平家物語 四十五 無文(むもん)

【無料配信中】福沢諭吉の生涯
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

『平家物語』巻第三より「無文(むもん)」。平重盛は平家滅亡を暗示する夢を見て、大臣葬の時に用いる「無文の太刀」を、息子維盛に託す。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/HK045.mp3

前回「医師問答」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK044.html

あらすじ

生前の重盛は、不思議な霊感を持った人だった。ある時、平家滅亡を暗示する夢を見た。夢からさめた後、重盛は平家の滅亡をさとって涙した。

その時、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)が訪ねてきた。聞くと、重盛が見たと全く同じ夢を見たという。これを機に重盛は兼康が神に通じる力を持っていると感じるようになった。

次の朝、嫡子権亮少将維盛(ごんのすけしょうしょう これもり)を呼び出し、酒をふるまい、「無文の太刀」を託す。

「無文の太刀」は大臣葬の時使う儀式用の太刀で、入道清盛に万一のことがあった場合、重盛が扱うべきものだった。

しかし重盛は、「自分は入道殿に先立つことになろうから」と、維盛に無文の太刀を託したのだった。

重盛が亡くなったのは、その後熊野参詣をして、しばらく後のことだった。

原文

天性(てんぜい)このおとどは、不思議の人にて、未来の事をも、かねてさとり給ひけるにや。去(さんぬる)四月七日の夢に、見給ひけるこそふしぎなれ。たとへば、いづくとも知らぬ浜路(はまぢ)を、遥々(はるばる)とあゆみ行き給ふ程に、道の傍(かたはら)に大きなる鳥居のありけるを、「あれはいかなる鳥居やらん」と問ひ給へば、、「春日大明神の御鳥居なり」と申す。人多く群集(くんじゆ)したり。其中(そのなか)に法師の頸(くび)を、一つさしあげたり。「さてあのくびはいかに」と問ひ給へば、「是(これ)は平家太政大臣入道殿の御頸を、悪行超過(あくぎやうてうくわ)し給へるによツて、当社(たうしや)大明神の、召しとらせ給ひて候(さうらふ)」と申すと覚えて夢うちさめ、「当家は保元平治(ほうげんへいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたひらげて、勧賞(けんじやう)身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚(ぐわいせき)として、一族の昇進(しようじん)六十余人、廿余年のこのかたは、たのしみさかえ、もうすはかりもなかりつるに、入道の悪行超過せるによツて、一門の運命すでにつきんずるにこそ」と、こし方行く末の事共おぼしめしつづけて、御涙にむせばせ給ふ。
折節(をりふし)、妻戸(つまど)をほとほとと打ちたたく。「たそ。あれ聞け」と宣(のたま)へば、「瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)が参ツて候」と申す。「いかに何事ぞ」と宣へば、「只今不思議の事候(さぶら)うて、夜の明け候はんが、おそう覚え候間、申さんが為に参ツて候。御前(おんまへ)の人をのけられ給へ」と申しければ、おとど人を遥(はる)かにのけて御対面(ごたいめん)あり。さて兼康見たりける夢のやうを、始(はじめ)より終(おはり)まで、くはしう語り申しけるが、おとどの御覧じたりける御夢に、すこしもたがはず。さてこそ、瀬尾太郎兼康をば、神(しん)にも通じたる者にてありけりと、おとども感じ給ひけれ。

其朝(そのあした)、嫡子権亮少将維盛(ちやくしごんのすけぜうしやうこれもり)、院御所(ゐんのごしよ)へ参らんとて、出でさせ給ひたりけるを、おとどよび奉ツて、「人の親の身として、か様(やう)の事を申せば、きはめてをこがましけれども、御辺(ごへん)は人の子共の中には、勝(すぐ)れてみえ給ふなり。但(ただ)し此世(このよ)の中の有様、いかがあらむずらんと、心ぼそうこそ覚ゆれ。貞能(さだよし)はないか。少将に酒すすめよ」と宣へば、貞能御酌(おんしやく)に参りたり。「この盃(さかづき)をば、先(ま)ず少将にこそとらせたけれども、親より先(さき)にはよものみ給はじなれば、重盛まづ取りあげて少将にささん」とて、三度うけて少将にぞさされける。少将又三度うけ給ふ時、「いかに貞能、引出物(ひきでもの)せよ」と宣へば、畏(かしこま)つて承(うけたまは)り、錦の袋にいれたる御太刀(おんたち)を取出(とりいだ)す。「あはれ是(これ)は、家に伝はれる小烏(こがらす)といふ太刀やらん」なンど、よにうれしげに思ひて見給ふ処(ところ)に、さはなくして大臣葬(だいじんさう)の時用ゐる無文(むもん)の太刀にてぞありける。其時(そのとき)少将けしきかはツて、よにいまはしげにみ給ひければ、おとど涙をはらはらとながいて、「いかに少将、それは貞能(さだよし)がとがにもあらず。其故は如何(いか)にいふに、此太刀は大臣葬の時用ゐる無文の太刀なり。入道いかにもおはせん時、重盛がはいて供せんとて持ちたりつれども、今は重盛、入道殿に先立ち奉らんずれば、御辺(ごへん)に奉るなり」とぞ宣ひける。少将是を聞き給ひて、とかうの返事にも及ばず、涙にむせびうつぶして、其日は出仕もし給はず、引きかづきてぞふし給ふ。其後(そののち)おとど熊野へ参り、下向して病(やまひ)つき、幾程(いくほど)もなくして、遂に失せ給ひけるにこそ、げにもと思ひ知られけれ。

