平家物語 三十九 頼豪(らいがう)

本日は『平家物語』巻第三より「頼豪(らいごう)」です。

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白河天皇(在位1073-1087)の時代、三井寺の頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)は皇子誕生の祈願をして成就させた褒美として三井寺への戒壇建造を望みますが、断れたため、断食の末に餓死します。平家物語本編より100年ほど昔の出来事です。

前回「大塔建立」からのつづきです。
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あらすじ

白河天皇は御最愛の后、賢子(けんし)との間に皇子の誕生を強く望み、高僧と 聞こえの高い三井寺の頼豪阿闍梨に依頼する。

頼豪阿闍梨は皇子誕生を願い百日間の祈りを捧げ、 その甲斐あってか皇子が誕生する。

白河天皇が褒美を尋ねると、頼豪は三井寺に戒壇を立てることを 所望した。

(戒壇…僧に戒を授けるための儀式を行う祭壇のことで、 前々から三井寺が望んでいた)

これを許せば比叡山との間でいさかいになることは目に見えていたため、白河天皇は許されなかった。

頼豪は口惜しく思い、三井寺に帰り食を断って餓死しようとした。

驚いた白河天皇は、頼豪の檀家である美作守大江匡房(みまさかのかみ おおえの まさふさ)を遣わします。

美作守が頼豪の宿房に行ってみると、頼豪は 「自分が取り出した皇子なのだ。所望が叶わないなら魔道へ道連れにする」と 恐ろしげに祈願していた。

美作守はなすすべもなく都へ帰りこれを報告する。

すぐに頼豪は餓死した。

それに続いて頼豪の祈り通り皇子は病気になり、承暦元年八月六日還らぬ人となった。

敦文の親王(あつふんの しんのう)とは、この皇子のことである。

白河天皇はお嘆きになり、比叡山の円融房の僧都良信(後の大僧正) を召して、どうすべきか尋ねると、

良信は比叡山に帰って百日祈願する。

すると中宮は御懐妊され、めでたく皇子が御誕生した。後の堀河天皇である。

このように怨霊の祟りは昔から恐ろしいもので、今回も皇子ご誕生にあたり 大赦を行ったといっても俊寛一人許さなかったのは禍根を残すことだった。

治承二年十二月八日(本当は十五日)、皇子(言仁親王)は二歳で東宮に立たれた。後の安徳天皇である。

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原文

白川院御在位(しらかはのゐんございゐ)の御時、京極大殿(きやうごくのおほどの)の御娘、后(きさき)にたたせ給ひて、賢子(けんし)の中宮とて、御最愛ありけり。主上此御腹(しゆしやうこのおんばら)に、皇子御誕生あらまほしうおぼしめし、其比有験(そのころうげん)の僧と聞えし、三井寺の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)を召して、「汝(なんぢ)此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ。御願成就(ごぐわんじやうじゆ)せば、勧賞(けんじやう)はこふによるべし」とぞ仰せける。「やすう候」とて三井寺にかへり、百日肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈り申しければ、中宮やがて百日のうちに御懐妊あツて、承保(しようほう)元年十二月十六日、御産平安、皇子御誕生ありけり。君なのめならず御感(ぎよかん)あツて、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「汝所望の事はいかに」と仰せ下されければ、三井寺に戒壇建立(かいだんこんりふ)の事を奏す。主上、「これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望なれ。一階僧正(いつかいそうじやう)なンどをも申すべきかとこそおぼしめしつれ。凡(およ)そは皇子御誕生あツて、祚(そ)をつがしめん事も、海内無為(かいだいぶゐ)を思ふためなり。今汝(なんぢ)が所望達せば、山門いきどほツて、世上しづかなるべからず。両門合戦して、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。

頼豪口惜(くちを)しい事なりとて、三井寺にかへツて、ひ死(じに)にせんとす。主上大きにおどろかせ給ひて、江帥匡房卿(がうぞつきやうぼうのきやう)、其比は未(いま)だ美作守(みまさかのかみ)と聞えしを召して、「汝は頼豪と、師壇(しだん)の契(ちぎり)あんなり。ゆいてこしらへて見よ」と仰せければ、美作守綸言(りんげん)を蒙(かうぶ)ツて、頼豪が宿坊(しゆくぼう)に行きむかひ、勅定(ちやくじやう)の趣(おもむき)を仰せ含めんとするに、以(もつ)ての外(ほか)にふすぼツたる持仏堂(ぢぶつだう)にたてごもツて、おそろしげなるこゑして、「天子には戯(たはぶれ)の詞(ことば)なし、綸言汗のごとしとこそ承(うけたまは)れ。是程(これほど)の所望かなはざらんにおいては、わが祈りだしたる皇子なれば、取り奉ツて、魔道(まだう)へこそゆかんずらめ」とて、遂に対面もせざりけり。美作守帰り参ツて、此由を奏聞す。頼豪はやがてひ死(じに)に死ににけり。君いかがせんずると、叡慮(えいりよ)をおどろかせおはします。皇子やがて御悩(ごなう)つかせ給ひて、さまざまの御祈(おんいのり)共ありしかども、かなふべしともみえさせ給はず。白髪(はくはつ)なりける老僧の、錫杖(しやくぢやう)もツて、皇子の御枕にたたずむと、人々の夢にも見え、まぼろしにも立ちけり。おそろしなンどもおろかなり。

