平家物語 三十七 公卿揃(くぎやうぞろへ)

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『平家物語』巻第三より「公卿揃(くぎょうぞろえ)」。

中宮徳子の御産に際し、いくつかの「不思議」…異常な出来事が語られる。それは一つ一つは大したことでないが、後になると、思い当たることが多いものだった。

前回「御産」からのつづきです。
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あらすじ

中宮徳子の御産に際し、乳母として前右大将宗盛の北の方にかわって平大納言時忠卿の北の方、帥佐殿(そつのすけどの)が参じられた。

後白河法皇は安産祈願の祈祷を終えると御所に帰っていかれた。

今度の御産に異常な出来事が多かった。

まず法皇みずからが験者をつとめられたこと。

次に后ご出産の時、庇から甑(こしき)を転げ落とす習慣があるが、皇子ご誕生には南へ落とし、皇女ご誕生に北へおとすのを、いったん北に落としたため、やり直して南へ落としたこと。

次に七人の陰陽師を召して千度の御祓をすることになったが、その中に掃部頭時晴(かもんのかみ ときはる)という老人が、右の沓が脱げてしまい、冠までも突き落とされてしまったこと。

若い公卿・殿上人はそれを見て笑ったが、陰陽師などは足を踏み降ろす時でもいい加減にはやらないもの。それなのにこのような珍事があったのは、当時は意味がわからなかったが、後になって思い当たる事も多かった。

御産に際して六波羅においでになる人々は、関白松殿(藤原基房)、太政大臣妙音院殿(藤原師長)、左大臣大炊御門(経宗)、右大臣月輪殿(九条兼実)以下の33人であった。

原文

御乳(おんち)には、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)の北の方と定められしが、去(さんぬる)七月に、難産(なんざん)をしてうせ給ひしかば、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)の北の方、帥佐殿(そつのすけどの)、御乳に参らせ給ひけり。後には帥(そつ)の典侍(すけ)とぞ申しける。法皇やがて還御(くわんぎよ)の御車(おんくるま)を門前に立てられたり。入道相国(にふだうしやうこく)うれしさのあまりに、砂金(しやきん)一千両、富士(ふじ)の綿(わた)二千両、法皇へ進上せらる。しかるべからずとぞ、人々内々(ないない)ささやきあはれける。

今度の御産に、勝事(しようし)あまたあり。まづ法皇の御験者(おんげんじや)。次に后(きさき)御産の時、御殿(ごてん)の棟(むね)より、甑(こしき)をまろばかす事あり。皇子(わうじ)御誕生には南へおとし、皇女(くわうによ)誕生には北へおとすを、是(これ)は北へ落したりければ、「こはいかに」とさわがれて、取りあげて落しなほしたりけれども、あしき御事に人々申しあへり。

をかしかりしは入道相国のあきれざま、目出たかりしは小松のおとどのふるまひ、ほいなかりしは、前ノ右大将宗盛卿の、最愛の北の方におくれ給ひて、大納言ノ大将両職を辞して、籠居(ろうきよ)せられたりし事。兄弟共に出仕あらば、いかに目出たからん。次には七人の陰陽師(おんやうじ)を召されて、千度(せんど)の御祓(おはらひ)仕るに、其中(そのなか)に掃部頭時晴(かもんのかみときはる)という老者(ろうしや)あり。所従(しよじゆう)なンども乏少(ぼくせう)なりけり。余りに人参りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如し。「役人(やくにん)ぞ、あけられよ」とて、おし分け参る程(ほど)に、右の沓(くつ)をふみぬかれて、そこにてちツと立ちやすらふが、冠(かぶり)をさへつきおとされぬ。さばかりの砌(みぎり)に、束帯(そくたい)ただしき老者(らうしや)が、もとどりはなツてねり出でたりければ、わかき公卿殿上人、こらへずして一同どツとわらひあへり。陰陽師(おんやうじ)なンどいふは、反陪(へんばい)とて、足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、其時はなにとも覚えざりしかども、後にこそ思ひあはする事共も多かりけれ。