現代語訳

生まれつきこの大臣は、不思議な人で、未来の事も、あらかじめさとりなさっていたのだろうか。

去る四月七日の夢に、御覧になつたことは不思議であった。詳しくいえば、どことも知らない浜路を、はるばると歩み行かれている時、道の傍らに大きな鳥居のあったのを、

「あれはどういった鳥居だろう」

とご質問になられると、

「春日大明神の御鳥居である」

と申す。

人が多く集まっている。

その中に法師の首を、一つさしあげている。

「さあてあの首は何だ」

とご質問になると、

「これは平家太政入道殿の御首を、悪行がお過ぎになられたので、当社大明神が、召し捕らせなさったのでございます」

と申すと思うと夢さめて、

「わが家は保元平治よりこのかた、何度も朝敵を征伐し、褒賞をいただくことは身に余り、恐れ多くも天皇の御外戚として、一族の昇進六十余人、二十余年のこのかたは、楽しみ栄えたのは言葉に尽くすこともできなかったのに、入道の悪行が過ぎたことによって、一門の運命すでに尽きてしまうのに違いない」

と、過去未来のさまざまな事を思い続けられ、御涙にむせびなさる。

その時、妻戸をほとほとと打ち叩く。

「誰だ。あの戸を叩く者の名を聞いてこい」

とおっしゃったところ、

「瀬尾太郎兼康が参ってございます」

と申す。

「どうした何事だ」とおっしゃると、

「ただ今不思議の事がございまして、夜の明けますのが遅く思えてございましたので、申そうとして参ってございます。御前の人をお退けになってください」

と申したところ、大臣は人をはるかに退けて御対面なされた。

そこで兼康は見た夢のさまを、始から終まで、くわしく語り申したが、大臣の御覧になった御夢に、すこしも違わない。

それで、瀬尾太郎兼康を、神にも通じる者であったと、大臣もご感心なされた。

翌朝、嫡子権亮少将維盛はが院の御所に参ろうということで、出発なさろうとしていたところ、大臣が及び申し上げて、

「人の親の身として、このような事を申せば、きわめて愚かなようであるが、お前は人の子らの中には、すぐれてお見えになる。ただしこの世の中の有様は、どうなるだろうと、心ぼそく思われる。貞能はないか。少将に酒をすすめよ」

とおっしゃると、貞能は御酌に参った。

「この盃を、まず少将にとらせたいが、親より先にはまさかお飲みにならないだろうから、重盛がまず取り上げて少将にさそう」

といって、三度受けて少将にさされた。

少将がまた三度お受けになる時、「さあ貞能、引出物をさしあげろ」とおっしゃると、畏まって承知して、錦の袋に入れた御太刀を取り出す。

「ああこれは、家に伝わる小烏という太刀であろう」

など、たいそううれしげに思って御覧になるところに、そうではなくて、大臣の葬儀の時用いる無文の(無地で装飾のない)太刀であった。

その時少将は顔色が変わって、たいそう不吉なものと御覧になったので、大臣は涙をはらはらと流して、

「どうした少将、それは貞能の間違ったのではないぞ。それはなぜかというと、この太刀は大臣の葬儀の時用いる無文の太刀である。入道がお亡くなりになる時、重盛がはいて供しようと持っていたが、今は重盛は、入道殿に先立ち申し上げるだろうと思うから、お前に差し上げるのだ」

とおっしゃった。

少将はこれをお聞きになり、どうにもこうにも返事もできない。涙にむせびうつ伏せになって、その日は出仕もなさらず衣を引きかぶってお伏しになっていた。

その後大臣は熊野に参詣し、下向して病にかかり、どれほどもなく、遂にお亡くなりになったので、なるほどもっともだと思い知られた。

語句

■天性 生まれつき。 ■春日大明神 奈良の春日社。現春日大社。藤原氏の氏神。 ■群衆 くんじゆ。集まっている。 ■瀬尾太郎兼康 備中国瀬尾の住人。 ■さてこそ それで。 ■其朝 四月八日朝。 ■引出物 饗応の時、主人が客に贈るもの。 ■小烏 巻十「維盛出家」に小烏のゆえんが書かれている。「小烏といふ太刀は平将軍貞盛より当家に伝へて、維盛までは嫡々九代にあひあたる」。 ■無文の太刀 公卿以上の葬儀の時五位以上の者が佩く太刀。無地で飾りがない。 ■いかにもおはせん 亡くなることの婉曲表現。

………

重盛が平家滅亡を暗示する夢をみて、また自分の死を察知して、息子の維盛を呼んで、大臣葬のときに使う無文の太刀…無地で飾りのない太刀をたくすというくだりでした。

平家物語では主要人物が亡くなった後、その人物についての逸話を語る場合があります。これを「追悼話群(ついとうわぐん)」といったりします(誰が名付けたのかは知りませんが)。

もっとも追悼話群があるのは平重盛、源頼政、高倉上皇、平清盛の四人だけです。

今回をあわせて重盛の追悼話群が三話、つづきます。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン