平家物語 三十 善光寺炎上

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『平家物語』巻第ニより「善光寺炎上(ぜんこうじえんしょう)」。

この頃(治承3年(1179))善光寺が炎上した。百済から伝わった弥陀三尊像を安置して善光寺が創建されてから580年あまり。炎上したのはこれが初めてだった。王法(法律や政治)が滅びる前触れかと、人々は噂した。

あらすじ

その頃(治承3年(1179))、信濃の善光寺が炎上した。

この善光寺の本尊は、三尊の弥陀像である。

昔インド中部舎衛国に五種の悪病が起こったとき、月蓋長者という人が竜宮城に行って閻浮壇という川の底から出る砂金を持ち帰り、釈迦とその弟子目連、そして月蓋長者の三人で心を合わせて像を鋳た、その三尊の阿弥陀像、閻浮堤一の霊像である。

釈迦入滅の後、インドに五百年留まっていたが、仏教がインドから東に移るにしたがい、百済国に移り、さらに千年の後、欽明天皇の時代に日本に移った。

しかし、当時の日本は仏教を受け入れるか否かで国論が割れており、この阿弥陀像は摂津国難波浦に投棄された。

投棄されている阿弥陀像が黄金色に輝いていたので仏教推進派は「金光」と勝手に年号をつけた。

金光三年三月、信濃国の住人本太善光という者が都へ上ったときにこの像を見つけ、信濃の国へ持ち帰った。

その途中、昼は善光が阿弥陀像を負い、夜は阿弥陀像が善光を負うという具合で、信濃国水内の郡に安置した。

以来五百八十余年、炎上はこれが初めてのことである。

王法が尽きる時はまず仏法が滅びるという。

「このように霊験深い寺社が多く焼けるのは、平家の世が末になる前兆だろう」と人々は噂した。

原文

其比(そのころ)善光寺炎上の由其聞(きこ)えあり。彼如来(かのによらい)と申すは、昔中天竺(ちゆうてんぢく)、舎衛国(しやゑこく)に、五種の悪病おこツて、人庶(にんそ)おほく亡(ほろ)びしに、月蓋長者(ぐわつかいちやうじや)が致請(ちせい)によツて、竜宮城(りゆうぐうじやう)より、閻浮壇金(えんぶだごん)をえて、釈尊(しやくそん)、目連(もくれん)、長者(ちやうじや)、心を一つにして、鋳(い)あらはし給へり。一ちやく手半(しゆはん)の弥陀(みだ)の三尊(ぞん)、閻浮提(えんぶだい)第一の霊像(れいざう)なり。仏滅度(ぶつめつど)の後、天竺にとどまらせ給ふ事五百余歳、仏法東漸(とうぜん)の理(ことわり)にて、百済国(はくさいこく)にうつらせ給ひて、一千歳(ざい)の後、百済の御門(みかど)、斉明王(さいめいわう)、吾朝(わがてう)の御門、欽明天皇(きんめいてんわう)の御宇(ぎよう)に及んで、彼国(かのくに)よりこの国へうつらせ給ひて、摂津国難波(つのくになんば)の浦にして、星霜(せいざう)をおくらせ給ひけり。常は金色(こんじき)の光(ひかり)をはなたせましましければ、これによツて年号を金光(こんくわう)と号(かう)す。同(おなじき)三年三月上旬に、信濃国(しなののくに)の住人、おうみの本太善光(ほんだよしみつ)と云ふ者、都へのぼりたりけるが、彼如来(かのによらい)に逢(あ)ひ奉りたりけるに、やがていざなひ参らせて、昼(ひる)は善光、如来を負ひ奉り、夜は善光、如来におはれ奉(たてま)ツて、信濃国へ下り、水内(みのち)の郡(こほり)に安置(あんぢ)し奉(たてま)ツしよりこのかた、星霜既(せいざうすで)に五百八十余歳、炎上(えんしやう)の例はこれはじめてとぞ承る。「王法(わうぼふ)つきんとては、仏法まづ亡(ぼう)ず」といへり。さればにや、「さしもやンごとなかりつる霊寺(れいじ)、霊山(れいさん)のおほくほろびうせぬるは、王法末(すゑ)になりぬる先表(さんぺう)やらん」とぞ、申しける。

