしていた。やがて平清盛に堂衆鎮圧の院宣が下り、湯浅権守宗重以下の武士がさし向けられる。

(学生は長年修行してる高位の僧、堂衆は僧兵化していた下級の僧)

あらすじ

後白河法皇が三井寺で真言の灌頂を受けるという話に延暦寺は憤り、三井寺を焼き払うと言い出した。

そのため法皇は三井寺での灌頂を断念。四天王寺に五智光院を建てて灌頂を受けた。

その件はそれですんだが、延暦寺では学生(がくしょう)と・堂衆(どうじゅ)が対立し、たびたび合戦が起こっていた。

(学生は長年修行してる高位の僧、堂衆は僧兵化していた下級の僧)

合戦のたびに学生が負けて、比叡山は滅亡にひんしていた。

そこで延暦寺の大衆が堂衆の非を公家・武家に訴えると、平清盛に院宣が下り、湯浅権守宗重以下の武士が大衆の味方をして堂衆を攻める。

しかし官軍と大衆の連携がうまくいかず、じゅうぶんに戦えない。堂衆は命知らずに戦う。またも学生側が負けた。

原文

さる程(ほど)に、法皇は、三井寺の公顕僧正(こうけんそうじやう)を御師範(ごしはん)として、真言(しんごん)の秘法を伝授(でんじゆ)せさせましましけるが、大日経(だいにちきやう)、金剛頂経(こんごうちやうきやう)、蘇悉地経(そしつぢきやう)、此(この)三部の秘法をうけさせ給ひて、九月四日(よつかのひ)、三井寺にて御灌頂(ごくわんぢやう)あるべしとぞ聞(きこ)えける。山門の大衆憤(いきどほ)り申し、「昔より御灌頂御受戒(おんじゆかい)、みな当山にしてとげさせまします事先規(せんき)なり。就中(なかんづく)に山王の化導(けだう)は、受戒灌頂のためなり。しかるを今三井寺にてとげさせましまさば、寺を一向(いつかう)焼き払うべし」とぞ申しける。法皇是無益(これむやく)なりとて、御加行(おんけぎやう)を結願(けつぐわん)して、おぼしめしとどまらせ給ひぬ。さりながらも猶御本意(なほごほんい)なればとて、三井寺の公顕僧正を召し具して、天王寺へ御幸(ごかう)なツて、五智光院(ごちくわうゐん)をたて、亀井(かめゐ)の水を五瓶(ごびやう)の智水(ちすい)として、仏法(ぶつぽふ)最初の霊地にてぞ、伝法灌頂(でんぱふくわんぢやう)はとげさせましましける。

山門の騒動をしづめられんがために、三井寺にて御灌頂はなかりしかども、山上(さんぢやう)には、堂衆(だうじゆ)、学生(がくしやう)、不快(ふくわい)の事いできて、合戦度々(かつせんどど)に及ぶ。毎度に学侶(がくりよ)うちおとされて、山門の滅亡、朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)とぞ見えし。堂衆と申すは、学生の所従なりける童部(わらんべ)が、法師になツたるや、若(も)しは中間法師原(ちゆうげんぼふしばら)にてありけるが、一年金剛寿院(ひととせこんがうじゆゐん)の座主(ざす)、覚尋権僧正(かくじんごんそうじやう)、治山(ぢさん)の時より三塔(さんたふ)に結番(けつばん)して、夏衆(げしゆ)と号(かう)して、仏に花参らせし者共(ものども)なり。近年行人(きんねんぎやうにん)とて、大衆(だいしゆ)をも事ともせざりしが、かく度々(どど)の戦(いくさ)にうちかちぬ。堂衆等、師主(ししゆ)の命(めい)をそむいて、合戦を企(くはた)つ。すみやかに誅罰(ちゆうばつ)せらるべきよし、大衆、公家(くげ)に奏聞(そうもん)し、武家に触れうツたふ。これによツて、太政入道(だじやうのにふだう)、院宣を承(うけたまは)り、紀伊国(きいくに)の住人、湯浅権守宗重以下(ゆあさのごんのかみむねしげいげ)、畿内(きない)の兵(つはもの)二千余騎、大衆にさしそへて、堂衆を攻めらる。堂衆日ごろは、東陽房(とうやうばう)にありしが、近江国三ケ(おうみのくにさんが)の庄(しやう)に下向して、数多(すた)の勢(せい)を卒(そつ)し、又登山(とうざん)して、さう井坂(ゐざか)に城槨(じやうくわく)を構へて、たてごもる。
同(おなじき)九月廿日(はつかのひ)の辰(たつ)の一点に、大衆(だいしゆ)三千人、官軍二千余騎、都合其勢(そのせい)五千余人、さう井坂におし寄せたり。今度(こんど)はさりともと思ひけるに、大衆は官軍をさきだてんとし、官軍は又大衆をさきだてんとあらそふ程(ほど)に、心々にてはかばかしうもたたかはず。城(じやう)の内より石弓(いしゆみ)はづしかけたりければ、大衆官軍かずをつくいてうたれにけり。堂衆に語(かたら)ふ悪党と云ふは、諸国の窃盗(せつたう)、強盗(がうだう)、山賊(さんぞく)、海賊等(かいぞくら)なり。欲心熾盛(しじやう)にして、死生不知(ししやうふち)の奴原(やつばら)なれば、我一人(われひとり)と思ひきツてたたかふ程(ほど)に、今度も又学生(がくしやう)いくさにまけにけり。

