平家物語 四十四 医師問答(いしもんだふ)

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

『平家物語』巻第三より「医師問答」。病についた重盛は医師の診察を断り、ついに帰らぬ人となる。

前回「つじかぜ」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK043.html

あらすじ

重盛は平家の行く末を案じ、熊野へ参詣する。

熊野本宮の御前で、父清盛の悪行が目に余ることを心配し、それを止められない自身の非力を嘆く。

子孫の繁栄が続くなら、父清盛の悪心をやわらげ天下の安全を得させたまえ、 もし清盛一代の栄光ならば早く重盛の命を尽きさせ、来世での苦しみを助けたまえと祈る。

熊野からの帰り道、岩田川にて嫡子維盛以下の公達が浄衣の下に薄色の衣を着て水遊びをしていた。

すると、その水に濡れた衣の色が、まるで喪服の色のように見えたので、不吉に思った筑後守貞能が着替えせようとする。

しかし重盛は「我が願いは聞き入れられた」と喜び、熊野へささげ物を送った。

それから間もなくこの公達らは実際に喪服を着ることになった。

熊野から帰ってすぐ、重盛は病の床につく。

その頃宋から有名な医師が来日していた。清盛は越中前司盛俊を遣わし、この医師の診察を受けることを重盛に薦める。

しかし重盛は、醍醐天皇は名君のほまれ高かったが異国の観相師を招き入れたことが唯一の失策であったという話に始まり、

漢の皇祖が流れ矢に当たりながら治療を受けなかった例、

古代インドの名医、耆婆(ぎば)ですら釈迦の病を治せなかった例などを引き、

大臣の身でありながら異国からふらりと来たものに会うことは国の恥、道の廃れだと説き、治療を受けることを断る。

盛俊が帰って清盛にこれを告げると、清盛は感服し、息子の臨終に立ち会うため、都へ上る。

七月二十八日、小松殿(重盛)ご出家。

八月一日、四十三歳で帰らぬ人となる。

人々が嘆きあう中、宗盛卿の側近の人々は「これで宗盛殿の世になるに違いない」と 無邪気に喜んでいた。

原文

小松のおとどか様(やう)の事共を聞き給ひて、よろづ心ぼそうや思はれけん、其比熊野参詣(そのころくまのさんけい)の事ありけり。本宮証誠殿(ほんぐうしようじやでん)の御前にて、夜もすがら敬白(けいひやく)せられけるは、「親父(しんぶ)入道相国の体(てい)をみるに、悪逆無道(あくぎやくぶたう)にして、ややもすれば君をなやまし奉る。重盛長子(ちやうし)として、頻(しき)りに諫(いさめ)をいたすといへども、身不肖(ふせう)の間、かれもツて服膺(ふくよう)せず。そのふるまひをみるに、一期(いちご)の栄花(えいぐわ)猶あやふし。枝葉(しえふ)連続して、親(しん)を顕(あらは)し、名を揚げん事かたし。

此(この)時に当(あた)つて、重盛いやしうも思へり。なまじひに列して、世に浮沈(ふちん)せん事、敢(あ)へて良臣孝子(りやうしんかうし)の法(ほふ)にあらず。しかじ名を逃(のが)れ身を退(しりぞ)いて、今生(こんじょう)の名望(めいばう)を投げ棄て、来世の菩提(ぼだい)を求めんには。但(ただ)し凡夫薄地(ぼんぷはくぢ)、是非(ぜひ)にまどへるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子(ごんげんこんがうどうじ)、願はくは子孫繁栄(しそんはんえい)たえずして、仕(つか)へて朝廷にまじはるべくは、入道の悪心を和(やはら)げて、天下(てんか)の安全(あんせん)を得(え)しめ給へ。栄耀(えいえう)又一期(いちご)をかぎツて、後昆(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪(くりん)を助け給へ。両ケ(りやうか)の求願(ぐぐわん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰(あふ)ぐ」と、肝胆(かんたん)を摧(くだ)ひて祈念せられけるに、灯篭(とうろ)の火のやうなる物の、おとどの御身より出でて、ぱツと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れて是を申さず。又下向(げかう)の時、岩田川(いはだがわ)を渡られけるに、嫡子権亮少将維盛以下(ちやくしごんのすけぜうしやうこれもりいげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)の下に薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとなう河の水に戯(たはぶ)れ給ふ程(ほど)に、浄衣のぬれてきぬにうつツたるが、偏(ひとへ)に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)、これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣(おんじやうえ)の、よにいまはしきやうに見えさせおはしまし候(さうらふ)。召しかへらるべうや候らん」と申しければ、おとど、「わが所願既(すで)に成就しにけり。其(その)浄衣敢(あ)へてあらたむべからず」とて、別して岩田川より熊野へ、悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ立てられける。人あやしと思ひけれども、其心をえず。しかるに此(この)公達、程なくまことの色を着給ひけるこそふしぎなれ。

下向の後、いくばくの日数(につしゆ)を経ずして、病(やまひ)付き給ふ。権現すでに御納受(ごなふじゆ)あるにこそとて、療治(れうじ)もし給はず。祈祷(きたう)をもいたされず。其頃宋朝(そのころそうてう)より、すぐれたる名医わたツて、本朝にやすらふことあり。境節(をりふし)入道相国、福原(ふくはら)の別業(べつげふ)におはしけるが、越中守盛俊(ゑつちゆうのかみもりとし)を使者で、小松殿へ仰せられけるは、「所労弥(しよらういよいよ)大事なる由其(その)聞えあり。兼(か)ねては又(また)、宋朝より勝(すぐ)れたる名医わたれり。境節悦(よろこび)とす。是(これ)を召し請(しやう)じて、医療(いれう)をくはへしめ給へ」と宣(のたま)ひつかはされたりければ、小松殿たすけおこされ、盛俊を御前へ召して、「まづ医療の事、畏(かしこま)って承(うけたまは)り候ひぬと申すべし。但(ただ)し汝も承れ。延喜御門(えんぎのみかど)は、さばかンの賢王(けんわう)にてましましけれども、異国の相人(さうにん)を、都のうちへ入れさせ給ひたりけるをば、末代(まつだい)までも、賢王の御誤(あやまり)、本朝の恥とこそみえけれ。況(いはん)や重盛ほどの凡人(ぼんにん)が、異国の医師を王城(わうじゃう)へいれん事、国の恥にあらずや。漢高祖(かんのこうそ)は三尺の剣(けん)を提(ひつさ)げて、天下を治めしかども、淮南(わいなん)の黥布(けいふ)を討ちし時、流矢(りうし)にあたツて疵(きず)を蒙(かうむ)る。后呂太后(きさきりよたいこう)、良医(りやうい)をむかへて見せしむるに、医のいはく、『此疵治(このきずぢ)しつべし。但(ただ)し五十斤(ごしふこん)の金(きん)をあたへば治せん』といふ。

現代語訳

小松の大臣(内大臣重盛)は、このような事共をお聞きになり、万事心細く思われたのだろうか。そのころ熊野参詣をされた。

本宮証誠殿の御前にて、一晩中神仏に訴え申されたことは、

「わが父入道相国のようすを見るに、道に反した悪事を行い、ともすれば君を悩まし申し上げる。重盛は長子として、しきりに諌めるといっても、愚かなわが身であるので、父は従わない。

そのふるまいを見るに、一代の栄華すら危ない。子孫が続いて、親を顕彰し、名を揚げることは難しい。

この時にあたって、重盛いやしくも思う。なまじ大臣の位に列して、俗世の間に浮き沈みすることは、まったくよき家臣、よき子の道ではない。

名声を逃れ身を退いて、現世の名望をなげすて、来世での極楽往生を求めるのがよい。

ただし無知無能の凡夫のこと、善悪に迷うがゆえに、なお出家の気持ちを実行できないでいる。南無権現金剛童子、願うはくは子孫の繁栄がつづき、朝廷に仕えて人々と交わるというなら、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得られるようになさってください。

