平家物語 三十六 御産(ごさん)

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平家物語巻第三より「御産巻(ごさん)」。

中宮徳子が懐妊し、多くの人々が見守る中、皇子(後の安徳天皇)が誕生した。

前回「足摺」からのつづきです。
https://roudokus.com/HK/HK035.html

あらすじ

丹波少将成経、康頼法師の二人は恩赦で罪を許され、鬼界が島を出て肥前国加瀬の庄に着いた。

平宰相教盛の薦めにより、二人はここにしばらく留まって、春になって都へ帰ることにする。

治承二年(1178)十一月十二日、中宮徳子が産気づく。お産は、平頼盛の邸宅、六波羅の池殿で行われることになった。

後白河法皇、関白藤原基房をはじめ、身分ある人々はこぞって参上した。

先例にのっとり、中宮御産の時恩赦が行われたが、俊寛一人赦されなかったのは気の毒なことだった。

安産を願って、多くの寺社に使いが送られる。

小松の大臣重盛は、物事に動揺しない人で、嫡子権亮少将維盛以下の公達を従え、 馬に引き出物をのせて参上した。

これは昔、藤原道長がその娘中宮彰子御産の時、馬を送った例にならったものである。

徳子が入内する時は父の清盛は出家していたので、 それでは天皇にお仕えすることができないということで、徳子は形式上重盛を父とした。

父が娘に馬を送るという藤原道長の例にならったのは、理にかなったことだった。

安産を祈って、さまざまな祈りが行われたが、徳子は陣痛が続くばかりで、清盛も、二位殿(清盛の妻)もおろおろする。

修行僧たちが悪霊退散の祈りを上げる中に、後白河法皇はみずから千手経を唱えられた。

すると、悪霊が取り付いていた童(よりまし)が急におさまる。

後白河法皇が「どんな悪霊でもこの老法師がいるうちは近づけない」と凄み、安産を祈ると、無事に皇子がご誕生した。

後の安徳天皇である。

重衡が安産を告げると、その場に集まっていた人々は、歓声を上げた。

清盛は悦びのあまり涙を流した。

重盛は桑の弓、蓬の矢で四方を射て、災いを払った。

原文

さる程に此人々(このひとびと)は、鬼界(きかい)が島(しま)を出でて、平宰相(へいざいしやう)の領、肥前国鹿瀬庄(かせのしやう)に着き給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風(なみかぜ)はげしう、道の間もおぼつかなう候に、それにてよくよく身いたはツて、春になツて上り給へ」とありければ、少将鹿瀬庄にて年を暮す。

さる程に、同年(おなじきとし)の十一月十二日の寅剋(とらのこく)より、中宮御産(ごさん)の気(き)ましますとて、京中六波羅(ろくはら)ひしめきあへり。御産所(ごさんじよ)は、六波羅池殿(いけどの)にてありけるに、法皇も御幸(ごかう)なる。関白殿を始め奉ツて、太政大臣以下(だいじやうだいじんいげ)の公卿殿上人、すて世に人とかぞへられ、官加階(くわんかかい)にのぞみをかけ、所帯所職(しよたいしよしよく)を帯(たい)する程の人の、一人(いちにん)ももるるはなかりけり。先例も女御后(にようごきさき)御産の時にのぞんで、大赦(だいしや)おこなはるる事あり。大治(だいぢ)二年九月十一日、待賢門院(たいけんもんゐん)御産の時、大赦ありき。其例(そのれい)とて、今度も重科(ぢゆうくわ)の輩(ともがら)、おほくゆるされける中に、俊寛僧都(そうづ)一人、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。御産平安(ごさんへいあん)、王子御誕生ましまさば、八幡(やはた)、平野(ひらの)、大原野(おほはらの)なンどへ行啓(ぎやうけい)なるべしと、御立願(ごりふぐわん)ありけり。全玄法印(せんげんほふいん)、是(これ)を敬白(けいひやく)す。神社は太神宮を始め奉ツて、廿余ケ所、仏寺(ぶつじ)は東大寺、興福寺以下(こうぶくじいげ)、十六ケ所に御誦経(みじゆぎやう)あり。御誦経の御使(おつかひ)は、宮の侍(さぶらひ)の中に、有官(うくわん)の輩(ともがら)是をつとむ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)に、帯剣(たいけん)したる者共が、色々の御誦経物(みじゆぎやうもつ)、御剣(ぎよけん)、御衣(ぎよい)を持ちつづいて、東(ひんがし)の台(たい)より南邸(なんてい)をわたツて、西の中門に出づ。目出たかりし見物(けんぶつ)なり。

