平家物語 四十ニ 僧都死去(そうづしきよ)

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『平家物語』巻第三より「僧都死去(そうずしきょ)」。有王からすでに妻子が亡くなったことを聞いた俊寛は、食を断ち、その命を終える。

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前回「有王」からのつづきです。
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あらすじ

有王は鬼界ケ島に一人残された俊寛を訪ね、海を渡り、変わり果てた姿になった俊寛に対面する(「有王」)。

身内の消息を尋ねる俊寛に、有王は 若君も北の方も既に亡くなったことを告げ、 姫御前の手紙を差し出す。

俊寛は、その手紙の年のわりに幼稚な書きように、姫の行く末を案じる。

しかし嘆きながらもなんとか生き延びてくれるだろうと、食を断ち、有王が鬼界ケ島に到着してから二十三日目に有王に見守られながらその命を終える。

有王は俊寛の遺体を荼毘に付し、都へ帰り、姫御前にこのことを報告する。

姫御前は十二歳で尼になり、奈良の法華寺で父母の後世を弔った。

有王は俊寛の遺骨を首にかけ、高野の奥の院におさめ、蓮華谷で法師になり、 諸国を修行しながら俊寛の後世を弔った。

…次回「飈(つじかぜ)」は7月12日(月)の配信です。

原文

僧都うつつにてありと思ひ定めて、「抑(そもそも)去年(こぜ)少将や判官入道がむかへにも、是等(これら)が文と云ふ事もなし。今汝(なんぢ)がたよりにも、音づれのなきは、かうともいはざりけるか」。有王(ありわう)涙にむせびうつぶして、しばしはものも申さず。ややあツておきあがり、泪(なみだ)をおさへて申しけるは、「君の西八条(にしはちでう)へ出でさせ給ひしかば、やがて追捕(ついふく)の官人参ツて御内(みうち)の人々搦(から)め取り、御謀反(ごむほん)の次第を尋ねて、うしなひはて候(さうら)ひぬ。北の方はをさなき人を隠しかね参らツさせ給ひて、鞍馬(くらま)の奥にしのばせ給ひて候ひしに、此童(わらは)ばかりこそ、時々参ツて宮仕仕(みやづかへつかまつ)り候ひしか。いづれも御歎(おんなげき)のおろかなる事は候はざりしかども、をさなき人はあまりに恋ひ参らツさせ給ひて、参り候たび毎に、『有王よ、鬼界(きかい)が島(しま)とかやへ、われぐして参れ』と、むつからせ給ひ候ひしが、過ぎ候ひし二月(きさらぎ)に、痘(もがさ)と申す事に、失せさせ給ひ候ひぬ。北の方は其(そ)の御歎と申し、是(これ)の御事と申し、一かたならぬ御思(おんおもひ)にしづませ給ひ、日にそへてよわらせ給ひ候ひしが、同(おなじき)三月二日(ふつかのひ)、つひにはかなくならせ給ひぬ。いま姫御前ばかり、奈良の姑(をば)御前の御もとに、御わたり候。是に御文給はツて参ツて候」とて、取りいだいて奉る。あけて見給へば、有王(ありわう)が申すにたがはず書かれたり。奥には、「などや三人ながされたる人の、二人は召しかへされてさぶらふに、今まで御のぼりさぶらはぬぞ。