繁栄が一代限りのことで子孫に恥が及ぶようなら、重盛の寿命を縮めて、来世の車輪のように続く苦しみをお助けください。これら二つの願いについて、ひとえに神仏の助けを仰ぐ」

と、真心をつくして祈念なさったところ、灯籠の火のような物のが、大臣の御身から出て、ばッと消えるようにして失せてしまった。

人が多く見申し上げていたが、恐れてこれを申さない。また下向の時、岩田川を渡られた時、嫡子権亮少将維盛以下の公達が、浄衣の下に薄紫色の衣を着て、夏の事であるので、何となく河の水に戯れなさっていた時に、浄衣のぬれて衣に映ったのが、まるで喪服の墨染のように見えたので、筑後守貞能が、これを見かねて、

「何でございましょうか。あの御浄衣が、まことに不吉なようにお見えになります。お召かえになるのがよろしいでしょう」

と申したところ、大臣は、

「わが願いは既に成就した。その浄衣をけして改めてはならない」

といって、特に岩田川から熊野へ、感謝の奉幣使を立てられた。人は不思議に思ったが、その心がわからなかった。しかしこの公達は、程なくほんとうに喪服を着られることになったのは不思議であった。

下向の後、何日も日数を経ないで、病にかかられた。権現はすでにお聞き入れになったのだと、治療もなさらない。祈祷もなさらない。

その頃宋朝から、すぐれた名医が渡来して、本国にとどまっていたことがあった。ちょうど入道相国が福原の別荘にいらしたが、越中守盛俊を死者として小松殿に遣わして仰せになることは、

「病気がいよいよ重くなっていること聞いている。加えてまた、宋朝からすぐれた名医が渡来している。時期にかなって喜んでいる。これを召し招いて、治療をおさせになってください」

とおっしゃって遣わされたので、小松殿は助け起こされ、盛俊を御前に召して、

「まず医療の事、かしこまって承りましたと申せ。たたしお前も知っておけ。延喜の御門(醍醐天皇)は、あれほどの賢王であらせられたのに、異国の人相見を、都のうちにお入れになったことを、末代までも、賢王の御誤り、本国の恥と見たのだ。

まして重盛ほどの凡人が、異国の医師を王城に入れる事は、国の恥でないだろうか。漢の高祖(劉邦)は三尺の剣をさげて天下を治めたが、淮南の黥布を討った時、流れ矢に当たって傷を受けた。