小松のおとどは、例の善悪(ぜんあく)にさわがぬ人にておはしければ、其(その)後遥(はる)かに程へて、嫡子権亮少将(ちやくしごんのすけぜうしやう)以下、公達(きんだち)の車共、みなやりつづけさせ、色々の御衣四十領(りやう)、銀剣(ぎんけん)七つ、広蓋(ひろぶた)におかせ、御馬(おんうま)十二疋(ひき)引かせて参り給ふ。是は寛弘(くわんこう)に上東門院(しやうとうもんゐん)御産の時、御堂殿(みだうどの)、御馬を参らせられし、其例とぞ聞えし。このおとどは、中宮の御せうとにておはしけるうへ、父子の御契(おんちぎり)なれば、御馬参らせ給ふも理(ことわり)なり。五条大納言邦綱卿(ごでうだいなごんくにつなんきやう)、御馬二疋進ぜらる。心ざしのいたりか、徳のあまりかとぞ人申しける。なほ伊勢より始めて、安芸(あき)の厳島(いつくしま)にいたるまで、七十余ケ所へ神馬(じんめ)を立てらる。大内(おほうち)にも竜(りよう)の御馬に四手(しで)つけて、数(す)十疋(ぴき)ひツたてたり。仁和寺御室(にんわじのおむろ)は孔雀経(くじやくきやう)の法、天台座主覚快法親王(かくくわいほつしんわう)は七仏薬師(ぶつやくし)の法、寺の長史円恵法親王(ちやうりゑんけいほつしんわう)は金剛童子(こんがうどうじ)の法、其外(そのほか)五大虚空蔵(こくうざう)、六観音(くわんおん)、一字金輪(きんりん)、五壇の法、六字加輪(かりん)、八字文殊(もんじゆ)、普賢延命(ふげんえんめい)にいたるまで、残る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。護摩(ごま)の煙(けぶり)、御所中にみち、鈴(れい)の音(おと)雲をひびかし、修法(しゆほふ)の声(こゑ)、身の毛よだツて、いかなる御物(おんもの)の気(け)なりとも、面(おもて)をむかふべしとも見えざりけり。猶仏所(ぶつしよ)の法印に仰(おほ)せて、御身等身(ごしんどうじん)の七仏楽師、幷(なら)びに五大尊(ごだいそん)の像を造り始めらる。

現代語訳

そのうちにこの人々は、鬼界ヶ島を出て、平宰相(教盛)の所領地である、肥前国鹿瀬庄にお着きになった。

宰相が京より人を下して、

「年内は波風激しく、道中もあぶなくございますので、そこでよくよく身をいたわって、春になってお上りください」

とあったので、少将は鹿瀬庄でその年を過ごした。

そのうちに、同年(治承二年1179年)の十一月十二日の寅刻(午後3時-5時頃)から、中宮御産の気があられるということで、京中六波羅さわぎあった。御産所は、六波羅池殿であったが、法皇も御幸あった。

関白殿をはじめ太政大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人と数えられ、官位昇進に望みをかけ、財産官職をもつほどの人で、一人ももれる者はなかった。

先例としても、女御后の御産の時にのぞんで、大赦がおこなわれた事がある。

大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦あった。その例ということで、今度も罪の重い者どもが多く許された中に、俊寛僧都一人、赦免のなかったことは情けないことであった。

御産が平安に行われ、皇子がご誕生なされば、八幡、平野、大原野などの神社へ行啓されようと、願立てをなさった。全玄法印がこれを謹んでお読み申し上げた。

神社は伊勢大神宮をはじめ二十余箇所、寺は東大寺、興福寺以下、十六箇所で御誦経が行われた。御誦経の御使は、中宮の侍の中に、官職のある連中がこれをつとめた。

三色に色分けされた狩衣に、剣を帯びた者どもが、色々のお布施、御剣や御衣を持ってつづいて、東の露台から南庭を横切って、西の中門に出る。すばらしい見ものであった。

小松の大臣(重盛)は、いつも事のよきにつけ悪しきにつけ動揺しない人でいらしたので、その後はるかに時が経ってから、嫡子権亮少将(維盛)以下、公達の多くの車を皆続けて向かわせ、いろいろの御衣四十領、銀剣七つ、広蓋の器におかせ、御馬十二疋ひかせて参上された。