御産によツて六波羅(ろくはら)へ参らせ給ふ人々、関白松殿(まつどの)、太政大臣妙音院(めうおんゐん)、左大臣大炊御門(おほひのみかど)、右大臣月輪殿(つきのわどの)、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房(さだふさ)、五条大納言邦綱(くにつな)、籐大納言実国(さねくに)、按察使資賢(あんざツしすけかた)、中御門中納言宗家(なかのみかどのちゆうなごんむねいへ)、花山院中納言兼雅(かねまさ)、源中納言雅頼(がらい)、権中納言実綱(さねつな)、籐中納言資長(すけなが)、池中納言頼盛(いけのちゆうなごんよりもり)、左衛門督(さゑもんのかみ)時忠、別当忠親(べつたうただちか)、左の宰相中将実家(さねいへ)、右の宰相中将実宗(さねむね)、新宰相中将通親(みちちか)、平宰相教盛(のりもり)、六角宰相家通(ろくかくのさいしやういへみち)、堀河宰相頼定(ほりかはのさいしやうよりさだ)、左大弁宰相長方(さだいべんのさいしやうながかた)、右大弁三位俊経(うだいべんのさんみとしつね)、左兵衛督成範(さひやうゑのかみしげのり)、右兵衛督光能(うひやうゑのかみみつよし)、皇太后宮大夫朝方(くわうだいこくうのだいぶともかた)、左京大夫脩範(さきやうのだいぶながのり)、太宰大弐親信(だざいのだいにちかのぶ)、新三位実清(さねきよ)、已上(いじやう)三十三人、右大弁の外(ほか)は直衣(ちよくい)なり。不参の人々には、花山院前太政大臣忠雅公(くわさんのゐんのさきのだいじやうだいじんただまさこう)、大宮大納言隆季卿以下(おほみやのだいなごんたかすゑのきやういげ)十余人、後日(ごにち)に布衣着(ほういちやく)して、入道相国の西八条亭(にしはちでうのてい)へむかはれけるとぞ聞えし。

現代語訳

乳母には、前右大将宗盛卿の北の方と決まっていたが、去年七月に、難産をしてお亡くなりだったので、平大納言時忠卿の北の方、帥佐殿が乳母に参られた。

後には帥の典侍(すけ)と申した。法皇はすぐに還御の御車を門前に立てられた。入道相国はうれしさのあまり、砂金一両、富士の綿二千両、法皇へ進上された。こういうこと(家臣に与えるように法皇に物を贈る)はしてはならないと、人々は内々にささやきあわれた。

今度の御産に、異常なことがたくさんあった。まず法皇が御験者をつとめられたこと。次に后御産の時、御殿の棟から、甑を転げ落とす事がある。皇子ご誕生には南へおとし、皇女誕生には北へおとすのを、これは北に落としたので、「これはどうしたことか」とお騒ぎになって、取り上げて落としなおしたけれど、わるい事に人々は申しあった。

おかしかったのは入道相国の慌てっぷり、立派だったのは小松の大臣のふるいまい。残念だったのは前右大将宗盛り卿の、最愛の北の方に死に遅れなさって、大納言兼大将の両方の職を辞して、ひきこもられた事。

兄弟ともに出仕したら、どんなに見事だっただろう。

次には七人の陰陽師を召されて、千度の御祓の祝詞を上げさせたところ、その中に掃部頭時晴という老人がいた。

従者も乏しかった。あまりに人が多く参って集まっていて、筍が密生したようで、稲・麻・竹・葦が群生したようであった。

「役人である。あけられよ」といって、おし分けおし分け参る内に、右の沓をふみぬかれて、そこでちょっと立ち止まっていたが、冠さえ突き落とされてしまった。

これほどの大事な場面で、束帯を正しく着た老人が、もとどりを解いてもっさり歩み出したので、若き公卿殿上人は、がまんできずに一同どっと笑いあった。

陰陽師などというものは、返陪(へんばい)といって、足さえも無駄に踏まないと伺っている。それにこのような異常な事態があったのを、その時は何とも思わなかったけれども、後に思いあわせる事も多くあった。

