平家物語 三十四 赦文(ゆるしぶみ)

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『平家物語』巻第三より「赦文(ゆるしぶみ)」。

中宮徳子が懐妊するが、難産であるため悪霊調伏の儀式が持たれ、 鬼界カ島の流人たちにも赦免が下る。

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前回「蘇武」からのつづきです。
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あらすじ

治承二年(1178)の正月が来た。清盛と後白河法皇の確執は深まったままだった。 先年清盛が西光法師を処刑し(「西光被斬」)、大納言成親を流罪に 処したこと(「大納言流罪」)を、後白河法皇はまだ怒っており、清盛も後白河法皇が 鹿谷の陰謀に加担していたことを知って以来、警戒していた。

同七日、東の空に彗星が出た(不吉な前兆)。

そのころ中宮徳子が懐妊し、皇子ご誕生の祈りが熱心に捧げられる。

難産を鎮める儀式の場で、霊媒となる童に悪霊が乗り移る。保元の乱に敗れた讃岐院や藤原頼長、昨年処刑された西光法師、鬼界が島の流人どもの生霊らしい。

清盛は讃岐院の死霊を鎮めるためその墓所に勅旨を送り、「崇徳天皇」という号を送る。 藤原頼長に増官・贈位が行われる。

門脇宰相教盛は、重盛に「鬼界が島の流人たちを召し返すことが一番の功徳です」と提案する(鬼界が島に流された丹波少将成経は教盛の娘婿)。

重盛がこれを清盛に伝えると、清盛はほかの二人は赦したが、俊寛は赦さなかった。

こうして鬼界が島へ、赦免の使者が出発する。

原文

治承(ぢしやう)二季(ねん)正月一日(ひとひのひ)、院御所(ゐんのごしよ)には拝礼(はいらい)おこなはれて、四日(よつかのひ)朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)ありけり。何事も例(れい)にかはりたる事はなけれども、去年(こぞ)の夏、新大納言成親卿以下(しんだいなごんなりちかのきやういげ)、近習(きんじゆ)の人々多くうしなはれし事、法皇御憤(おんいきどほり)いまだやまず。世の政(まつりごと)も物うくおぼしめされて、御心(おんこころ)よからぬことにてぞありける。太政入道(だじやうのにふだう)も、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)が告げ知らせて後は、君をも御(おん)うしろめたき事に思ひ奉ツて、うへには事なき様(やう)なれども、下には用心してにがわらひでのみぞありける。

同(おなじき)正月七日彗星東方(なぬかのひせいせいとうばう)にいづ。蚩尤気(しいうき)とも申す。又赤気(せきき)とも申す。十八日光をます。

さる程に入道相国(にふだうしやうこく)の御娘、建礼門院(けんれいもんゐん)、其比(そのころ)は未(いま)だ中宮と聞(きこ)えさせ給ひしが、御悩(ごのう)とて、雲のうへ天(あめ)が下の歎きにてぞありける。諸寺(しよじ)に御読経始(みどつきやうはじま)り、諸社(しよしや)へ官幣使(くわんぺいし)を立てらる。医家薬(いけくすり)をつくし、陰陽術をきはめ、大法秘法(だいほふひほふ)一つとして残る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。されども御悩(ごなう)ただにもわたらせ給はず、御懐妊(ごくわいにん)とぞ聞えし。

