平家物語 四十七 金渡(かねわたし)

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平家物語巻第三より「金渡(かねわたし)」。平重盛は、平家一門の子々孫々までの繁栄のため、宋国に黄金を送った。

あらすじ

平重盛は、平家一門の子々孫々までの繁栄のためには国内に良い行いをするだけでは足りないと考えた。

そこで鎮西(九州)から妙典という船頭を呼び寄せて三千両五百両を持たせ命じた。このうち五百両をお前に与える。三千両を宋朝にはこび、育王山(いおうざん)に行って僧ゆ千両を寄付し、二千両を宋国の帝にお渡し、田地を育王山に寄進して私の後世を弔わせよと。

妙典は重盛の言葉どおり宋国に渡り、仏照禅師徳光に会って取り次いでもらい、千両を育王山に、二千両を帝に渡した。

宋朝の帝はこのことを聞かれ、五百町の田代を育王山に寄付した。なので、日本国の大臣、平重盛公の後生を祈ることは今に続いているときいている。

原文

又おとど、「我朝(わがてう)にはいかなる大善根(だいぜんこん)をしおいたりとも、子孫あひついでとぶらはむ事有りがたし。他国にいかなる善根をもして、後世(ごせ)を訪(とぶら)はればや」とて、安元(あんげん)の比ほひ、鎮西(ちんぜい)より妙典(めうでん)といふ船頭(せんどう)を召しのぼせ、人を遥(はる)かにのけて、御対面(たいめん)あり。金(こがね)を三千五百両召し寄せて、「汝(なんぢ)は大正直(だいしやうぢき)の者であんなれば、五百両をば汝にたぶ。三千両を宋朝(そうてう)へ渡し、育王山(いわうさん)へ参らせて、千両を僧にひき、二千両をば御門(みかど)へ参らせ、田代(でんだい)を育王山へ申し寄せて、我後世とぶらはせよ」とぞ宣(のたま)ひける。妙典是(めうでんこれ)を給はツて、万里(ばんり)の煙浪(えんらう)を凌ぎつつ、大宋国(だいそうこく)へぞ渡りける。育王山の方丈(ほうじやう)、仏照禅師徳光(ぶつせうぜんじとくくわう)にあひ奉り、此由申したりければ、随喜感嘆(ずいきかんたん)して、千両を僧にひき、二千両をば御門へ参らせ、おとどの申されける旨(むね)を、具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、御門大きに感じおぼしめして、五百町の田代(でんだい)を、育王山へぞ寄せられける。されば日本の大臣、平朝臣重盛公の、後生善処)ごしやうぜんしよ)と祈る事、いまに絶えずとぞ承る。

現代語訳

また大臣は、「わが国にはどれほど大きな善根を行い置いたとしても、子孫が末永く弔う事はない。他国にどんな善根をも行って、後世を弔われようぞ」

といって、安元の頃、鎮西から妙典という下級の僧を召しのぼらせ、人を遥かに遠ざけて、御対面あった。

金を三千五百両召し寄せて、

「お前はとても正直者であるので、五百両をお前に与える。三千両を宋朝に渡し、阿育王寺に届け、千両を僧に贈り、二千両を御門(皇帝)に届け、田地を阿育王寺へ寄進して、わが後世を弔わせよ」

とおっしゃった。

妙典はこれをいただいて、万里の波をしのぎながら、大宋国へ渡った。

阿育王寺の住職、仏照禅師徳光にお会いして、このことを申したところ、心から喜び感心して、千両を僧に贈り、二千両を御門へ献上して、大臣の申された次第を、細かく奏上されたところ、御門はたいそう感心されて、五百町の田代を阿育王寺へ寄進された。

であるので日本の大臣、平朝臣重盛公が、後生、極楽往生するように祈ることが、今まで絶えないときいている。

語句

■安元の比ほひ 1175-77年。 ■船頭 専当の当て字。雑役をする下級の僧。 ■三千五百両 額は諸本によって違いがある。 ■医王山 中国浙江省寧波の阿育王寺。鑑真和上ゆかりで有名。 ■田代 田一枚を代と数える。田の土地。 ■方丈 住職の居室。転じて住職のこと。 ■仏照禅師徳光 南宋の高僧。 ■ひく 贈る。 ■随喜 心から喜ぶこと。 ■後生善処 来世でよいところ(極楽浄土)に生まれること。

……

重盛は自分個人の来世のために金をつくして祈らせており世のため人のために祈っていないのは志の低いことだと思います。

そもそも大金を積むのは平家の財力があればこそできることでとくに重盛の立派さをしめすエピソードにはならないと感じます。

朗読・解説:左大臣光永

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