さる程に承歴(しようりやく)元年八月六日(むゆかのひ)、皇子御年四歳にて遂にかくれさせ給ひぬ。敦文(あつふん)の親王是(これ)なり。主上なのめならず御嘆(おんなげき)ありけり。山門に又、西京(さいきやう)の座主(ざす)、良真大僧正(りやうしんだいそうじやう)、其比(そのころ)は円融坊(ゑんゆうぼう)の僧都(そうづ)とて、有験(うげん)の僧(そう)と聞えしを、内裏へ召して、「こはいかがせんずる」と仰せければ、「いつも我山(わがやま)の力にてこそ、か様(やう)の御願(ごぐわん)は成就する事で候(さうら)へ。九条右丞相(くでうのうしようじやう)、慈恵大僧正(じゑだいそうじやう)に契(ちぎ)り申させ給ひしによツてこそ、冷泉院(れいぜんゐん)の皇子御誕生は候ひしか。やすい程の御事候(ざうらふ)」とて、比叡山(ひえいざん)にかへりのぼり、山王大師に、百日肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈り申しければ、中宮やがて百日の内に御懐妊あツて承歴(しようりやく)三年七月九日(ここのかのひ)、御産平安、皇子御誕生ありけり。堀河天皇(ほりかわのてんわう)是なり。怨霊(をんりやう)は昔もおそろしき事なり。今度さしも目出たき御産に、大赦(だいしや)はおこなはれたりといへども、俊寛僧都一人(いちにん)、赦免なかりけるぞうたてけれ。

同(おなじき)十二月八日(やうかのひ)、皇子東宮(とうぐう)にたたせ給ふ。傅(ふ)には小松内大臣、大夫(だいぶ)には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。

現代語訳

白河院御在位の御時、京極大殿=藤原師実の御娘が后にお立ちになられ、賢子(けんし)の中宮といって、ご最愛なさった。

天皇はこの中宮の御腹に皇子がご誕生あることをお望まになり、その頃効験あらたかな僧と聞こえた、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「お前がこの后の腹に、皇子ご誕生を祈り申せ。御願成就すれば、賞を下すことは願うがままである」と仰せになった。

「たやすいことでございます」といって、三井寺に帰り、百日真心をつくして祈り申したところ、中宮はすぐに百日のうちにご懐妊あって、承保元年(1074)十二月十六日、平安に御産はすみ、皇子がご誕生された。

天皇はなみなみらなずご感心されて、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「お前が所望する事はなにか」と仰せ下されたところ、三井寺に戒壇を建立してほしい事を奏上した。

天皇は、

「これは意外な所望であるな。一階級とばして僧正になることなどを申すに違いないと思ったのだ。いったい皇子ご誕生あって位を継がせる事も、国内の平安を思うためである。今お前の所望がかなえば、延暦寺がいきどおって、世の中はおだやかでなくなる。山門(比叡山)・寺門(園城寺)が合戦して、天台の仏法が滅びるであろう」といって、御ゆるされもなかった。

頼豪は口惜しい事であるといって、三井寺に帰って、断食の末に死のうとした。天皇は大いに驚かれて、大宰権帥大江匡房、その頃はいまだ美作守と聞こえていたのを召して、

「お前は頼豪と、師檀(仏法の師と、それに金銭などをおさめる信者)の契があるという。行って説得してみろ」

と仰せになったので、美作守は天子のお言葉を受けて、頼豪の宿坊に行き向かい、天皇の仰せの内容を言いきかせようとしたが、予想外に護摩の煙がくすぶっている持仏堂にたてこもって、恐ろしげな声で、

「天子には戯れの言葉はない。天子の言葉は汗のように一度出たら二度と戻せないとうかがっている。これくらいの所望もかなわないのであれば、私が祈り出した皇子であるので、お取り申し上げて、魔道へ行くであろう」といって、ついに対面もしなかった。