主上今年(しゆしやうこんねん)十八、中宮は廿二にならせ給ふ。しかれどもいまだ皇子(わうじ)も姫宮(ひめみや)も出(い)できさせ給はず。もし皇子にてわたらせ給はば、いかに目立たからんとて、平家の人々は、ただ今皇子御誕生(ごたんじやう)のある様(やう)に、いさみ悦(よろこ)びあはれけり。他家(たけ)の人々も、「平氏の繁昌(はんじやう)折をえたり。皇子御誕生疑(うたがひ)なし」とぞ申しあはれける。御懐妊さだまらせ給ひしかば、有験(うげん)の高僧貴僧(かうそうきそう)に仰せて、大法秘法を修(しゆ)し、星宿仏菩薩(しやうしゆくぶつぼさつ)につけて、皇子御誕生と祈誓(きせい)せらる。六月一日(ひとひのひ)、中宮御着帯(ごちやくたい)ありけり。仁和寺(にんわじ)の御室守覚法親王(おむろしゆうかくほつしんわう)、御参内あツて、孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ)をもツて御加持(おんかじ)あり。天台座主覚快法親王(てんだいざすかくくわいほふしんわう)、同じう参らせ給ひて、変成男子(へんじやうなんし)の法を修(しゆ)せらる。

かかりし程に、中宮は月のかさなるに随(したが)つて、御身を苦しうせさせ給ふ。一たびゑめば百(もも)の媚(こび)ありけん、漢(かん)の李夫人(りふじん)の、昭陽殿(せうやうでん)の病(やまひ)のゆかもかくやとおぼえ、唐(たう)の楊貴妃(やうきひ)、李花一枝(りくわいつし)春の雨をおび、芙蓉(ふよう)の風にしをれ、女郎花(ぢよらうくわ)の露おもげなるよりも、猶(なほ)いたはしき御様(おんさま)なり。かかる御悩(ごなう)の折節(をりふし)にあはせて、こはき御物気共(おんもののけども)取りいり奉る。よりまし、明王(みやうわう)の縛(ばく)にかけて、霊(れい)あらはれたり。殊(こと)には讃岐院(さぬきのゐん)の御霊(ごれい)、宇治悪左府(うぢのあくさふ)の憶念(おくねん)、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)の死霊(しりやう)、西光法師(さいくわうほふし)が悪霊(あくりやう)、鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)共が生霊(しゃうりやう)なンどぞ申しける。是(これ)によツて太政入道、生霊も死霊も、なだめらるべしとて、其比(そのころ)やがて讃岐院御追号(ごついがう)あツて、崇徳天皇(しゆとくてんわう)と号(がう)す。

現代語訳

治承二年正月一日、院御所(法住寺殿)で正月の拝賀式が行われて、4日、天皇が上皇皇太后の御所に行幸された。何事もいつもと変わった事はないけれども、去年の夏、新大納言成親卿以下、近習の人々を多く失われた事は、法皇のお憤りはいまだやまない。世のまつりごとも物うく思われて、ご機嫌よろしくないことであった。

太政入道も、多田蔵人行綱が告げ知らせて後は、君(後白河法皇)の事をも気の許せぬ方であると思い申し上げて、表面上はなんでもない様子であるが、裏では用心して苦笑いばかりしていた。

同じ正月7日、ほうき星が東の方角に出た。蚩尤気(しいうき)とも申す。また赤気(せきき)とも申す。十八日光をます。

そのうちに入道相国の御娘、建礼門院、そのころはいまだ中宮とよばれておられたが、ご病気ということで、雲の上天の下の嘆きであった。あちこちの寺に御読経が始まり、あちこちの神社へ官幣使(幣帛を奉る使者)が遣わされた。医者は薬をつくし、陰陽師はあらゆる術をきわめ、密教の大掛かりな修法や秘伝の修法が一つも残るところなく行われた。

しかしお苦しみはただの病ではあられなかった。ご懐妊ということだった。主上(高倉天皇)は今年十八、中宮は二十ニにおなりになる。それでもいまだ皇子も皇女もお生まれにならない。もし皇子でいらっしゃったら、どんなに目出度いだろうということで、平家の人々は、もうすでに皇子がご誕生あったかのように、いさみ喜びあわれた。

他の家の人々も、「平氏の繁盛は時をえている。皇子ご誕生は疑いない」と申しあわれた。ご懐妊がはっきりお決まりになると、霊験あらたかな高僧貴僧に仰せになって、密教の大がかりな修法・秘密の修法を行い、星々と仏菩薩にかけて、皇子ご誕生と祈られた。

