平家物語 四十 少将都帰(せうしやうみやこがへり)

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『平家物語』巻第三より「少将都帰(しょうしょうみやこがえり)」。

鬼界ヶ島に流されていた丹波少将成経(たんばのしょうしょう なりつね)、康頼(やすより)入道のニ人は恩赦によって罪ゆるされ、都にもどる。

途中、成経は亡き父・成親ゆかりの備前児島の配所や鳥羽の州浜殿をたずね、思い出にひたり、涙する。

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前回「頼豪」からのつづきです。
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あらすじ

治承三年正月下旬、丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)と康頼(やすより)入道は鬼界が島から肥前国鹿瀬庄(かせのしょう)を立ち、 二月十日頃、父大納言成親の配所であった備前国児島(こじま)に到着する。

児島には大納言殿の書置きが多く残っていた。

その書置きから侍の源左衛門尉信俊(げんざえもんのじょう のぶとし)が父大納言を訪ねてくれていたことも知られた。

阿弥陀如来の来迎を確信する言葉も見られ、これならきっと極楽往生しているだろうと、成経と康頼は悲しみの中にも微かな希望を見出す。

成経と康頼は父大納言の墓の前で思いのたけを語り、七日七夜念仏し卒塔婆を建てて備前国児島を発つ。

同三月十六日、成経と康頼入道は大納言殿の山荘のあった鳥羽の州浜殿を見舞う。

少将は湧きおこる父の思い出に涙し、 その思いを古歌に託す。

桃李不言 春幾暮、煙霞無跡昔誰栖
(桃李もの言わず 春いくばくか暮れぬる、煙霞跡無し 昔誰ぞ栖)

(桃や李の花は昔と同じく咲いているが、口はきけないので 幾たびの春が過ぎたのか尋ねることができない。霞はたなびいているが跡を残さないので 昔ここに誰が住んでいたか知ることもできない。和漢朗詠集)

ふるさとの 花の物いふ世なりせば いかにむかしの ことをとはまし

(故郷の花がもし口をきくことができるなら、昔のことを 尋ねてみたいものだよ。後拾遺集)

翌朝早く州浜殿を出て二人は都へ出発する。康頼の迎えにも車は 多くあったが、名残惜しさに少将の車にのって同行した。

少将は、舅の平宰相(教盛)の宿所につき、母君をはじめ身内の人々と再会を喜ぶ。

後は元のとおり院に召し使われ宰相中将まで出世した。

康頼入道は東山双林寺の山荘につくと、まず心境を歌に詠む。

ふる里の 軒の板間に 苔むして おもひしほどは もらぬ月かな

(故郷の山荘はすっかりボロボロになり隙間だらけだが、 その隙間に苔が生えているので想像していたほどは月の光が漏れないことだなあ)

そのままその山荘にこもり、「宝物集」という物語を書いたということだ。

…次回「有王(ありおう)」は7月5日(月)の配信です。

原文

明くれば治承(ぢしよう)三年正月下旬に、丹波少将成経(たんばのせうしやうなりつね)、平判官康頼、肥前国鹿瀬庄(ひぜんのくにかせのしやう)をたツて、都へといそがれけれども、余寒(よかん)猶はげしく、海上(かいしやう)もいたく荒れければ、浦づたひ、島づたひして、きさらぎ十日比(ころ)にぞ、備前児島(びぜんのこじま)に着き給ふ。それより父大納言の住み給ひける所を、尋ね入りて見給ふに、竹の柱(はしら)、ふりたる障子(しやうじ)なンどに、書きおかれたる筆のすさみを見給ひて、「人の形見には、手跡(しゆせき)に過ぎたる物ぞなき。書きおき給はずは、いかでかこれをみるべき」とて、康頼入道と二人、ようでは泣き、泣いてはよむ。「安元(あんげん)三年七月廿日出家(はつかのひしゆつけ)、同(おなじき)廿六日信俊下向(のぶとしげかう)」と書かれたり。さてこそ源左衛門尉(げんざゑもんのじやう)信俊が、参りたりけるも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便(さんぞんらいかうたより)あり、九品(くほん)往生無疑(うたがひなし)」とも書かれたり。此形見(このかたみ)を見給ひてこそ、「さすが欣求浄土(ごんぐじやうど)ののぞみもおはしけり」と、限(かぎり)なき歎(なげき)の中にも、いささかたのもしげには宣(のたま)ひけれ。