あはれ高きもいやしきも、女の身ばかり心うかりける物はなし。をのこの身にてさぶらはば、わたらせ給ふ島へも、などか参らでさぶらふべき。この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書かれたる。僧都此文(このふみ)をかほにおしあててしばしは物も宣(のたま)はず。良(やや)あつて、「是見よ有王、この子が文の書きやうのはかなさよ。おのれを供にて、いそぎのぼれと書きたる事こそうらめしけれ。心にまかせたる俊寛が身ならば、何とてか此島にて三年(みとせ)の春秋(はるあき)をば送るべき。今年は十二になるとこそ思ふに、是程はかなくては、人にも見え、宮仕(みやづかへ)もして、身をもたすくべきか」とて、泣かれけるにぞ、人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふ程も知られける。「此島へながされて後は、暦(こよみ)もなければ、月日のかはり行くをも知らず。ただおのづから花の散り、葉の落つるを見て、春秋をわきまへ、蝉(せみ)の声、麦秋(ばくしう)を送れば、夏と思ひ、雪のつもるを冬と知る。白月(びやくぐわつ)、黒月(こくぐわつ)のかはり行くをみて、卅日をわきまへ、指を折ツてかぞふれば、今年は六つになると思ひつるをさなき者も、はや先立ちけるござんなれ。西八条(にしはちでう)へ出でし時、この子が我もゆかうどしたひしを、やがて帰らうずるぞとこしらへおきしが、今の様(やう)におぼゆるぞや。其(それ)を限(かぎり)と思はましかば、今しばしもなどか見ざらん。親となり子となり、夫婦(ふうふ)の縁をむすぶも、みな此世一(ひと)つにかぎらぬ契(ちぎり)ぞかし。などさらばそれらがさ様(やう)に先立ちけるを、今まで夢まぼろしにも知らざりけるぞ。人目も恥ぢず、いかにもして、命いかうど思ひしも、これらを今一度見ばやと思ふためなり。姫が事計(ばかり)こそ心苦しけれども、それはいき身なれば、嘆(なげ)きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれにうき目を見せんも我身ながらつれなかるべし」とて、おのづからの食事をとどめ、偏(ひとへ)に弥陀(みだ)の名号(みやうがう)をとなへて、臨終正念(りんじゆうしやうねん)をぞいのられける。有王(ありわう)わたツて廿三日と云ふに、其庵(そのいほり)のうちにて、遂にをはり給ひぬ。年卅七とぞ聞えし。有王むなしき姿にとりつき、天に仰ぎ地に伏して、泣きかなしめどもかひぞなき。心の行く程泣きあきて、「やがて後世(ごぜ)の御供仕(つかまつ)るべう候へども、此世(このよ)には姫御前ばかりこそ御渡り候へ、後世訪(とぶら)ひ参らすべき人も候はず。しばしながらへて御菩提訪(ごぼだいとぶら)ひ参らせ候はん」とて、ふしどをあらためず、庵をきりかけ、松のかれ枝(えだ)、葦(あし)の枯葉(かれは)を取りおほひ、藻塩(もしお)のけぶりとなし奉り、荼毘事(だびこと)終へにければ、白骨(はくこつ)を拾ひ頸(くび)にかけ、又商人舟(あきんどぶね)のたよりに、九国(くこく)の地へぞ着きにける。

現代語訳

僧都は現実であると受け入れて、「いったい去年少将や判官入道の迎えがきた時も、親族らの文ということもなかつた。今お前がたよりにも、連絡のないのは、この島にくると言わずに出てきたのか」

有王は涙にむせびうつ伏せになって、しばらくは物も申さない。しばらくして起き上がり、涙を抑えて申したことは、

「わが君が西八条へ出かけられましたら、すぐに召捕りの役人が参って身内の人々をからめ取り、ご謀反の次第を尋ねて、殺されてしまいました。

北の方はおさない人を隠しかねていらっしゃいまして、鞍馬の奥にしのばせなさってございましたのを、私一人が時々参って宮仕え申し上げてございました。

どちらも御嘆きは並々ではございませんが、幼い人はあまりに恋しく思われて、私が参ってございますたびごとに、

「有王よ、鬼界ヶ島とかやへ、私を連れて参れ」

と、だだをこねられてございましたが、去る二月に、痘(もがさ)と申す事で、お亡くなりになりました。

北の方はその御嘆きと申し、この御事(俊寛が流されたこと)と申し、並々ならぬ御思にお沈みになり、日につれて弱られてございましたが、同年三月ニ日、ついにお亡くなりになられました。

いま姫御前だけが、奈良のおば御前の御もとに、うつられてございます。ここに御文を賜ってもって参ってございます」

といって、取り出して差し上げた。あけて御覧になると、有王が申すにたがわず書かれている。

奥には、「どうして三人流された人の、二人は召還されてございますのに、今まで御のぼりにならないのですか。ああ身分の高いのも卑しいのも、女の身ほど残念な物はない。男の身にてございましたなら、いらっしゃる島へも、どうして参らないでございましょうか。この有王を御供として、急いでお登りくださいませ」と書いてある。

僧都はこの手紙を顔に押し当てて、しばらく物もおっしゃらない。ややあって、

「これ見よ有王、この子の文の書きようのたよりなさよ。お前を供にして、急いで登れと書いてある事の恨めしさよ。心のままになる俊寛の身ならば、どうしてこの島で三年の春秋を送るだろう。今年は十二になると思うが、これほどたよりなくては、結婚して、宮仕えもして、わが身を養うことができるだろうか」

といってお泣きになることに、人の親の心は闇ではないけれども、子を思う道にまよう程も知られた。

「この島に流されて後は、暦もないので、月日のかわり行くのも知らぬ。ただ時々花が散り、葉が落ちるのを見て、春秋を知り、蝉の声が響き麦の取り入れ時が終わると夏と思い、雪のつもるを冬と知る。月の満ち欠けのかわり行くのを見て、一ヶ月を知り、指を折って数えれば、今年は六つになると思っていた幼い人も、はや先立ったようだな。

西八条に出かけた時、この子が自分も行こうとしたのを、すぐに帰ってくるよとなだめすかしたのが、今のように思われるよ。

それが最後と思っていれば、もう少しどうして見なかったのか。親となり子となり、夫婦の縁を結ぶのも、みな現世だけの契ではないのだ。どうしてそれならばそれらがそのように先立ったのを、今まで夢まぼろしにも知らなかったのだ。

人目も恥じず、どうにかして、命生きようと思ったのも、これら(妻子)をもう一度見なくてはと思うためである。

姫の事だけが心苦しいが、それは生きている身なので、嘆きながらも何とか過ごすだろう。そういつまでも長らえて、お前に面倒をかけるのも、我が身ながら思いやりがないことだ」

といって、わずかな食事もとどめ、ひたすら弥陀の名号を唱えて、臨終の際正しく念仏して往生できるよう祈られた。

有王が島にわたって二十三日という日に、その庵のうちで、遂にお亡くなりになった。年三十七ということだ。有り王は亡骸に取りつき、天に仰ぎ地に伏して、泣きかなしんだがどうにもならない。

心の行くまで思い切り泣いて、

「すぐに後世の御供をつとめたくございますが、この世には姫御前だけがいらっしゃるものの、後世とむらい申し上げる人もございません。もう少し生きて、御菩提をとむらい申し上げましょう」

といって、寝床をあらためず、庵をきりかけ、松の枯れ枝、葦の枯葉を取り覆い、藻塩を焼くように煙となし申し上げ、火葬を終えると、白骨を拾い首にかけ、また商人船の便船で九州の地に着いた。

語句

■追捕 召捕り。 ■うしないはて候ひぬ 殺してしまいました。 ■参らッさせ給ひて 参らせさせ給ひての転。 ■鞍馬 京都北方。鞍馬寺のある山。 ■おろかなる事 並たいていであること。 ■むつからせ給ひ だだをこねなさって。 ■痘 天然痘。 ■日にそへて 日につれて。 ■あはれ高きもいやしきも… 慣用句。「あはれ、たかきもいやしきも、女の身ほどかなしかりける事はなし」(流布本平治物語・中・義朝敗北事)。 ■身をたすく わが身を養う。 ■人の親の心は… 「人の親の心はやみにあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰集・雑一 藤原兼輔)。 ■蝉の声… 「千峰の鳥路は梅雨を含み、五月の蝉の声は麦秋を送る」(和漢朗詠集・上・蝉 李嘉祐)。 ■麦秋 麦が色づく時期。初夏。旧暦四月の異名。 ■白月 一ヶ月の一日から十五日まで。 ■黒月 十五日から三十日まで。 ■ごさんなれ …であるようだな。…であるらしいな。…であるよな。 ■さのみ そういつまでも。 ■つれなかるべし 思いやりがないだろう。 ■臨終正念 臨終に際して正しく念仏して往生すること。 ■藻塩のけぶり 塩を生成するために海藻を焼く煙。 ■荼毘事 火葬。 

原文

それよりいそぎ都へのぼり、僧都の御娘のおはしける所に参ツて、ありし様(やう)、始(はじめ)よりこまごまと申す。「なかなか御文を御覧じてこそ、いとど御思(おんおもひ)はまさらせ給ひて候ひしか。件(くだん)の島には、硯(すずり)も紙(かみ)も候はねば、御返事(おんへんじ)にも及ばず。おぼしめされ候ひし御心の内、さながらむなしうてやみ候ひにき。今は生々世々(しやうじやうせせ)を送り、他生曠劫(たしやうくわうごふ)をへだつとも、いかでか御声をも聞き、御姿をも見参らツさせ給ふべき」と申しければ、ふしまろび、こゑも惜しまず泣かれけり。やがて十二の年尼になり、奈良の法華寺(ほつけじ)に、勤(つと)めすまして、父母の後世を訪(とぶら)ひ給ふぞ哀れなる。有王は俊寛僧都の遺骨(ゆいこつ)を頸(くび)にかけ、高野(かうや)へのぼり、奥院(おくのゐん)に納めつつ、蓮花谷(れんげだに)にて法師になり、諸国七道修行(しゆぎやう)して、主(しゆう)の後世をぞ訪(とぶら)ひける。か様(やう)に人の思歎(おもひなげき)のつもりぬる、平家の末こそおそろしけれ。

現代語訳

それより急いで都へのぼって、僧都の御娘のいらっしゃる所に参って、あったことを、始からこまごまと申す。

「かえって御文を御覧に入れたことが、たいそう御思いを強くなさったのでございましょうか。件の島には、硯も紙もございませんので、御返事にも及びませんでした。思われてございました御心の内は、そのままなくなってしまい、お亡くなりになりました。今はいくつもの生き死にを経て、生まれ変わりを繰り返し長い時間をへだてても、どうして御声を聞き、御姿をも拝見することができまょう」と申したところ、姫は倒れこみ、声も惜しまず泣かれた。

すぐに十二の年尼になって、奈良の法華寺に、尼としてお勤めして、父母の菩提を弔われたのは哀れなことであった。

有王は俊寛僧都の遺骨を首にかけ、高野にのぼり、奥の院に納める一方、蓮華谷で法師になり、全国あらゆる地を修業して、主人の後世を弔った。

このように人の思嘆のつもった、平家の行く末の恐ろしいことである。

語句

■生々世々 繰り返す現世と来世。 ■他生曠劫 正しくは多生曠劫。何度も生まれかわって非常に長い時間を過ごすこと。 ■ふしまろび 倒れこみ。 ■法華寺 奈良市にある尼寺、法華滅罪寺。藤原不比等邸宅跡、紫微中台跡とされる。 ■蓮華谷 高野山の集落。 ■七道 東海・東山・南海・西海・北陸・山陰・山陽の七道。日本全国。

……

俊寛が娘の手紙を読むところで、なんと幼稚な書きようだと、はやく都へ登れってそりゃ何だ。好きに動ける立場だったら三年も島にいない。ああこの幼さでは、宮仕えもできないし、結婚もおぼつかない…娘の文の幼稚さをみて、その将来を思いやり、心配して、愛しく思っている様子。リアルに、子を持つ親の気持が描かれていて胸を打ちます。

俊寛は登場時、傲慢な、思い上がった人物として描かれているだけに、こうした子供を思う親心、そして美しい言葉で季節の変化なんかを語る、ロマンチストなところが、前半とのギャップで、いよいよ俊寛の人物像を、魅力的に、引き立てています。

しかも、前半あれほど不信心で傲慢な人物として描かれていた俊寛が、最期には阿弥陀仏の名号をとなえて、心穏やかに往生する…。まさに「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」を地でいく、悪人だからこその、魂の救済ということが描かれていていると思います。

朗読・解説:左大臣光永

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