御産によって六波羅へ参上なさった人々は、関白松殿(まつどの)、太政大臣妙音院(めうおんゐん)、左大臣大炊御門(おほひのみかど)、右大臣月輪殿(つきのわどの)、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房(さだふさ)、五条大納言邦綱(くにつな)、籐大納言実国(さねくに)、按察使資賢(あんざツしすけかた)、中御門中納言宗家(なかのみかどのちゆうなごんむねいへ)、花山院中納言兼雅(かねまさ)、源中納言雅頼(がらい)、権中納言実綱(さねつな)、籐中納言資長(すけなが)、池中納言頼盛(いけのちゆうなごんよりもり)、左衛門督(さゑもんのかみ)時忠、別当忠親(べつたうただちか)、左の宰相中将実家(さねいへ)、右の宰相中将実宗(さねむね)、新宰相中将通親(みちちか)、平宰相教盛(のりもり)、六角宰相家通(ろくかくのさいしやういへみち)、堀河宰相頼定(ほりかはのさいしやうよりさだ)、左大弁宰相長方(さだいべんのさいしやうながかた)、右大弁三位俊経(うだいべんのさんみとしつね)、左兵衛督成範(さひやうゑのかみしげのり)、右兵衛督光能(うひやうゑのかみみつよし)、皇太后宮大夫朝方(くわうだいこくうのだいぶともかた)、左京大夫脩範(さきやうのだいぶながのり)、太宰大弐親信(だざいのだいにちかのぶ)、新三位実清(さねきよ)、以上三十三人、右大弁のほかは平服であった。

参上しなかった人々には、花山院前太政大臣忠雅公(くわさんのゐんのさきのだいじやうだいじんただまさこう)、大宮大納言隆季卿(おほみやのだいなごんたかすゑのきやう)以下十余人、後日、平服を着て、入道相国の西八条亭に向かわれたと聞いている。

語句

■御乳 乳母。 ■帥佐殿 佐は典侍(さぬきのすけ)と同じ。帥は父藤原顕時が大宰権帥だったから。 ■典侍 すけ。内侍司の次官。 ■富士の綿 駿河国富士郡からとれた綿。 ■しかるべからず 清盛がまるで臣下に与えるように法皇に品物を与えたのは、よくないの意。 ■勝事 しようし。異常な出来事。 ■甑をまろばかす 出産のとき屋根から甑を落とすのはこの頃のまじないの一種(徒然草・六十一段)。 ■是は北へ落としたれば 『山槐記』にも同様の記述あり。 ■ほいなし 残念である。 ■大納言ノ大将 大納言かつ大将。 ■千度の御祓 払いの祝詞を千度上げること。 ■掃部頭時晴 安倍時晴。『山槐記』によると時晴は主税助であり掃部頭ではない。掃部頭は安倍季弘。掃部頭は掃部寮の長官。掃部寮は朝廷諸行事の設営を司った。 ■たかんなをこみ 筍をつめこむ。 ■稲麻竹葦 たうまちくゐ。『法華経』方便品に「亦た十方界に満ちて其の数竹林の如し…稲麻竹葦の如し」による。稲と麻、竹と葦が入り乱れていることから、ごちゃごちゃと入り乱れていること。 ■砌 大事な場面。 ■ねり出す ゆっくり歩み出るさま? ■返陪 陰陽道で悪い方角を踏み破る呪法。 ■松殿… 「松殿」は藤原基房。「妙音院」は藤原師長。「左大臣大炊御門」は藤原経宗、「月輪殿」は藤原兼実。「左大将実定」は後徳大寺(藤原)実定。以下、貴族の名前。 ■直衣 ちょくい。のうし。天皇や貴族の平服。 ■布衣 ほうい。無紋の狩衣。朝服に対する平服。任官せず無位無官であることをいうことも。

朗読・解説:左大臣光永

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