これは寛弘5年(1008)に上東門院(藤原彰子)御産の時、御堂殿(藤原道長)が、御馬を献上された、その例にならったということだった。

この大臣は、中宮の兄君でいらっしゃる上、父子の御約束をかわされているので、御馬を献上なさったのも道理である。

五条大納言邦綱卿は、御馬ニ疋進上された。気遣いの深いためか、財産がありあまっているせいかと人は申した。

やはり伊勢から始めて安芸の厳島にいたるまで、七十余所へ神馬を立てられた。内裏にも馬寮の御馬に幣をつけて、数十疋ひったてた。

仁和寺御室は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、園城寺(三井寺)の長吏(長官)円恵法親王は金剛童子の法、そのほか五代虚空蔵、六観音、一度金輪、五壇の法、六時河輪、八字文殊、普賢延命にいたるまで、残るところなく修法が行われた。

護摩の煙が御所所にみち、金剛鈴の音は雲をひびかし、修法の声は身の毛がよだつほどで、どんな御物の怪でも、顔を向けるわけがないと思えた。なお仏師の多い地域(七条大宮や六条万里小路)の法印(最高位の僧)に仰せになって、等身大の七仏薬師、ならびに五大尊の像を造りはじめられた。

語句

■鹿瀬庄 佐賀市嘉瀬町周辺。 ■同年 治承二年(1179)。建礼門院御産の件は『玉葉』『山槐記』にも。 ■池殿 清盛の弟、頼盛の邸。 ■官加階 官位昇進。 ■所帯所得 財産・官職。 ■大赦 ここでは非常の赦の意。罪人の罪を赦し、人民に租税を免除する。 ■大治二年 1127年9月11日、白河法皇皇子、雅仁親王(後白河)誕生。 ■待賢門院 鳥羽天皇皇后、璋子。崇徳天皇、後白河天皇の母。 ■八幡・平野… 八幡は八幡市の石清水八幡宮、平野は北区の平野神社、大原野は西京区の大原野神社。 ■全玄法印 藤原実明の子。寿永3年(1184)天台座主。「法印」は僧侶の最高位。 ■敬白 願文を謹んでお読み申し上げること。 ■太神宮 伊勢大神宮。 ■御誦経 みじゆぎやう。僧侶に読経させること。 ■宮の侍 中宮に仕える侍。 ■有官の輩 官があって蔵人所の職員を兼ねるもの。 ■ひやうもん 「狂紋」「表紋」「白紋」。紋のうちを三色に色分けしたもの。 ■東の台 屋根のない露台。 ■善悪にさわがぬ人 よいことでも悪いことでも動揺しない人。 ■広蓋 贈り物を載せる入れ器。 ■寛弘 寛弘5年(1008)道長の娘彰子が敦成親王(後一条天皇)を産んだ時のこと。『紫式部日記』に詳しい。 ■御堂殿 藤原道長。晩年に法誠寺の御堂を建てたため。 ■邦綱卿 清盛の支持者。五条大納言。「祇園女御」に詳しい。 ■徳のあまりか 財産がありあまっているためか。 ■神馬 じんめ。神の乗り物として奉納する馬。 ■竜の御馬 寮の御馬。馬寮で飼われている馬。 ■四手 幣。細かく切った白い神や布。 ■孔雀経の法 『孔雀経』などを読んで行う修法。 ■七仏薬師の法 『薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)』や『薬師如来本願経』を読んで行う修法。「七仏薬師」とは『薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)』や『薬師如来本願経』にある、薬師如来を主体とした七尊の仏。 ■寺の長吏 園城寺の長官。 ■円恵法親王 後白河法皇第五皇子。八条宮。 ■金剛童子の法 金剛童子を祀る三井寺の秘法。金剛童子は金剛杵(しょ)に秘められた威力を具現化した、忿怒(ふんぬ)形の童子。阿弥陀仏の化身とされる。 ■五大虚空蔵法 五代虚空蔵曼荼羅を本尊として行う修法。 ■六観音 六観音をまつる修法。六観音は聖・千手・馬頭・十一面・不空羂索(ふくうけんさく)・如意輪。 ■一字金輪 金剛仏頂尊(一字頂輪王)を祀る修法。仏頂尊は。 如来の肉髻(頭頂部にある盛り上がり)を仏としてあらわしたもの。 ■五壇の法 不動を中心に降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉を東西南北に配して行う法。 ■六字加輪 六字河臨法。六字の真言を唱えて調伏と息災を修する修法。 ■八字文殊 八字を真言とする文殊菩薩を祀る修法。 ■普賢延命 普賢延命菩薩を本尊として行う修法。 ■護摩 密教で護摩木を炊き身を悪を滅する修法。 ■鈴 れい。金剛鈴。密教で使う法具。 ■修法 密教で壇をもうけて行う加持祈祷の法。 ■仏所 仏師が多くすむところ。七条大宮、六条万里小路など。 ■五大尊 不動、降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉。 