后呂太后は、よい医者をむかえて見せたところ、医者の言うには、

『この傷は治るでしょう。ただし五十斤(こん)の金を与えれば治せましょう』という。

語句

■其比 『山槐記』に治承三年五月二十五日条、重盛出家の記事の中に三月熊野参詣とある。 ■本宮証誠殿 熊野本宮の第一殿。阿弥陀如来の垂迹、証誠大菩薩を祀る。 ■敬白 神仏に対して申し上げる。 ■悪逆無道 悪を行って道にはずれていること。 ■ややもすれば どうかすれば。ともすれば。しばしばそうなる傾向がある。 ■不肖 愚かであること。取るに足らないこと。 ■服膺 従うこと。 ■枝葉連続して 親から子へ代々家系が続いていくさま。 ■親を顕し 親を顕彰する。「身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは孝の終なり」(古文孝経・開宗明誼)。 ■なまじひに列して なまじ重臣に列して。 ■菩提 浄土に往生すること。 ■凡夫薄地 薄地の凡夫。無知・凡庸で煩悩まみれの人。 ■是非 よいことと悪いこと。善悪。 ■金剛童子 熊野三社の守り神。 ■栄耀又一期をかぎッて 繁栄が清盛一代に限られ。 ■後昆 こうこん。後の子孫。 ■運命 寿命。 ■苦輪 苦しみが車輪のように延々繰り返されること。 ■両ケの求願 りやうかのぐぐわん。二つの願い。 ■冥助 神仏の助力。 ■岩田川 岩田村(和歌山県西牟婁郡上富田町)を流れる川。熊野参詣の人はここで穢を落としてからまず熊野本宮に向かった。 ■浄衣 神社参拝の人が着る白い衣(狩衣)。 ■薄色 薄紫。 ■色のごとくに 喪服の薄墨色のように。 ■敢えて 後ろに打ち消しの言葉をともなって強調。「けして~ない」。 ■悦の奉幣 感謝の奉幣使。 ■福原の別業 神戸市兵庫区あたりの別荘。雪見御所。 ■所労 病気。 ■延喜御門 醍醐天皇。 ■さばかンの さばかりの転。あれほどの。 ■異国の相人 相人は人相見。『寛平御遺誡』(宇多天皇が譲位にあたって息子醍醐天皇にあてた教訓)に外人を見る時は簾中にて見るべきで直接対してはならないとある。『古事談』巻六に、醍醐天皇が簾中にいて相人に相をみさせた話。 ■漢高祖 『史記』項羽本紀に、高祖が黥布を撃った時、流れ矢が当たって重い病となった。医者が治療を提案すると、高祖はしかりつけて、わたしは賤しき身で三尺の剣をもって天下をとったのだ。これは天命である。命はそのまま天にある。たとえ扁鵲(名医の名)であっても何の役に立つかと、ついに治療せず、金五十斤を与えて下がらせたことが書かれている。 ■淮南 淮河南方の地域。 ■黥布 淮南王の名。 

原文

高祖宣はく、『われまもりのつよかツし程(ほど)は、多くのたたかひにあひて、疵を蒙(かうむ)りしかども、そのいたみなし。運すでに尽きぬ。命(めい)はすなはち天にあり。縦(たと)ひ扁鵲(へんじやく)といふとも、なんの益(えき)かあらん。しかれば、又かねを惜しむに似たり』とて、五十斤(こん)の金を、医師にあたへながら、つひに治せざりき。先言(せんげん)耳にあり。今もツて甘心(かんじん)す。重盛(しげもり)いやしくも九卿(きうけい)に列(れつ)して、三台(さんだい)にのぼる。其運命をはかるに、もツて天心(てんしん)にあり。なんぞ天心を察せずして、おろかに医療(いれう)をいたはしうせむや。所労(しよらう)もし定業(ぢやうごふ)たらば、医療(いれう)をくはふとも益なからん。又非業(ひごふ)たらば、療治をくはへずとも、たすかる事をうべし。彼耆婆(かのぎば)が医術(いじゅつ)、及ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を抜堤河(ばつだいが)の辺(ほとり)に唱ふ。是則(これすなは)ち定業の病(やまひ)いやさざる事をしめさんが為なり。定業猶(なほ)医療にかかはるべう候はば、豈釈尊入滅(あにしやくそんにふめつ)あらんや。定業又治(ぢ)するに堪へざる旨(むね)あきらけし。治するは仏体(ぶつたい)なり、療ずるは耆婆(ぎば)なり。しかれば重盛が身、仏体にあらず、名医(めいい)又耆婆に及ぶべからず。たとひ四部の書をかがみて、百療(はくれう)に長(ちやう)ずといふとも、いかでか有待(うだい)の穢身(ゑしん)を救療(くれう)せん。たとひ五経の説(せつ)を詳(つまびら)かにして、衆病(しゆびやう)をいやすと云ふとも、豈先世(あにぜんせ)の業病(ごふびやう)を治(ぢ)せんや。もしかの医術によツて存命(ぞんめい)せば、本朝の医道(いだう)なきに似たり。医術効験(かうげん)なくんば、面謁所詮(めんえつしよせん)なし。就(なかんづく)中本朝鼎臣(ていしん)の外相(げそう)をもツて、異朝富有(いてうふいう)の来客(らいかく)にまみえん事、且(かつう)は国の恥、且は道の陵遅(りようち)なり。たとひ重盛、命(めい)は亡(ばう)ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由(このよし)を申せ」とこそ宣ひけれ。