現代語訳

そのうちに、法皇は、三井寺の公顕僧正をご師範として、真言密教の秘宝を伝授なさったが、大日経、金剛頂経、蘇悉地経(そしつじきょう)、この三部の秘宝をお受けになって、(治承元年(1177))九月四日、三井寺にて御灌頂をお受けになるだろうと聞こえた。

山門(比叡山)の大衆は憤り申して、「昔から御灌頂(ごかんじょう)、御受戒(おんじゅかい)は、みな当山でとげられる事が先例である。とりわけ山王権現が教化することは、受戒灌頂のためである。

それを今三井寺でお遂げになられるなら、寺を一切焼き払ってしまえ」と申した。

法皇はこれはつまらない事だと、御加行(おんけぎょう、灌頂の前段階の修行)だけを終えて、灌頂を受けることは思い留まられた。

そうはいってもやはりご本意だからということで、三井寺の公顕僧正を召し連れて、四天王寺へ御幸されて、五智光院をたて、亀亀井の水を五瓶の智水(灌頂の時、頭に注ぐ香水)として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂をとげられた。

山門の騒動をおしずめになるため、三井寺で御灌頂はなかったが、山上では、堂衆(下級僧)と学生(学問・修行を極めた高位の僧)の間に争いごとがおこって、合戦が度々おこった。

毎度に学生が破られて、山門の滅亡は朝廷の御大事と見えた。堂衆と申すのは、学生の従者であった童が法師になったのや、もしくは雑用に使われる妻帯の法師どもであったが、昨年金剛寿院を本院とする座主、覚尋権僧正が、比叡山を統治した時から、三塔に順番に宿直して、夏衆(げしゅ)と号して、それぞれ奉仕している仏に花を参らせた者どもである。

近年、行人(修行者)といって、大衆をも事ともしない勢いだったが、このように度々の戦に勝利した。

堂衆らは、師である僧の命令にそむいて、合戦をくわだてた。みやかに懲らしめ罰すべきことを、大衆が公家に奏聞し、武家に知らせうったえる。

これによって、太上入道、院宣をお受けして、紀伊国の住人、湯浅権守(ゆあさのごんのかみ)宗重(むねしげ)以下、畿内の兵二千余騎を大衆にそえて、堂衆をせめられた。

堂衆は日頃は、東陽坊にあったが、近江国三ケ(さんが)の庄に下り向かって、多くの軍勢を率いて、また比叡山に登って、(比叡山東塔の登り口)早尾坂(そういさか)に城郭を構えて、たてこもる。

同年(治承元年)九月二十日の午前七時半頃、大衆三千人、官軍二千余騎、あわせて総勢五千余人が、早尾坂におし寄せた。

今度はいくらなんでも負けまいと思ったのに、大衆は官軍をさきだてようとして、官軍はまた大衆をさきだてようとしてあらそっているうちに、それぞれ考えがくいちがい、まともに戦わない。

城の内から石弓をはずして石を転がしたので、大衆官軍は数をつくして討たれてしまった。

堂衆に味方する悪党というのは、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊らである。きわめて欲深く、死も生もおそれない連中なので、自分一人でも戦うと思い切って戦っているうちに、今度もまた学生は戦にまけてしまった。

語句

■公顕僧正 寿永元年(1182)園城寺長吏。文治六年(1190)天台座主。 ■真言の秘法 真言密教の秘法。 ■大日経、金剛頂経、蘇悉地経 密教の根本法典。あわせて山部の秘法。大日経と金剛頂経をあわせて両部大経という。 ■九月四日 治承元年(1177)。 ■灌頂 香水(こうずい)を頭に灌ぐ儀式。伝法灌頂。昔、インドで国王の即位式や皇太子の立太式のとき頭に水を灌いだことから。 ■受戒 三摩耶戒(さんまやかい)…密教独自の戒律を授かる儀式。伝法灌頂の前に行われるる。 ■山王の化道 山王権現が衆生を教化し導くこと。「山王権現」は延暦寺の鎮守の社である日枝社で祀られている神々のこと。延暦寺の守り神。 ■御加行 おんけぎょう。灌頂を受ける前段階の修行。 ■結願 けつぐわん。修行を終了すること。 ■天王寺 大坂の四天王寺。用明天皇2年(587)聖徳太子創建と伝える。日本最古の大寺。 ■五智光院 四天王寺の塔頭。灌頂堂とも。治承元年後白河院建立。現存の建物は元和9年(1623)の造営。 ■亀井の水 天王寺境内にある水のひとつ。亀井堂、亀井不動尊が現存。 ■五瓶の智水 ごべいのちすい。五瓶は灌頂の時頭に灌ぐ香水を容れる五つの瓶。智水は如来の智慧に満ちた水で香水のこと。 ■伝法灌頂 密教のもっとも重い儀式。後白河院が伝法灌頂を受けたのは『玉葉』『帝王編年記』によれば文治三年(1187)。 ■堂衆 どうじゅ。比叡山東塔、西塔、横川の三塔にいて雑役にあたった下級の法師。 ■学生 がくしょう。剃髪得度の後、12年間比叡山にこもって天台止観と真言密教を学んだ者。学侶(がくりょ)も同じ。 ■不快の事 不和。 ■中間法師原 雑用にあたった妻帯の法師たち。「原」は「輩」に同じ。 ■金剛寿院 比叡山の堂舎の一。承保3年(1076)後三条天皇の御願により創建。 ■座主 天台座主。比叡山延暦寺のトップ。指導者。覚尋は承保4年2月7日座主。 ■治山 ぢさん。天台座主として比叡山延暦寺を治めること。 ■三塔 東塔・西塔・横川。 ■結番 けつばん。順番に宿直すること。 ■夏衆 げしゅ。4月16日から9月15日までの夏の修行「夏行(げぎょう)」に参加した僧。 ■行人 ぎょうにん。修行者。 ■大衆 比叡山の多くの僧たち。指導的立場の僧たち? ■師主 師匠。 ■湯浅権守宗重 紀伊国有田郡湯浅の住人。 ■東陽坊 西塔北谷にあった僧坊。現存せず。 ■三ケの庄 さんがのしょう。滋賀県大津市下阪本。 ■さう井坂 早尾坂。比叡山への登り口。早尾神社(滋賀県大津市山上町)あたり。 ■辰の一点 午前七時半頃。一点は一(二時間)を4つに分けた時の最初の時間帯。 ■官軍 ここでは清盛の命を受けた湯浅権守宗重以下の畿内の武士たちをいう。大衆に味方しており、堂衆に敵対している。 ■さりともと思ひけるに いくらなんでも負けまいと(大衆・官軍側が)思っていたところ。 ■はかばかしうもたたかはず しっかりと、思う存分戦えない。 ■石弓 石を高所から転げ落とす装置。 ■語ふ 味方する。 ■死生不知 死も生も考えない。命知らず。 

……

前半は後白河法皇が三井寺で真言の灌頂を受けようとしたが延暦寺からクレームがついたので、四天王寺に塔頭の五智光院を建てて、そっちで灌頂を受けたという話。

後半は延暦寺で上級の僧「学生」と下級の僧「堂衆」の間で合戦が続いているという話。

ついに武士が学生側として駆り出されるが、うまく戦えず、結局また学生側が負けるところまでです。

こうしてみると昔から寺というのはロクでもないですね。

朗読・解説:左大臣光永

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