原文

かかりしかども、中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御産(ごさん)もとみになりやらず。入道相国と二位殿は、胸に手をおいて、こはいかにせんいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、ただ、「ともかうも、よき様(やう)によき様に」とぞ宣(のたま)ひける。「さりともいくさの陣ならば、是程浄海(じやうかい)は、臆せじ物を」とぞ、後には仰せられける。御験者(ごげんじや)は、房覚(ばうかく)、昌雲(しやううん)、両僧正、俊堯(しゆんげう)法印、豪禅(がうぜん)、実全(じつせん)、両僧都、おのおの僧伽(そうが)の句共あげ、本寺本山の三宝(ぽう)、年来所持(しよぢ)の本尊達、責めふせ責めふせもまれけり。誠にさこそはと覚えて、たツとかりける中に、法皇は折しも新熊野(いまぐまの)へ御幸なるべきにて、御精進(おんしやうじん)の次(つい)でなりける間、錦帳(きんちやう)ちかく御座あツて、千手経(せんじゆきやう)をうちあげうちあげあそばされけるにこそ、今一(ひと)きは事かはツて、さしも踊(をど)りくるふ御(おん)よりまし共が縛(ばく)もしばらくうちしづめけれ。法皇仰せなりけるは、「いかなる御物気(もののけ)なりとも、この老法師(おいぼふし)がかくて候はらんには、争(いか)でかちかづき奉るべき。就中(なかんづく)に今あらはるる処(ところ)の怨霊(をんりやう)共は、みなわが朝恩(てうおん)によツて、人となツし者共ぞかし。たとひ報謝(ほうしや)の心をこそ存ぜずとも、豈障碍(あにしやうげ)をなすべきや。速(すみ)やかにまかり退(しりぞ)き候へ」とて、「女人生産(によにんしやうさん)しがたからん時にのぞんで、邪魔遮障(じやましやしやう)し、苦(く)忍びがたからんにも、心をいたして大非呪(だいひしゆ)を称誦(しようじゆ)せば、鬼人(きじん)退散して、安楽に生ぜん」と、あそばいて、皆水精(みなずいしやう)の御数珠(おんじゆづ)、おしもませ給へば、御産平安(ごさんへいあん)のみならず、皇子にてこそましましけれ。

頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、其時(そのとき)はいまだ中宮の亮(すけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内よりつツと出でて、「御産平安、皇子御誕生(みこごたんじやう)候ぞや」と、たからかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、おのおのの助修(じよしゆ)、数輩(すはい)の御験者(おんげんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ)、典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上堂下(たうしやうたうか)一同にあツと悦(よろこ)びあへる声、門外(もんぐわい)までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞ泣かれける。悦泣(よろこびなき)とは是(これ)をいふべきにや。小松殿、中宮の御方(おかた)に参らせ給ひて、金銭(きんせん)九十九文、皇子の御枕(おんまくら)におき、「天をもツて父とし、地をもツて母とさだめ給へ。御命(おんいのち)は方士東方蒴(ほうじとうばうさく)が齢(よはひ)をたもち、御心(おんこころ)には天照太神(てんせうだいじん)入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬(よもぎ)の矢にて、天地四方を射させらる。

現代語訳

このようにしたが、中宮は休みなくお苦しみになるばかりで、御産も急に終わらない。入道相国、二位殿、胸に手を置いて、これはどうしたことかどうしたことかと慌てられた。

人が物を申したけれども、ただ、「とにかく、よき様によき様に」とおっしゃった。

「それにしても戦の陣ならば、これほど浄海は、臆しない物を」と、後には仰せられた。

御験者(法を行う僧)は、房覚、昌雲の両僧正、俊堯(しゆんげう)法印、豪禅(がうぜん)、実全(じつせん)の両僧正、それぞれ付け加えの句を多く唱えて、本山本寺の仏や長年所持している本尊たちに、強く迫って、中宮をお護りした。

本当にそのように効能があるのだろとう思われてありがたかった中に、法皇はちょうどその頃、新熊野神社へ御幸なるであろうということで、御精進のついでであったので、中宮がおやすみになっている床の周囲の錦帳ちかくにお座りになり、千手経をあげて読経されたのは、今ひときわ様子が変わって、ああも踊り狂っている御よりましたちの縛もしばらく鎮められた。

法皇が仰せになることは、

「どんな御物の怪であっても、この老法師がこのようにございますからには、どうして中宮に近づき申し上げることができようか。特に今あらわれている所の怨霊どもは、みなわが皇室の恩によって、人となった者でもであるぞ。たとえ恩に報いる心こそ持たないとしても、どうして災いをなしてよいことがあろうか。すみやかに退きなさい」

といって、

「女人が出産しがたい時に臨んで、悪鬼が邪魔して、苦しみが耐え難いとしても、心をつくして大悲呪の陀羅尼(呪文)を唱えれば、鬼神は退散して、安楽に生まれるだろう」

と、経をお読みになって、総水晶づくりの御数珠、おしもまれると、御産平安のみならず、皇子でいらっしゃった。

頭中将重衡、その時はいまだ中宮の亮(次官)でいらしたが、御簾の内からすっと出て、「御産平安、皇子ご誕生でございますぞ」と、高らかに申されたところ、法皇を始め、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、それぞれの助手の僧、数多くの御験者、陰陽寮の長官、典薬寮の長官、すべて昇殿をゆるされた殿上人もそれ以下の人も、一同にあッと喜びあう声が門の外まで響きわたって、しばらく鎮まらなかった。

入道相国はあまりのうれしさに、声をあげて泣かれた。喜び泣きとはこれを言うのであろうか。小松殿は中宮の御方に参上なさって、金貨九十九紋、皇子の御枕におき、「天をもって父とし、地をもって母とお定めください。御命は方士東方朔の齢をたもち、御心には天照大神が入りかわりください」といって、桑の弓に蓬の矢をつがえて、天地四方を射させた。

語句

■しきらせ給ふ お苦しみになる。 ■とみに 急に。 ■御験者 ごげんじや。祈祷を行い霊験をあらわす僧。 ■僧伽の句 祈祷の際に付け加える句。本尊を称えるもの。 ■三宝 仏・法・僧。 ■責めふせ 強く迫って。 ■新熊野 平安京にある熊野神社。京都市東山区。永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請して創設。 ■錦帳 中宮が伏している床の周囲の錦の帳。 ■よりまし 悪霊・悪鬼をとりつかせる人間。 ■朝恩 皇室の恩。 ■女人生産しがたからん時に… 『千手経』の一節。「女人が出産するとき、鬼神が邪魔しにきて、苦しみが我慢できないほどであったが、陀羅尼(呪文)を唱えると、鬼神が退散して、安楽に生まれる」の意。 ■あそばいて 千手経をお読みになって。 ■皆水晶 ぜんぶ水晶の数珠。 ■中宮の亮 中宮職の次官。 ■助修 補佐の僧。 ■陰陽頭 陰陽寮の長官。陰陽寮は中務省に属し、天文・卜占・暦などを扱う。 ■典薬頭 典薬寮の長官。典薬寮は宮内省に属し医療・調薬などを扱う。 ■天をもッて父とし… 「王者は天を父とし、地を母とし天子となる」(白虎通・一)。 ■東方朔 漢の武帝の時代の方士(仙術を行う者)。西王母の桃を食らっため罰を受け地上に追放されたとされる。不老長寿であると。 ■桑の弓 「国君ニ世子生ルレバ、君ニ告グ…射人、桑弧、蓬矢六ヲ以テ、天地四方ヲ射ル」(『礼記』内則篇)。

……

中宮徳子が皇子、後の安徳天皇を産む場面でした。出産に際して、清盛があたふたとおちつかない様子がいいですね。

「さりともいくさの陣ならば、是程浄海は、臆せじ物を」

…戦場では敵をバンバンぶっ殺してヒーローな俺様。しかし娘の出産でこれほど取り乱すとは!

実感のこもった、よいセリフと思います。

朗読・解説:左大臣光永

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