六月一日、中宮は御着帯の儀式をされた。仁和寺の御室守覚法親王がご参内あって、孔雀経の法で加持をなされた。天台座主覚快法親王も同じように参内されて、変成男子の法(胎内の女子が男子にかわるように祈る法)をされた。

こうしている内に、中宮は月のかさなるに従って、御身を苦しくされた。

一度笑めば無限の魅力があったという、漢の李夫人の昭陽殿の病のゆもこのようかと思われ、唐の楊貴妃が、梨の花一枝が春の雨をおび、芙蓉の花が風に吹かれてしおれ、女郎花に露が乗って重たそうなのよりも、さらに痛々しいご様子である。

このようにお苦しみの時にあわせて、恐ろしい御物の怪どもが取りつき申し上げる。よりまし(物の怪を取り付かせる童女・童子)を不動明王の力で捕らえると、霊があらわれた。

中にも讃岐院(崇徳院)の御霊、宇治悪左府(藤原頼長)の恨みを残して死んだその恨み、新大納言成親卿の死霊、西光法師の悪霊、鬼界ヶ島の流人どもの生霊などと申した。

これによって太政入道、生霊も死霊もなだめられるべきだといって、そのころすぐに讃岐院に御追号(死後に号を贈ること)があって、崇徳天皇と号した。

語句

■治承2年 1179年。 ■拝礼 正月元日の拝賀式。 ■朝覲 天皇が年の初め、即位時、元服時に上皇・皇太后の御所に行幸すること。 ■御うしろめたき事に 気の許せないお方だと。 ■彗星 ほうき星。 ■蚩尤気 正しくは蚩尤旗。彗星の一種。これを見ると王者が四方を征伐するという(史記)。兵乱の予感をただよわせている。 ■赤気 蚩尤旗の別名。 ■官幣使 神社に幣帛を奉る使者。 ■大法秘法 「大法」は大規模な修法。「秘法」は秘伝の修法。 ■わたる ある・いる。存在をあらわす。 ■有験 霊験のある。 ■星宿 しやうしゆく。七曜九星二十八宿の総称。星の運行に願かけて皇子誕生を祈った。 ■六月一日 『玉葉』『山槐記』によれば正しくは二十八日。 ■御着帯 妊娠五ヶ月目に腹帯を締める儀式。 ■御室 仁和寺の住寺。初代宇多法皇がいらした仁和寺内の御所を御室とよんだことから。仁和寺そのものをさすことも。 ■守覚法親王 後白河法皇第四皇子。 ■孔雀経の法 『孔雀経』を読んで息災などを祈る修法。 ■加持 仏の加護を願う祈祷。 ■覚快法親王 鳥羽天皇第七王子。56代天台座主。 ■変成男子 へんじやうなんし。胎内の女子を男子に変えること。 ■一たびゑめば… 『長恨歌』の「頭をめぐらして一たび笑めば百媚生ず」をふまえる。 ■漢の李夫人 漢の武帝の后。 ■昭陽殿 中国漢代成帝の築いた宮殿。 ■李花一枝春の雨をおび 『長恨歌』の一句。 ■よりまし 修法により物の怪を取り付かせる人間。よりましの口をかりて物の怪に語らせ、退治したり鎮めたりする。 ■明王の縛にかけて 不動明王の力によって。 ■讃岐院 讃岐に流された崇徳院。 ■憶念 心の奥にとどまっている恨み。 ■追号 死後、号を送ること。崇徳院に讃岐院追号は治承元年(1178)7月29日(玉葉、百錬抄)。頼長に官位が贈られたのも同日。

原文

宇治悪左府、贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)おこなはれて、太政大臣正一位(じやういちゐ)をおくらる。勅使(ちよくし)は少内記惟基(せうないきこれもと)とぞ聞えし。件(くだん)の墓所(むしよ)は、大和国添上郡(やまとのくにそうのかんのこほり)、川上の村、般若野(はんにやの)の五三昧(ござんまい)なり。