其墓(そのはか)を尋ねて見給へば、松の一むらある中に、かひがひしう壇(だん)をついたる事もなし。土のすこし高き所に、少将袖(そで)かきあはせ、いきたる人に物を申すやうに、泣く泣く申されけるは、「遠き御まもりとならせおはしまして候事をば、島にてかすかに伝へ承りしかども、心にまかせぬうき身なれば、いそぎ参ることも候(さうら)はず。成経彼島(かのしま)へながされてのちの便(たより)なさ、一日片時(へんし)の命のありがたうこそ候ひしか、さすが露の命(いのち)消えやらずして、二年(ふたとせ)をおくツて、召しかへさるるうれしさは、さる事にて候へども、この世にわたらせ給ふをも、見参らせて候はばこそ、命のながきかひもあらめ。是(これ)まではいそがれつれども、いまより後はいそぐべしともおぼえず」と、かきくどいてぞ泣かれける。

誠に存生(ぞんじやう)の時ならば、大納言入道殿こそ、いかにもと宣ふべきに、生(しよう)をへだてる習程(ならひほど)、うらめしかりける物はなし。苔(こけ)の下には誰かこたふべき。ただ嵐にさわぐ松の響(ひびき)ばかりなり。其夜はよもすがら、康頼入道と二人(ににん)、墓のまはりを行道(ぎやうだう)して念仏(ねんぶつ)申し、明けぬれば、あたらしう壇つき、くぎぬきせさせ、まへに仮屋(かりや)つくり、七日七夜(しちにちしちや)念仏申し経(きやう)書いて、結願(けつぐわん)には、大きなる卒塔婆(そとば)をたて、「過去聖霊(くわこしやうりやう)、出離生死(しゆつりしやうじ)、証大菩提(しようだいぼだい)」と書いて、年号月日の下には、「考子成経(けうしなりつね)」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、子に過ぎたる宝(たから)なしとて、泪(なみだ)をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。年(とし)去り年来(きた)れども、忘れがたきは撫育(ぶいく)の昔の恩、夢のごとく幻(まぼろし)のごとし。尽きがたきは恋慕(れんぼ)のいまの涙なり。三世十方の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)も、あはれみ給ひ、亡魂尊霊(ぼうこんそんりやう)も、いかにうれしとおぼしけん。
「今しばらく念仏の功(こう)をもつむべう候へども、都に待つ人共も、心もとなう候らん。又こそ参り候はめ」とて、亡者(ぼうじや)に暇(いとま)申しつつ、泣く泣くそこをぞ立たれける。草の陰にても、余波(なごり)惜しうや思はれけん。

同(おなじき)三月十六日、少将鳥羽(とば)へあかうぞ着き給ふ。故大納言の山庄(さんざう)、すはま殿とて鳥羽にあり。住みあらして年(とし)へにければ、築地(ついぢ)はあれどもおほひもなく、門はあれども扉(とびら)もなし。

庭に立ち入り見給へば、人跡(じんせき)たえて苔(こけ)ふかし。池の辺(ほとり)を見まはせば、秋の山の春風に、白浪(しらなみ)しきりにおりかけて、紫鴛白鷗(しゑんはくおう)逍遥(せうえう)す。興(きよう)ぜし人の恋しさに、尽きせぬものは涙なり。家はあれどもらんもん破れて、蔀(しとみ)やり戸もたえてなし。「爰(ここ)には大納言殿の、とこそおはせしか。此妻戸(このつまど)をばかうこそ出(い)で入り給ひしか。あの木をばみづからこそ植ゑ給ひしか」なンどいひて、ことの葉につけて、父の事を恋しげにこそ宣(のたま)ひけれ。

