平家物語 三十八 大塔建立(だいたふこんりふ)

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『平家物語』巻第三より「大塔建立(だいとうこんりゅう)」。

平家一門に皇子ご誕生あったのも、厳島信仰が関係している。昔、清盛が高野山の大塔を修理した時、弘法大師があらわれ、厳島も修理せよとお告げがあった。清盛がお告げに従って厳島を修理したところ、平家に栄華が授けられた。

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前回「公卿揃」からのつづきです。
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あらすじ

清盛の娘徳子が皇子を出産し(「御産」)平家と朝廷の結びつきもいよいよ強まった。

御出産祝いの法会の最終日に勧賞(官位や所領を与えること)が行われた。

入道相国夫婦ともに皇子の誕生を安芸の厳島明神に祈ってきたその祈りが実り、まことにめでたいことだった。

平家が安芸の厳島を信仰するようになったいきさつは、鳥羽院の時代、清盛がまだ安芸守だった頃、領地からの収入で高野の大塔を修理せよと命じられ6年かけて修理を終えた。

さて修理が終わり清盛が高野の奥の院(弘法大師の廟)に参詣すると不思議な老人が現れた。

「高野の大塔のついでに厳島神社も修理すれば昇進は思うままだぞ」などと語り、立ち去った。後をつけさせると、三町ほど行って見えなくなった。

さては弘法大師であろうと清盛は尊く思い、高野の金堂に曼陀羅を描かせた。西曼陀羅は常明法印という絵師に描かせ東曼荼羅は自分の頭の血を絵の具として描いた。

清盛は都へ登りこのいきさつを鳥羽院に報告した。鳥羽院はたいそう喜び清盛の安芸国司としての任期を延ばし厳島神社を修理させた。

修理が終わり清盛が厳島神社へ参詣しそこで一晩を明かしたとき、夢の中に天童(天の使いの童子)があらわれ「これをもって国を治め、朝家を守れ」と小長刀を授ける。

目覚めて後枕元を見ると現実にその小長刀があり、その天童も立っていた。

「もし悪行があれば繁栄は子孫までは及ばないぞ」と言って大明神は天に上がっていかれた。

原文

御修法(みしゆほふ)の結願(けつぐわん)に、勧賞共(けんじやうども)おこなはる。仁和寺御室(にんわじのおむろ)は、東寺修造(しゆざう)せらるべし。幷(なら)びに後(ご)七日の御修法、大元(たいげん)の法(ほふ)、灌頂(くわんぢやう)、興行(こうぎやう)せらるべき由(よし)仰せ下さる。御弟子覚成(おんでしかくじやう)僧都、法印に挙(きよ)せらる。座主宮は(ざすのみや)は、二品幷(なら)びに牛車(ぎつしや)の宣旨(せんじ)を申させ給ふ。仁和寺御室ささへ申させ給ふによツて、法眼円良(ほふげんゑんりやう)、法印になさる。其外(そのほか)の勧賞(けんじやう)共、毛挙(もうきよ)に暇(いとま)あらずとぞきこえし。中宮は日数(ひかず)へにければ、六波羅(ろくはら)より内裏へ参らせ給ひけり。此(この)御娘后(きさき)にたたせ給ひしかば、入道相国夫婦(ふうふ)共に、あはれいかにもして、皇子御誕生あれかし、位につけ奉り、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とあふがれんとぞねがはれける。わがあがめ奉る安芸(あき)の厳島(いつくしま)に申さんとて、月まうでを始めて、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊(ごくわいにん)あツて、思ひのごとく皇子にてましましけるこそ目出たけれ。