美作守は帰って天皇の御前に参って、このことを奏上した。頼豪はすぐに餓死した。天皇はどうしたものかと、お心をおどろかせになった。

皇子はすぐに病の床におつきになり、さまざまの御祈があったけれど、効果があろうともお見えにならない。

白髪の老僧が、錫杖を持って皇子の御枕にたたずむと、人々の夢にもみえ、まぼろしにも立った。恐ろしいという言葉さえ生ぬるいほどに恐ろしい。

そのうちに、承暦元年(1077)八月六日、皇子御年四歳でついにお亡くなりになった。敦文(あつふん)の親王がこれである。

天皇はなみなみならずお嘆きになられた。山門(延暦寺)にまた、西京(さいきょう)の座主、良真大僧正、そのころは円融房の僧都といって、効験あらたかな僧と聞こえていたのを、内裏に召して、

「これはどうしたのか」と仰せになると、

「いつも我が山の力で、このような御願は成就することでございます。九条右丞相=右大臣藤原師輔が、慈恵大僧正に契り申しあげなさったことによって、後に冷泉院となる皇子がご誕生になったのでした。たやすい事でございます」

といって、比叡山に帰りのぼり、山王大師に、百日真心をつくして祈り申したところ、中宮はすぐに百日のうちにご懐妊あって、承暦三年(1079)七月九日、平安のうちに御産あって、皇子がご誕生あった。堀河天皇がこれである。

怨霊は昔も恐ろしい事である。今度このように目出度い御産に、大赦は行われたといっても、俊寛僧都一人、赦免のなかったのは情けないことであった。

同年十二月八日、皇子は東宮にお立ちになられた。東宮補佐には小松内大臣(重盛)、東宮房の長官には中納言頼盛卿ということだった。

語句

■京極大殿 藤原師実。摂政・関白・太政大臣。 ■賢子 けんし。藤原賢子。源顕房の娘で、師実の猶子となる。延久3年(1071)東宮時代の白河院の后となり、承保元年(1074)中宮、承暦3年(1079)後の堀河天皇を産む。応徳元年(1084)崩御。28歳。白河院最愛の后であった。 ■頼豪阿闍梨 藤原有家の子。三井寺に入り阿闍梨となる。 ■肝胆を摧いて 真心を尽くして。熱心に祈る時の慣用表現。 ■承保元年 1074年。敦文親王御誕生。 ■戒壇 戒を授ける儀式を行うための壇。天平宝字年間(757-65)下野薬師寺、筑紫観世音寺、東大寺の三戒壇がもうけられ、弘仁14年(823)比叡山延暦寺にももうけられた。園城寺にも望む声が出ていた。 ■存の外の 意外な。 ■一階僧正 一階級とばして僧正になること。阿闍梨→僧都→僧正 ■祚 高祚。天子の位。 ■海内無為 国内の平安。 ■両門 山門(延暦寺)・寺門(園城寺)。両者は園城寺の戒壇建立をめぐって長年対立していた。 ■ひ死に 断食の末餓死すること。 ■江帥匡房卿 大宰権帥大江匡房。白河院の側近。美作守だったのは延久6年(1074)-承暦4年(1080)。陸奥守源義家に兵法を伝授したことで有名。 ■師壇の契 師と檀那の関係。檀那は金銭などを寄進して仏者を支える者。 ■こしらへて 説得して。 ■綸言 天子のお言葉。 ■以ての外に 予想外に。 ■ふすぼッたる 護摩の煙のくすぶった。 ■持仏堂 自分が崇める本尊を納めたお堂。 ■天子には戯の詞なし 「天子に戯の言無し、言即ちこれ史書なり、礼これを成す、楽これを歌ふ」(史記・晋世家)。 ■綸言汗のごとし 天子の詞は汗のようなもので、いったん発せられたら戻すことはできないの意。『漢書』などによる。 ■魔道 悪魔の世界。 ■錫杖 僧の持つ杖。木の杖の上部に金属部をつけ、金属の輪を通す。振ると音が鳴る。 ■承暦元年 1077年。正確には承保4年(1077)。11月17日改元して承暦元年。4歳。 ■良真大僧正 第36代天台座主。円融房と号す。源通輔の子。西の京に住んだ。 ■九条右丞相 藤原師輔。九条殿。丞相は大臣の唐名。娘の安子が村上天皇に嫁ぎ冷泉天皇を産んだ。 ■慈恵大僧正 第18代天台座主。 ■冷泉院 後に冷泉院となる皇子。村上天皇第二王子憲平親王。天暦4(950)生。 ■承暦三年 1079年。 ■十二月八日 『玉葉』によれば十二月八日は親王宣下、15日が立太子。 ■傅 東宮の補佐官。『玉葉』には藤原経宗と。 ■大夫 東宮大夫。東宮坊の長官。東宮坊は東宮の身の回りの世話をする役所。『玉葉』には平宗盛と。

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朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永