現代語訳

明ければ治承三年正月下旬に、丹波少将成経、平判官康頼、肥前国鹿瀬庄を発って、都へ急がれたが、余寒がなおも激しく、海の上もたいそう荒れていたので、浦づたい、島づたいして、二月十日ころに、備前の児島にお着きになった。

それから父大納言殿のすまわれていた所を尋ね入って御覧になると、竹の柱、古びた障子などに、書き置かれた筆の走り書きを御覧になって、

「人の形見には、文字を書いたのに過ぎた物はない。書き残してくださらなかったら、どうしてこれを見ることができよう」

といって、康頼入道と二人、読んでは泣き、泣いては読む。

「安元三年七月二十日の日出家、同二十六日、信俊下向」と書かれている。それによって源左衛門尉信俊が、参ったことも知られた。

そばにある壁には、「三尊来迎便あり、九品往生疑い無し」とも書かれている。

この形見の文字をご覧になって、

「やはり欣求浄土(極楽往生を喜び求める)の望みもおありになったのだ」

と、限りない嘆きの中にも、少したのもしげにおっしゃった。

その墓を尋ねて御覧になると、松が一むらある中に、はっきりと壇(墓)をつくったものでもない。土の少し高い所に、少将は袖をかきあわせ、生きた人に物を申すように、泣く泣く申されることは、

「お亡くなりになられましたことを、島にてかすかに伝え承りましたが、心のままにならない情けない身ですので、いそぎ参る事もできませんでした。成経があの島に流されて後の頼りなさといったら、一日片時の命も保ちがたくございました。そうはいってもやはり露の命は消え去らず、二年を送って、召還されるうれしさはもちろんでございますが、この世にいらっしゃるのを拝見してこそ、長生きのかいもあるものです。これまでは急がれましたが、今より後はいそがなければとも思いません」と、何度も言って泣かれた。

ほんとうに生きている時であれば、大納言入道殿こそ何とでも言うに違いないが、今生と後生と生を隔てては話ができない世のならわしほど、恨めしかったものはなかった。

苔の下には誰が答えるだろう。ただ嵐にさわぐ松の響きだけである。

その夜は一晩中、康頼入道と二人、墓のまわりをまわって念仏申し上げ、明ければ、あたらしく壇(墓)を作って、柵を立てさせ、前に仮屋をつくり、七日七夜念仏申し経文を書いて、最後の日は大きな卒塔婆を立て、

「過去聖霊、出離生死、証大菩提(亡くなった尊い霊よ、生死の苦を離れて、大菩提を得られますように)」

と書いて、年号月日の下には、「孝子成経」と書かれたので、身分賤しき山人たちで心無い者たちも、子に過ぎた宝はなしといって、涙をながし袖をしぼらぬものはなかった。

年去り年来たっても、忘れがたいものは育ててくれた昔の恩、夢のようであり幻のようである。

いつまでも尽きないのは恋慕の今の涙である。あらゆる時間空間の仏菩薩たちも、あわれまれ、亡くなった大納言殿の尊い魂も、どんなにかうれしくお思いだろう。

「もう少し念仏の功をつもうと思いますけれども、都に待つ人たちも、心もとなく思ってございましょう。また参ります」

といって、亡者に暇を申しつつ、泣く泣くそこを出発された。草葉の陰にても、なごり惜しく思われていたろう。

同年3月16日、少将は鳥羽にまだ明るいうちにお着きになった。故大納言の山荘が、すはま殿といって鳥羽にある。住み荒らして年が経ったので、築地はあっても屋根もなく、門はあっても扉もない。

庭に立ち入り御覧になると、人の跡たえて苔が深い。池のほとりを見まわせば、秋の山から吹き下ろす春風に、白浪がしきりにたたみかけて、おしどり・白い鴎がぶらぶら歩いている。

それに興じていた父大納言の恋しさに、尽きないものは涙である。家はあっても欄門は破れ、蔀やり戸もまったくない。

「ここには大納言殿が、このようにいらっしゃったか。この妻戸をこのように出入りなさったか。あの木を、みずから植えられたか」

など言って、その言う言葉につけて、父の事を恋しげにおっしゃった。

語句

■手跡 手ずから書いた文字。 ■ようでは 「読んでは」の音便。 ■安元三年 1177年。 ■出家 出家のことは「大納言死去」に詳しい。 ■三尊来迎 さんぞんらいかう。阿弥陀・観音・勢至の三尊が浄土から迎えに来ること。 ■九品往生 『感無量寿経』によると往生のさまに九品ある。その最上(九品)が、浄土に往生することである。 ■欣求浄土 浄土に往生することを欣(よろこ)び願うこと。 ■かひがひしう はっきりと。 ■遠き御まもりとならせ 浄土に往生して、遠くからこの世の人々を守ること。亡くなったことの婉曲表現。 ■消えやらず 消えうせず。 ■生をへだてたる習 今生と後生を隔てたら話ができないというこの世のならわし。 ■行道 有るき回って念仏を唱え供養すること。 ■くぎぬきせさせ 柵を作らせ。 ■結願 法会・仏事の最終日。 ■卒塔婆 追善供養のために墓に立てる板。 ■過去精霊… 死者の尊い霊よ、生死の苦を離れ、大菩提を得られますようにの意。 ■孝子 子が自称する言い方。 ■しづ山がつ 身分低い山人。 ■三世十方 三世は過去・現在・未来。十方は四方、四維(艮・巽・坤・乾)、上下 あらゆる時間空間の意。 ■聖衆 さまざまな菩薩たち。 ■亡魂尊霊 尊い霊魂。 ■あかうぞ まだ明るいうちに。 ■すはま殿 鳥羽にあった新大納言成親の山荘。鳥羽殿の近くにあった。 ■秋の山 鳥羽離宮にあった築山の名。 ■おりかけて 幾重にもたたみかけて。寄せては返して。 ■紫鴛白鴎 おしどりと白いカモメ。おしどりは羽が紫。 ■らんもん 欄門?すかし模様のある門。あるいは羅門。羅門は立蔀(たてじとみ)・透垣(すいがい)などの上部に、木や竹で2本ずつ交差した模様を作ったもの。 ■蔀 格子組の裏に板を打ったもの。多くは上蔀・下蔀に二分され、上蔀は上げて金具で固定して日光を取り入れる。 ■やり戸 引き戸。 ■妻戸 両開きの扉。 

原文

弥生(やよひ)なかの六日なれば、花はいまだ名残(なごり)あり。楊梅桃李(やうばいたうり)の梢(こずゑ)こそ、折(をり)知りがほに色々なれ。昔の主(あるじ)はなけれども、春を忘れぬ花なれや。少将花のもとに立寄ツて、

桃季不言(たうりものいはず)、春幾暮(はるいくばくかかくれぬる)。煙霞無跡(えんかあとなし)、昔誰栖(むかしたれかすんじ)。

ふるさとの花の物いふ世なりせばいかにむかしのことを問はまし

この古き詩歌(しいか)を口ずさみ給へば、康頼入道も、折節(をりふし)あはれに覚えて、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞぬらしける。暮るる程とは待たれけれども、あまりに名残(なごり)惜しくて、夜ふくるまでこそおはしけれ。深行(ふけゆ)くままには、荒れたる宿のならひとて、ふるき軒(のき)の板間より、もる月影ぞくまもなき。鶏籠(けいろう)の山明けなんとすれども、家路(いへじ)はさらにいそがれず。さてもあるべきならねば、むかへに乗物共つかはして、待つらんも心なしとて、泣く泣くすはま殿を出でつつ、都へかへり入られけん心の中共(うちども)、さこそはあはれにもうれしうもありけめ。康頼入道がむかへにも、乗物ありけれども、それには乗らで、今さら名残の惜しきにとて、少将の車の尻(しり)に乗ツて、七条河原まではゆく。
其(それ)より行き別れけるに、猶行きもやらざりけり。花の下(もと)の半日(はんじつ)の客(かく)、月前(つきのまへ)の一夜(や)の友、旅人(りよじん)が一村雨(ひとむらさめ)の過ぎ行くに、一樹(じゆ)の陰に立寄ツて、わかるる余波(なごり)も惜しきぞかし。況(いはん)や是はうかりし島の住ひ、船のうち浪(なみ)のうへ、一業所感(いちごふしよかん)の身なれば、先世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も、浅からずや思ひ知られけん。

少将はしうと平宰相(へいざいしやう)の宿所へ立入(たちい)り給ふ。少将の母うへは、霊山(りやうざん)におはしけるが、昨日(きのふ)より宰相の宿所におはしてまたれけり。少将の立入り給ふ姿を、一目みて、「命あれば」とばかり宣(のたま)ひて、引きかづいてぞ臥(ふ)し給ふ。宰相の内の女房、侍(さぶらひ)共、さしつどひて、みな悦泣(よろこびなき)共しけり。まして少将の北の方、めのとの六条が心のうち、さこそはうれしかりけめ。六条は尽きせぬ物思(ものおもひ)に、黒かりし髪も、みな白くなり、北の方さしも花やかにうつくしうおはせしかども、いつしかやせ衰へて、其人(そのひと)ともみえ給はず。ながされ給ひし時、三歳(さんざい)にて別れしをさなき人、おとなしうなツて、髪結ふ程なり。又其そばに、三つばかりなるをさなき人のおはしけるを、少将、「あれはいかに」と宣へば、六条、「是(これ)こそ」とばかり申して、袖(そで)をかほにおしあてて涙をながしけるにこそ、さては下りし時、心苦しげなる有様(ありさま)を見おきしが、事ゆゑなくそだちけるよと、思ひ出でてもかなしかりけり。少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)にあがり給ふ。康頼入道は、東山双林寺(さうりんじ)に、わが山庄(さんざう)のありければ、それに落ちついて、先(ま)ず思ひつづけけり。

ふる里の軒のいたまに苔(こけ)むして思ひしほどはもらぬ月かな

やがてそこに籠居(ろうきよ)して、うかりし昔を思ひつづけ、宝物集(ほうぶつしふ)といふ物語を書きけるとぞ聞えし。

現代語訳

三月十六日であるから、花はいまだ名残がある。柳・梅・桃・李の梢が、時節を知ってるふうな顔で色々に咲いている。

昔の主人はなくても、春を忘れない花であるよ。少将は花のもとに立ち寄って、

冬季不言…

(桃や李は物を言わないので、春が何度暮れかを語らない。春霞だけがたなびいているが、主人の跡はないので、昔住んでいた人のこともわからない)

ふるさとの…

(故郷の花が物を言う世の中であれば、どんなにか昔のことをきいてみたいものであるのに)

この古い詩歌を口ずさまると、康頼入道も、時にかなってしみじみと思われて、墨染の袖をお濡らしになった。

日が暮れるまでとは待っていたけれど、あまりに名残惜しくて、夜が更けるまでいらっしゃった。

夜が更け行くにつれて、荒れた宿の常のこととして、古い軒の板間から、漏れる月影は欠けたところもない。

山は夜が明けようとしているが、家路はまったく急がれない。そうはいってもこのままでいるわけにもいかないので、迎えに車数台を遣わして、待っているだろうことも気の毒だと、泣く泣くすはま殿を出発しつつ、都へ帰り入られるご両人の心の内は、さぞかし哀れにも嬉しくもあっただろう。

康頼入道の迎えにも、乗り物はあったけれど、それには乗らないで、今はあらためて名残が惜しいからと、少将の車の尻に乗って、七条河原まで行く。

そこにて行き別れたが、やはり行きやることもできない。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人がちょっと村雨が過ぎゆく間、一つの木の陰に立ち寄って、わかれる名残も惜しいものなのだ。