抑(そもそも)平家の安芸の厳島を信じ始められける事はいかにといふに、鳥羽院の御宇(ぎよう)に清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸国をもツて、高野(かうや)の大塔(だいたふ)を修理(しゆり)せよとて、渡辺の遠藤六郎頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付けられ、六年に修理終ンぬ。修理終ツて後、清盛高野(かうや)へのぼり、大塔をがみ、奥院(おくのゐん)へ参られたりければ、いづくより来(きた)るともなき老僧(らうそう)の、眉(まゆ)には霜(しも)をたれ、額(ひたひ)に浪(なみ)をたたみ、かせ杖(づゑ)の二(ふた)またなるにすがツて、いでき給へり。良(やや)久しう御物語せさせ給ふ。「昔よりいまにいたるまで、此山(このやま)は密宗(みつしゆう)をひかへて退転(たいてん)なし。天下(てんか)に又も候はず。大塔すでに修理終り候ひたり。さては安芸(あき)の厳島(いつくしま)、越前の気比(けひ)の宮は、両界(りやうがい)の垂跡(すいしやく)で候が、気比の宮はさかへたれども、厳島はなきが如くに荒れはてて候。此次(ついで)に奏聞(そうもん)して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階(くわんかかい)は、肩をならぶる人もあるまじきぞ」とて、立たれけり。此老僧の居給へる所、異香(いきやう)すなはち薫(くん)じたり。人を付けてみせ給へば、三町ばかりはみえ給ひて、其後(そののち)はかき消(け)つやうに失せ給ひぬ。ただ人(びと)にあらず、大師にてましましけりと、弥(いよいよ)たツとくおぼしめし、娑婆世界(しやばせかい)の思出(おもひで)にとて、高野の金堂(こんだう)に、曼陀羅(まんだら)を書かれけるが、西曼陀羅(さいまんだら)をば、常明法印(じやうみやうほふいん)といふ絵師に書かせらる。東曼陀羅(とうまんだら)をば、清盛書かんとて、自筆(じひつ)に書かれけるが、何とか思はれけん、八葉(はちえふ)の中尊(ちゆうぞん)の宝冠(ほうくわん)をば、わが首(かうべ)の血をいただいて書かれけるとぞ聞えし。

さて都へのぼり、院参(ゐんざん)して、此由奏聞(そうもん)せられければ、君もなのめならず御感あツて、猶任(にん)をのべられ、厳島を修理せらる。鳥居(とりゐ)を立てかへ、社々(やしろやしろ)を作りかへ、百八十間(けん)の廻廊(くわいろう)をぞ造られける。修理終ツて、清盛厳島へ参り、通夜(つや)せられたりける夢に、御宝殿(ごほうでん)の内より、鬢(びんづら)結うたる天童(てんどう)の出でて、「これは大明神の御使(おつかひ)なり。汝(なんぢ)この剣(けん)をもツて、一天四海をしづめ、朝家(てうか)の御まもりたるべし」とて、銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)したる小長刀(こなぎなた)を給はるといふ夢をみて、覚めて後見給へば、うつつに枕がみにぞたツたりける。大明神御宣託(ごたくせん)あツて、「汝(なんぢ)知れりや忘れりや、ある聖(ひじり)をもツていはせし事は、但(ただ)し悪行(あくぎやう)あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神あがらせ給ひぬ。目出たかりし事共なり。

現代語訳

御修法の結願(最終日)には、賞が下される。仁和寺御室は、東寺を修造せよ、また後七日(正月八日から宮中で行う修法)、大元の法(大元師明王を本尊とする修法)、灌頂をとりおこなわれるようにと仰せ下された。

御弟子の覚成僧都は法印に昇進させられた。

座主宮(天台座主覚快法親王)は、ニ品ならびに牛車の宣旨(牛車に乗ったまま大内裏の門を出入りしてよいという宣旨)をお申し出なさった。

しかし仁和寺御室が異議申し上げなさったため、そのかわりに法眼円良が法院にされた。

その他に賞が下されたのは、いちいち細かく挙げることもできないということであった。

中宮は日数が経ったので、六波羅から内裏へ参られた。この御娘が后にお立ちになったので、入道相国夫婦ともに、ああなんとしても、皇子がご誕生あってほしい、位におつけ申し上げて、外祖父、外祖母と仰がれようと願はれた。

自分たちがあがめ申し上げる安芸の厳島にお願い申そうということで、月詣でを始めて、祈り申されたところ、中宮はすぐにご懐妊あって、願ったとおり皇子にていらっしゃるのはすばらしいことであった。

そもそも平家が安芸の厳島を信じ始められた事はどういうことかというと、鳥羽院の時代に、清盛公がいまだ安芸守だった時、安芸国の収入で高野山の多宝塔を修理せよといって、渡辺の遠藤六郎頼方を修理の担当者になさっていて、六年で修理が終った。

修理が終わって後、清盛は高野山にのぼり、大塔をおがみ、奥の院へ参られたところ、どこから来たともしれない老僧で、眉には霜が垂れ、額には浪をたたみこみ、かせ杖の先が二股に分かれたのにすがって、出てこられた。

ややしばらく御物語なさった。「昔から今にいたるまで、この山は密教を支えて衰退しません。天下に二つとございません。大塔はすでに修理し終わりました。ところで安芸の厳島、越前の気比の宮は、大日如来の垂迹でございますが、気比の宮は栄えているが、厳島はなきがごとくに荒れ果ててございます。このついでに奏上して、修理されてください。せめてそうしてくださるなら、立身出世は肩を並べる人もないでしょうよ」