保元(ほうげん)の秋ほりおこして捨てられし後は、死骸路(しがいみち)の辺(ほとり)の土となツて、年々にただ春の草のみ茂れり。今(いま)勅使尋ね来(きた)ツて宣命(せんみやう)を読みけるに、亡魂(ばうこん)いかにうれしとおぼしけん。怨霊(をんりやう)は昔もかくおそろしきことなり。されば早良廃太子(さはらのはいたいし)をば、崇道天皇(しゆだうてんわう)と号(かう)し、井上(ゐがみ)の内親王(ないしんわう)をば、皇后(くわうこう)の職位(しきゐ)にふくす。是みな怨霊を宥(なだ)められしはかりことなり。冷泉院(れいぜんゐん)の御物ぐるはしうましまし、花山(くわさん)の法皇(ほふわう)の十善万乗(じふぜんばんじよう)の帝位をすべらせ給ひしは、元方民部卿(もとかたみんぶきやう)が霊なり。三条院の御目も御覧ぜざりしは、観算供奉(くわんざんくぶ)が霊(れい)とかや。

門脇宰相(かどわきのさいしやう)、か様(やう)の事共伝へ聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産(ごさん)の御祈(おんいのり)さまざまに候(さぶらふ)なり。なにと申し候とも、非常の赦(しや)に過ぎたる事あるべしともおぼへ候はず。中にも鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)共、召しかへされたらんほどの、功徳善根争(くどくぜんごんいか)でか候べき」と申されければ、小松殿、父の禅門(ぜんもん)の御まへにおはして、「あの丹波少将(たんばのせうしやう)が事を、宰相(さいしやう)のあながちに歎(なげ)き申し候が不便(ふびん)に候。中宮御悩(ごなう)の御こと、承(うけたまは)り及ぶごとくんば、殊更成親卿が死霊(しりやう)なンど聞え候。大納言が死霊をなだめんとおぼしめさんにつけても、生きて候少将(せうしやう)をこそ召しかへされ候はめ。人の思(おもひ)をやめさせ給はば、おぼしめす事もかなひ、人の願(ねがひ)をかなへさせ給はば、御願(ごぐわん)もすなはち成就(じやうじゆ)して、中宮やがて皇子御誕生(わうじごたんじやう)あツて、家門の栄花弥(えいぐわいよいよ)さかんに候べし」なンど申されければ、入道相国日ごろにも似ず、事の外(ほか)にやはらいで、「さてさて俊寛(しゆんくわん)と康頼法師(やすよりほふし)が事はいかに」。「それも同じう召しこそかへされ候はめ。若(も)し一人(いちにん)も留(とど)められんは、なかなか罪業(ざいごふ)たるべう候」と申されければ、「康頼法師が事はさる事なれども、俊寛は随分(ずいぶん)入道が口入(こうじゆ)をもツて、人となツたる者ぞかし。それに所しもこそ多けれ、わが山庄(さんざう)、鹿(しし)の谷(たに)に城郭(じやうくわく)をかまへて、事にふれて奇怪(きツくわい)のふるまひ共がありけんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞ宣(のたま)ひける。小松殿かへツて、叔父(をじ)の宰相殿(さいしやうどの)よび奉り、「少将はすでに赦免(しやめん)候はんずるぞ。御心やすうおぼしめされ候へ」と宣へば、宰相手をあはてせぞ悦(よろこ)ばれける。「下りし時も、などか申しうけざらんと思ひたりげにて、教盛(のりもり)を見候度(たび)ごとには、涙をながし候ひしが、不便(ふびん)に候」と申されければ、小松殿、「まことにさこそおぼしめされ候らめ。子は誰とてもかなしければ、よくよく申し候はん」とて入り給ひぬ。

さる程に鬼界が島が島の流人共、召しかへさるべき事さだめられて、入道相国ゆるし文(ぶみ)下されけり。御使(おんつかひ)すでに都をたつ。

宰相あまりのうれしさに、御使に私(わたくし)の使(つかひ)をそへてぞ下されける。よるを昼にしていそぎ下れとありしかども、心にまかせぬ海路(かいろ)なれば、浪風(なみかぜ)をしのいで行く程に、都をば七月下旬(げじゆん)に出でたれども、長月廿日比(ながづきはつかごろ)にぞ、鬼界が島には着きにける。

現代語訳

宇治悪左府には官位が贈られ、太政大臣正一位が贈られた。勅使は少内記維基(しょうないきこれもと)ということであった。

件の墓所は、大和国添上郡(そうのかんのこほり)の川上の村、般若野の五三昧(畿内の五つの埋葬地)である。

保元の秋ほりおこして捨てられた後は、死骸が路のほとりの土となって、年々にただ春の草だけが茂っている。今勅使が尋ね来て宣命(天皇の書状)を読んだところ、死者の霊はどんなにか嬉しいと思われたことだろう。

怨霊は昔もこのように恐ろしいことであった。だからこそ早良廃太子を崇道天皇と号し、井上内親王(光仁天皇后で位を廃された)を皇后の位に戻したのだ。これは皆、怨霊を宥められた方策である。

冷泉院が物狂いのようにしていらっしゃり、花山法皇が十善をたもった結果として万乗の車をあやつるほどの畏れ多い帝王の位をお下りになったのは、藤原元方卿の怨霊のせいである。

三条院の御目も御覧になることができなかったのは、桓算という僧の霊とかいうことだ。

門脇宰相(教盛)はこのようなことを伝えきいて、小松殿に申されることは、「中宮御産の御祈がさまざまに行われているそうですね。なんと申しましても非常の恩赦に過ぎた事はあるまいと思います。

中にも鬼界ヶ島の流人らを召し返されるほどの功徳善行をつみ果報の因となることはどうしてございましょう」と申されたところ、小松殿は、父の禅門の御前にいらして、

「あの丹波少将の事を、宰相(教盛)がしきりに嘆き申してございますのが不憫にございます。中宮お苦しみの御こと、聞き及んでおります通りだとしましたら、とくに成親卿の死霊などと聞こえてございます。大納言の死霊をなだめようとお思いになるにつけても、生きてございます少将をお召し返しになるのがよいでしょう。人の思いをやめさせなされば、お思いになる事もかない、人の嘆きをかなえさせなされば、御願もすぐに成就して、中宮はすぐに皇子ご誕生あって、家門の栄華はいよいよ盛んとなるでございましょう」などと申されたところ、入道相国はいつもにも似ず、事の外におだやかになって、

「さあそれでは、俊寛と康頼法師の事はどうしよう」。

「それも同じくお召し返しになるのがよいです。もし一人でも留め置かれるのは、かえって罪業が深るなることでございます」と申されたところ、

「康頼法師の事はそれでいいが、俊寛は随分入道の口ききによって、人となった者であるぞ。それに場所も多いのに、わが山荘、鹿の谷に城郭をかまえて、何かにつけてけしからん振る舞いを色々としていたので、俊寛を許すことは思いもよらない」とおっしゃった。

小松殿は帰って、叔父の宰相殿(教盛)をお呼び申し上げて、「少将はすぐに赦免されましょうぞ。ご安心ください」とおっしゃると、宰相は手をあわせてお喜びになる。

「(丹波少将が配所に)下った時も、どうして私が貰い受けないのかと思っている様子で、教盛を見ますたびごとに、涙を流してございましたのが不憫でございました」と申されたところ、小松殿、「ほんとうにそのように思われることでございましょう。子は誰でも可愛いので、よくよく申しておきましょう」といって奥へお入りになった。

その内に鬼界ヶ島の流人たちが召し返される事が決まり、入道相国が赦免状を下された。御使はすでに都を出発した。宰相はあまりにうれしくて、御使に私的な使をそえて下された。夜を昼についで急いで下れということだったが、心のままにならない海路なので、波風をしのいで行くうちに、都を七月下旬に出たが、長月二十日頃、鬼界ヶ島についた。

語句

■少内記維基 藤原維基。「少内記」は詔勅・宣命を起草・清書する役人。 ■般若野 奈良市北部。奈良阪の南。般若寺がある。 ■五三昧 畿内にあった五か所の火葬場。「五三昧所(ごさんまいしょ)」の略。ほかは鳥辺野、船岡山など。 ■路の辺の土となッて… 「古墓何レノ代ノ人ゾ、姓ト名トヲ知ラズ。化シテ路傍ノ土トナツテ、年々春草生ズ」(白氏文集・ニ・続古詩十首)。 ■宣命 天皇の文書。 ■早良廃太子 桓武天皇の弟早良親王。謀反の疑いを立てられ、淡路島に流される途中、乙訓で餓死した。 ■井上の内親王 聖武天皇皇女で光仁天皇后。謀反の疑いで謀殺された。 ■皇后の職位にふくす 皇后の位にもどした。 ■冷泉院 冷泉天皇。藤原元方の怨霊により物狂いのしるしがあったと『栄花物語』に。 ■花山の法皇 花山天皇。藤原兼家の策略により、譲位した。父冷泉院とおなじく狂気の気があったという。 ■十善万乗の帝位 天子の位。十善戒(十悪をしないという戒め)をたもった功徳によって、帝王の位に生まれたと。万乗は兵車万乗を出したことで天子の支配力の大きいことをさす。 ■元方民部卿 藤原元方。菅根の子。娘を村上天皇に嫁がし、一宮広平親王がうまれたが、冷泉院が東宮となったため広平親王は東宮になれなかった。それで恨みをふくんで死んだ。死後、冷泉院、花山院に祟ったと『栄花物語』に。 ■三条院の御目も御覧ぜらりしは… 三条院は眼病をわずらった。 ■観算供奉 くわんざんくぶ。桓算という僧が物の怪となって、三条院の目を覆ったと『大鏡』に。供奉は宮中の道場に奉仕する僧。 ■非常の赦 犯罪者に恩赦を出し人民に租税を免除すること。 ■功徳善根 功徳・善行をつんでよい果報の因とすること。 ■あながちに しきりに。 ■口入 こうじゆ。口きき。世話をすること。 ■事にふれて 何かにつけて。 ■宰相 門脇宰相平教盛。丹波少将の舅。 ■ゆるし文 赦免状。

補足

中宮徳子が懐妊して、しかし難産である。なかなか生まれないと。それはどうも、物の怪が祟っているらしいと。

保元の乱で破れた讃岐院、宇治悪左府藤原頼長、鹿谷事件で処刑された新大納言成親、西光法師、そして鬼界が島に流された流人どもの生霊…

こういった諸々の物の怪が祟っているので、恩赦を行いましょうという話になって、しかしそこで、清盛が俊寛ひとりを赦さなかったことが、次の悲劇につながっていくわけですね。

注目したいのは、安徳天皇、みなさまご存知のように、壇ノ浦でおばあさんの二位の尼に抱かれて、海に沈むという悲痛な最期を迎えます。

だから安徳天皇の最期に向けて、誕生の時点から、不吉な伏線をはりめぐらしているわけです。彗星が出たり。怨霊の話など、出産というめでたい場面にふさわしくもないドヨドヨした話題をちりばめることで、

安徳天皇の悲痛な最期に向かっていく伏線を、作者ははりめぐらせているんですね。

般若野の五三昧で宇治の悪左府に正一位太政大臣の位を贈る宣命が読み上げられたとあります。

五三昧というのは、平安京の周辺に五つの火葬場があったんですね。そのうちのひとつが般若野で、今の奈良市の北、平城山を超えていったところで、般若寺というお寺があります(コスモスの名所です)。

境内は宇治悪左府藤原頼長の碑が立っています。

次回「足摺」に続きます。

朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永

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