ましてこれは侘しい島の住まい、船のうち浪の上、前世に同じ業をして同じ報いを受けた身であるので、前世の因縁も浅くないと思い知られたことであったろう。

少将は舅の平宰相(教盛)の宿所へ立ち寄られた。少将の母上は、霊山(りょうぜん)にいらしたが、昨日から宰相の宿所にいらして待っていた。

少将の立ち入りなさる姿を、一目みて、「生きてさえいれば」とだけおっしゃって、衣を引きかぶって身をお伏しになられた。

宰相の屋敷の女房、侍たちは、集まって、みな喜び泣きした。まして少将の北の方、乳母の六条の心の内は、どんなにか嬉しかったろう。

六条は尽きない物思に、黒かった髪も、みな白くなり、北の方はあんなにも花やかに美しくいらしたが、いつしか痩せ衰えて、その人ともお見えにらない。

流されなさった時、三歳で別れた幼い人は、大人びて、髪結うほどである。

またそのそばに、三歳くらいである幼い人がいらっしゃったのを、少将、「あれは誰だい」とおっしゃると、六条は「これこそ」とだけ申して、袖を顔に押し当てて、涙を流したので、さては下った時、身重である様子を見置いたが、つつがなく育ったのだなと、思い出しても愛しいことであった。

少将はもとのように院に召し使われて、宰相の中将に昇進された。康頼入道は、東山双林寺に、自分の山荘があったので、それに落ち着いて、まず思いを歌に詠んだ。

ふる里の…

(ふる里の軒の板の間に苔がむして、思っていたほどは漏らない月の光だなあ)

すぐにそこに引きこもって、心細いかった昔を思いつづけて、宝物集という物語を書いたということだ。

語句

■楊梅桃李 柳・梅・桃・李。 ■昔の主はなければも… 「流され侍りける時家の梅の花を見侍りて/こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」(拾遺・雑春 菅原道真)。  ■桃李不言… 『和漢朗詠集』下「仙家」の菅原文時の詩。「栖んじ」は「すみし」の音便。 ■ふるさとの… 「世尊寺の桃の花をよめる/故郷の花のものいふ世なりせばいかに昔の事を問はまし」(後拾遺・春下 出羽弁)。『古今著聞集』には菅原道真作と。 ■荒れたる宿のならひとて… 「君なくてあれたる宿の板間より月のもるにも袖はぬれけり」(和漢朗詠集下・故宮付破宅)。 ■鶏籠の山 鶏籠山。中国湖北省武昌府にある山。「酒軍座に在り。菟園の露未だ睎(ひ)ず。僕夫衢(ちまた)に待つ。鶏籠の山曙けなんと欲す」(新撰朗詠集下・酒紀斉名)。 ■今さら 今はあらためて。 ■一樹の陰に立寄ッて… 『説法明眼論』より出た慣用句。 ■一業所感 前世で行った同じ業によって、同じ報いを受けたこと。 ■芳縁 因縁の美称。 ■霊山 東山三十六峰の一。 ■引きかづいて 衣を引きかぶって。 ■心苦しげなる有様 妊娠している様子。 ■少将はもとのごとく… 『公卿補任』には寿永元年(1182)従四位上、寿永二年右少将、正四位下、元暦元年(1185)右中将、文治5年(1189)蔵人頭、文治6年参議。 ■双林寺 京都市東山区鷲尾町。丸山音楽堂の東。伝教大師が天台の別院として開いた。境内に康頼法師の供養塔がある。 ■宝物集 鎌倉時代の仏教説話集。

ゆかりの地

雙林寺

金玉山と号する天台宗の寺。康頼法師が隠棲した。丸山音楽堂の東に本堂と西行庵がある。延暦年間(782-805)尾張連定鑑(おわりのむらじじょうかん)が伝教大師最澄を招いて創建したと伝わる。かつては広大な寺領と多くの塔頭子院を有していたが、中世に衰退。

応永年間(1394-1427)国阿上人が再興し、時宗の寺となり東山道場と称したが、応仁の乱でふたたび衰退。明治維新で天台宗に改まった。

明治の中頃、円山公園の造営に際して寺領を提供し、ごく小さな敷地が残った。西行や平康頼、頓阿法師が一時住んでいたといい、境内に三人の供養塔がある。本堂に安置された木造薬師如来立象は平安時代の様式をよく残す。

京都府京都市東山区 下河原鷲尾町527

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朗読・解説:左大臣光永

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