といって、お立ちになった。この老僧のいらした所には、この世のものとは思えない香がすぐに香った。

人をつけさせて見せられると、三町ばかりはお見えになって、その後はかき消えるようにいなくなられた。

ただ人ではない。弘法大師でいらっしゃると、ますます尊く思われ、現世の思い出にといって、高野山の金堂に、曼荼羅を書かれたが、西曼荼羅(金剛界曼荼羅)を、常明法印という絵師に書かせられた。

東曼荼羅を、清盛が書こうといって、自筆で書かれたが、何と思われたのだろう、八葉の中尊たる大日如来の宝冠を、自分の首の血を出して書かれたということだった。

さて都へのぼり、院参して、この事を(鳥羽上皇に)奏上したところ、上皇もなみなみならずお感じになられ、なお安芸守の任期を延長され、厳島を修理させられた。

鳥居を建てかえ、社々を作りかえ、百八間の回廊を造られた。修理終わって、清盛は厳島に参り、夜通し参籠なさった時の夢に、御宝殿の内から、みずらを結った天童が出て、

「これは大明神の御使いである。お前はこの剣で一天四海をしずめ、朝廷の御まもりとなれ」といって、銀の蛭巻した小長刀を賜るという夢を見て、覚めた後、ごらんになると、本当に枕の上にその剣が立て掛けてあった。

大明神はご託宣を下されて、「お前は覚えているか忘れたか、ある聖をもって言わせた事は。ただし悪行があれば、子孫まではかなわないであろうことだぞ」といって、大明神はお去りになった。すばらしい事であった。

語句

■御修法 みしゆほふ。中宮御産を祈る修法。 ■結願 日を定めて行う法会の最終日。またはその日の修法。 ■仁和寺御室 守覚法親王。 ■東寺 京都市南区の教王護国寺。平安京遷都とともに造営され、嵯峨天皇により空海に与えられた。 ■後七日の御修法 宮中の真言院で、正月八日から国家鎮護・五穀豊穣を願って行われる修法。 ■大元の法 大元師明王(だいげんすいみょうおう)とを本尊として鎮護国家を願い宮中で行われる修法。大元師明王は国家守護の明王。あらゆる明王の長ということで大元帥と称される。 ■覚成僧都 藤原忠宗の子。 ■座主宮 覚快法親王。鳥羽上皇の第7皇子。 ■二品 親王の位。一品から四品まである。 ■牛車の宣旨 牛車に乗り大内裏十二門を出入りできるという宣旨。 ■ささへ申させ給ふ 異議を申し上げなさった。 ■法眼円良 藤原仲実の子。七仏薬師法結願の賞として法印にされた(山槐記・玉葉)。 ■毛挙に暇あらず いちいち細かいことまで書きつくせない。 ■六波羅より内裏へ 治承2年(1178)十一月二十ニ日夜。 ■月まうで 毎月参詣すること。 ■清盛いまだ安芸守たりし時 久安ニ年(1146)-保元元年(1156)。近衛天皇の御代。 ■安芸国をもッて 安芸国からの収入によって。 ■高野の大塔 高野山の多宝塔。弘仁十年(819)建立。 ■雑掌 ここでは修理の担当者。 ■奥院 弘法大師の廟所。 ■いづくより… 以下、清盛が不思議な老人から託宣を受けた話は『古事談』五にも。 ■かせ杖 鹿杖。先が二またになったつえ。または上部がT字になった杖。 ■ひかえて 支えて ■退転 衰退。 ■さては ところで。 ■気比の宮 福井県敦賀にある気比神宮。 ■両界 金剛界と胎蔵界の両界。また両界の主である大日如来。 ■さだにも候はば せめてそうだけでもしてくれれば。 ■高野の金堂 大塔西南隅。弘法大師建立の金堂。 ■西曼荼羅 金剛界曼荼羅。 ■東曼荼羅 胎蔵界曼荼羅。西曼荼羅と東曼荼羅をあわせて両界曼荼羅という。 ■八葉の中尊 八葉の蓮華に坐した仏たちの中央の仏(中尊)である大日如来。 ■宝冠 仏のいただく冠。通常、如来は悟りを開いた者であるので宝冠や装身具はつけないが、大日如来は特別な如来であるということで宝冠や装身具をつける。 ■任を延べられ 通常四年の国司の任期を延長された。 ■百八十間 間は柱と柱の間。 ■鬢 びんづら。みづら。髪を左右の耳のあたりで束ねたもの。 ■銀の蛭巻したる 刀や長刀の柄に蛭が巻き付いたように銀の装飾をしたもの。

次の章「三十九 頼豪

朗読・解説:左大臣光永

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