現代語訳

その頃、善光寺が炎上したという噂が聞こえた。

善光寺の本尊の如来と申すのは、昔中天竺、舎衛国に、五種類の悪病がおこって、人々が多く亡くなった時、月蓋長者の祈願によって、竜宮城から、閻浮壇金(えんぶだごん)を手に入れて、釈尊、目蓮、月蓋長者が心を一つにして、鋳造された。

一尺ニ寸の弥陀の三尊、人間界第一の霊験あらたかな像である。

釈迦が亡くなって後、天竺に留まられること五百余年、仏法がしだいに東に伝わる道理によって、百済国におうつりになり、一千年の後、百済の帝、聖明王が、わが国の帝、欽明天皇の御代になって、その国からこの国へおうつりになって、摂津国(つのくに)難波の浦で、年月を送られた。

いつも金色の光を発せられていたので、これによって私年号を金光と号した。同(金光)三年三月上旬に、信濃国の住人、麻績(おうみ)の本田善光という者が、都へのぼったが、

その如来におあい申したところ、すぐにお誘い申して、昼は善光、如来を背負い申し、夜は善光、如来に背負われ申して、信濃国へ下り、水内(みのち)の郡に安置し申してからこのかた、年月はすでに五百八十余年、炎上の例はこれがはじめとうかがっている。

「王法つきるときは、仏法がまず滅ぶ」という。だからだそうか、「あれほど尊かった霊験あらたかな寺や神社の多く滅び失せたのは、王法が末になる前兆であろう」と、人は申した。

語句

■其比 『善光寺縁起』によると治承3年(1179)3月24日。 ■舎衛国 『善光寺縁起』『延慶本』には毘舎離国とある。 ■「左右ノ眼ヨリ血涙雨と流れ、左右の耳より膿汁出で、鼻より黒血流れ、舌は禁ぜられて言ふこと無く、食する所の物は変わりて麁渋となり、六識閇塞(へいそく)して猶ほ酔人の如し」(『請観音経取意』)。 ■人庶 庶民? ■月蓋長者 インド毘舎離城の長者。国内に疫病が流行ったとき阿弥陀三尊に祈って疫病を退けたという。 ■閻浮壇金 えんぶだごん。須弥山の南の大陸「閻浮堤」の川底から出る砂金。 ■目連 釈迦十代弟子の弟子の一人、目連尊者。神通力をあやつった。「目連、長者」は「目連尊者」の誤りか?「目連と月蓋長者」の意か。 ■一ちやく手半 一やく手は親指と中指を広げた長さ。一やく手半はそれに半分を加える。約36センチ。 ■閻浮堤 古代インドの世界観における人がすむ大陸。須弥山の南にあるので南閻浮堤(なんえんぶだい)とも。須弥山を取り巻く4つの大陸のひとつ。他は東の弗婆提(ほつばだい)=東勝身洲(とうしょうしんしゅう)、西の瞿陀尼(くだに)=西牛貨洲(さいごけしゅう)、北の鬱単越(うったんおつ)=北倶盧洲(ほっくるしゅう)。 ■仏法東漸の理 仏教がインドから中国、朝鮮、日本と東へ伝わったこと。 ■斉明王 聖明王。『日本書紀』欽明天皇13年(552)条に、百済の聖明王がヌリシチケイをもって釈迦像を伝えた記事が見える。聖徳太子の伝記(『上宮聖徳法皇定説』)には538年。 ■金光 私元号。『善光寺縁起』に見え欽明天皇31年(570)に当たる。 ■おうみの本太善光 信濃国伊那郡麻績の里の本田善光(『善光寺縁起』)。 ■水内の郡 長野市のあたり。 ■王法 国王が国を治める秩序。世俗の法律や慣習。 ■先表 せんびょう。先にあらわれるもの。予兆。前ぶれ。

朗読・解説:左大臣光永

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