盛俊(もりとし)福原に帰り参ツて、此由泣く泣く申しければ、入道相国、「是程国の恥を思ふ大臣(だいじん)、上古(しやうこ)にもいまだきかず。まして末代(まつだい)にあるべしとも覚えず。日本に相応(さうおう)せぬ大臣なれば、いかさまにも今度うせなんず」とて、泣く泣く急ぎ都へ上られけり。

同(おなじき)七月廿八日、小松殿出家し給ひぬ。法名(ほふみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつき給へ。やがて八月一日(ひとひのひ)、臨終正念(りんじゆううしやうねん)に住して、遂に失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとみえつるに、哀れなりし事共なり。入道相国の、さしもよこ紙をやられつるも、此人のなほしなだめられつればこそ、世もおだしかりつれ、此後天下(てんか)にいかなる事か出でこんずらむとて、京中の上下歎(なげ)きあへり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)のかた様の人は、「世は只今大将殿(だいしやうどの)へ参りなんず」とぞ悦(よろこ)びける。人の親の子を思ふならひは、おろかなるが先立つだにもかなしきぞかし。いはんや是は、当家の棟梁(とうりやう)、当世(たうせい)の賢人にておはしければ、恩愛(おんあい)の別(わかれ)、家の衰微(すいび)、悲しんでも猶余(なほあまり)あり。されば世には良臣(りやうしん)をうしなへたる事を歎(なげ)き、家には武略(ぶりやく)のすたれぬる事をかなしむ。凡(およ)そは此おとど、文章うるはしうして、心に忠(ちゆう)を存じ、才芸すぐれて、詞(ことば)に徳を兼ね給へり。

現代語訳

高祖がおっしゃることに、

「私が強く護られていた時には、多くの戦いにあって、傷を受けたけれども、その痛みはない。運はすでに尽きた。命はすなわち天にあり。たとえ名医扁鵲であっても、なんの効き目があろう。だから医者は断るが、それではまた金を惜しむようなものだ」といって、五十斤の金を、医師に与えながら、ついに治療はしなかった。

その先例を聞いていてる。今これをきいて納得する。重盛はいやしくも公卿の列に加わり、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)に准ずる地位にのぼった。

その運命をはかるには、天の心によってはかるのだ。どして天の心を察しないで、おろかに医療をわずらわせようか。

病気がもし前世からの定まった業であれば、医療を加えても効き目がないのではないか。また前世からの業でないなら、医療を加えなくても、助かるだろう。

あの耆婆すら医術に及ばずに釈尊は抜堤河(ばつだいが)のほとりで入寂された。これはつまり、前世から定まった業としての病は癒やすことができないことを示そうとしたためである。

前世からの業がそれでもなお医療によって治るなら、どうして釈尊の入滅があるだろう。前世からの業は治すことができない趣旨はあきらかである。

治す対象は仏の体、治療するのは耆婆であっても治らないのだ。

であれば重盛の身は仏の体ではなく、名医といつても耆婆には及ぶはずもない。

たとえ四部の医学書を参照して、百の治療法に長じているといっても、どうして他に頼る穢れた身を治療することができよう。

たとえ五経の医学書の説を詳しく理解して、あらゆる病を癒やすといっても、どうして前世からの業としての病を治すことができようか。

もしその医術によって存命するなら、本国の医道はないに等しい。医術にききめがないなら、面会してもかいがない。

特にわが国の大臣たる身でありながら、異国からふらりと来た来客にまみえることは、一方では国の恥であり、一方では政道が次第に衰退することである。

この旨を申せ」とおっしゃった。

盛俊は福原に帰り参って、このことを泣く泣く申したところ、

入道相国は、

「これほど国の恥を思う大臣は、上古にもいまだきかない。まして末代にあるようにも思えない。日本にふさわしくない大臣であるので、どちらにしても今度亡くなるであろう」

といって、泣く泣く急ぎ都へお上りになった。

同年七月二十八日、小松殿は出家なさった。法名は浄蓮とつけられた。やがて八月一日、臨終正念のうちに、ついにお亡くなりになった。御年四十三。

盛りの年頃と見えたのに、哀れであった事どもであった。入道相国のあれほど横紙破りであったのも、この人が直し宥められたからこそ、世も平穏であったのが、今後、天下にどんなことが出てくるだろうと、京中の上下は嘆きあった。

前右大将宗盛卿の身内の人は、

「世の只今、大将殿のほうに参るだろう」と喜んだ。

人の親の子を思う常として、愚かな子が先立つのさえ悲しいものだ。ましてこれは、当家の棟梁にして、当代の賢人にていらっしゃったので、恩愛の別、家の衰微と悲しんでもなお余りある。

だから世には良き大臣を失った事を嘆き、家には武略の優れていた事をかなしむ。いったいこの大臣は、容姿ふるまいが素晴らしく、心に忠があり、才芸すぐれて、言葉にも徳を持っておられた。

語句

■五十斤 斤(こん)は金の単位。十六両。 ■扁鵲 中国春秋戦国時代の名医。 ■甘心 納得すること。 ■九卿 中国の9つの高官の長。日本でいう公卿。 ■三台 太政大臣・左大臣・右大臣。重盛はそれらに准ずる内大臣。 ■いたはしうす 骨を折る。煩わす。 ■定業 前世の行いによって定められた結果。 ■耆婆 中インドマカダ国の名医。アジャセ王の兄の子。 ■大覚世尊 釈迦。 ■滅度 入滅すること。 ■抜堤河 ばつだいが。マカダ国の川。 ■四部の書 中国の4つの医学書。素問経、大素経、難経、明堂経。 ■かがみて 鑑みて。参照して。 ■百療 はくれう。あらゆる治療法。 ■有待 うだい。他に依存することから、人間の肉体。 ■五経 中国の五つの医書。素問経・霊柩経・難経・金櫃要略・甲乙経(和漢名数)。 ■面謁所詮なし 面会しても仕方ない。 ■鼎臣 三公。太政大臣・左大臣・右大臣。 ■外相 外に現れた形。 ■異朝富有 富有は「浮遊」か?異国からふらりと来た者。 ■陵遅 しだいに衰えること。 ■いかさまにも 何様にも。どちらにしても。どうしても。 ■同七月廿八日 治承三年五月二十五日(玉葉、山槐記)七月二十八日(公卿補任)。 ■八月一日 治承三年八月一日(愚管抄、百錬抄、公卿補任)。七月二十九日(玉葉)。 ■臨終正念 臨終に際し正しく念仏を唱えて逝くこと。 ■住して ~のうちに。 ■よこ紙をやられつる 無理を押し通す強引な性格。和紙は横には破れにくいがそれを無理に破ることから。 ■おだしかりつれ 穏し。穏やかであった。無事であった。 ■かた様の人 身内の者。 ■当世 今の世。当代一。 ■文章 容貌・しぐさなど外にあらわれたもの。

……

必ずしも『平家物語』がいうように平重盛が清廉潔白な、聖人君子だったかはわかりませんが、『平家物語』の中ではそういうキャラクター性を与えられています。

とくに「国の恥を思う大臣であった」ということが強調されています。

今は国の恥を思わない大臣ばかりですからね…重盛の話をきかせてやりたいところです。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル