平家物語 四十八 法印問答(ほふいんもんだふ)

原文

入道相国(にふだうしやうこく)、小松殿におくれ給ひて、よろづ心ぼそうや思はれけん、福原へ馳(は)せ下り、閉門(へいもん)してこそおはしけれ。同(おなじき)十一月七日(なぬか)の夜、戌剋(いぬのこく)ばかり、大地(だいぢ)おびたたしう動いてやや久し。陰陽頭安倍泰親(おんやうのかみあべのたいしん)、いそぎ内裏(だいり)へ馳(は)せ参ツて、「今度の地震、占文(せんもん)のさす所、其慎(そのつつしみ)かろからず。当道(たうだう)三経(ぎやう)の中に、根器経(ここきやう)の説(せつ)を見候(さふらふ)に、年をえては年を出でず、月をえては月を出でず、日をえては日を出でずとみえて候。以(もつ)ての外(ほか)に火急候(くわきふさうらふ)」とて、はらはらとぞ泣きける。伝奏(てんそう)の人も色をうしなひ、君も叡慮(えいりよ)をおどろかせおはします。わかき公卿殿上人は、「けしからぬ泰親(やすちか)が今の泣きやうや。何事のあるべき」とてわらひあはれけり。されどもこの泰親は、晴明(せいめい)五代の苗裔(べうえい)をうけて、天文(てんもん)は淵源(ゑんげん)をきはめ、推条掌(すいでうたなごころ)をさすが如し。一事もたがはざりければ、さすの神子(みこ)とぞ申しける。いかづちの落ちかかりたりしかども、雷火(らいくわ)の為に狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)は焼けながら、其身はつつがもなかりけり。上代にも末代(まつだい)にも、ありがたかりし泰親なり。

同(おなじき)十四日、相国禅門(しやうこくぜんもん)此日ごろ福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけむ、数千騎(すせんぎ)の軍兵(ぐんぴやう)をたなびいて、都へ入り給ふ由聞えしかば、京中何と聞きわきたる事はなけれども、上下おそれをののく。何者の申し出(いだ)したりけるやらん、「入道相国、朝家(てうか)を恨み奉るべし」と披露(ひろう)をなす。関白殿内々(ないない)きこしめさるる旨(むね)やありけん、急ぎ御参内あツて、「今度相国禅門入洛(じゆらく)の事は、ひとへに基房亡(もとふさほろぼ)すべき結構(けつこう)にて候なり。いかなる目に逢(あ)ふべきにて候やらん」と奏せさせ給へば、主上大きにおどろかせ給ひて、「そこにいかなる目にもあはむは、ひとへにただわがあふにてこそあらんずらめ」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給ふぞ忝(かたじけな)き。誠に天下の御政(おんまつりごと)は、主上、摂録(せつろく)の御(おん)ばからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共ぞや。天照太神(てんせうだいじん)、春日大明神の、神慮(しんりよ)の程(ほど)も計(はか)りがたし。

同(おなじき)十五日、入道相国(にふだうしやくこく)、朝家(てうか)を恨み奉るべき事、必定(ひつぢやう)と聞えしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息静憲法印(じやうけんほふいん)を御使(おつかい)にて、入道相国のもとへつかはさる。

「近年朝廷(きんねんてうてい)しづかならずして、人の心もととのほらず、世間も未(いま)だ落居(らくきよ)せぬ様(さま)になり行く事、惣別(そうべつ)につけて歎(なげ)きおぼしめせども、さてそこにあれば万事はたのみおぼしめしてこそあるに、天下(てんか)をしづむるまでこそなからめ、嗷々(がうがう)たる体(てい)にて、あまツさへ朝家を恨むべしなンどきこしめすは、何事ぞ」と仰せつかはさる。静憲法印御使に、西八条(にしはつでう)の亭(てい)へむかふ。朝(あした)より夕(ゆふべ)に及ぶまで待たれけれども、無音(ぶいん)なりければ、さればこそと無益(むやく)に覚えて、源大夫判官季貞(げんだいふのはうぐわんすゑさだ)をもツて、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)いひ入れさせ、「暇(いとま)申して」とて出でられければ、其時(そのとき)入道、「法印よべ」とて出でられたり。

現代語訳

入道相国は、小松殿に死に遅れて、万事心細く思われたのだろうか、福原へ馳せ下り、引き込もって謹慎していらした。

同年(治承三年)十一月七日の夜、戌の刻(午後八時)頃、大地がひどく動いてやや長い間続いた。

陰陽頭安倍泰親がいそいで内裏に馳せ参って、

「今度の地震について、占いの結果が示すところは、そのための謹慎は軽くありません。陰陽道の三経の中に、金匱経(こんききょう)の説を見ますに、年でいえば年の内、月でいえば月の内、日でいえば日のうちとみえてございます。いつもにないほど、火急のことでございます」といって、はらはらと泣かれた。

伝奏(天皇・上皇への連絡役)の人を顔色を失い、(高倉)天皇も驚いておられる。若き公卿殿上人は、「常軌を逸した泰親の今の泣きようよ。何事があったのだろう」といって笑い合われた。

しかしこの泰親は安倍晴明五代の末裔であり、天文は深みを極め、予言することは手の平をさすようである。一つの事も間違わないので、「指(さ)すの神子(みこ)」と申した。

雷が落ちかかったが、雷火のために狩衣の袖は焼けながら、その身は無事であった。

上代にも末代にも、めったにない泰親である。

同月(十一月)十四日、相国禅門は最近福原にいらっしゃるが、どういうお気持ちになられたのだろうか、数千騎の軍勢を引き連れて、都へお入りになることが噂になったので、京中は何と聞きおよぶことはないが、上も下も恐れおののく。

何者が申し出したのだろうか、

「入道相国は、朝家(天皇家)を恨み申し上げているようだ」

と申し広める。

関白殿(藤原基房)は内々お聞き及びになることでもあったのだろう、急ぎご参内して、

「今度の入道禅門都入りのことは、ひとえに基房を亡ぼそうという計画でございます。どんな目にあわねばならぬのでございましょうか」

と奏上なさると、主上は大いに驚かれ、

「そなたがどんな目にもあうのであれば、ひたすらただ私があうのと同じ目にあうのだろう」

といって、御涙をお流しになるのは忝ないことである。

まったく天下の御政は、主上と摂政関白の御はからいで行われるものであるのに、これはどうした事であろうか。

天照大神、春日大明神のお考えの具合も、わからない。

同月(十一月)十五日、入道相国が朝廷を恨み申し上げていることは確実ときこえたので、法皇は大いに驚かれて、故少納言入道信西の息子、静憲法印を御使として、入道相国のもとに遣わされた。

「近年朝廷が静かでなく、人の心も調和せず、世間もいまだ落ち着かない様になり行く事を、万事につけて嘆いているが、さてそなたがいらっしゃれば万事は頼みに思っているのに、天下を静めるまではしないまでも、騒々しい様子で、その上朝廷を恨んでいるらしいなどと耳に入るのは何事か」

と仰せ遣わされた。

静憲法印は御使として、西八条の邸へ向かう。

朝から夕方まで待ったが、音沙汰ないので、さては思った通りだと無駄に思えて、源大夫判官季貞に、天皇のお言葉のあらましを言い入れさせ、

「お暇する」

といって出られところ、その時入道が、

「法印をよべ」

といって出てこられた。

語句

■閉門 家に引きこもって謹慎していること。 ■戌刻ばかり 午後8時頃。 ■陰陽頭 陰陽寮の長官。 ■占文 占いの文言。 ■慎み 占いにしめされた地震を避けるために必要な謹慎。 ■当道 陰陽道。 ■三経 金匱経・枢機経・神枢霊轄。 ■根器経 金匱経の当て字。 ■年をえては 年でいえば。 ■伝奏 てんそう。天皇・上皇に取り次ぎ上奏する役人。 ■けしからぬ 常軌を逸した。 ■清明 安倍晴明。 ■苗裔 子孫。清明→吉平→時親→有行→泰長→泰親。 ■推条 占い予言すること。 ■さすの神子 指すの神子。指さすようにピタリ言い当てるという意。 ■たなびいて 大勢を引き連れて。 ■披露 言い広める。 ■関白殿 藤原基房。 ■結構 計画。 ■摂録 せつろく。摂政関白の唐名。 ■故少納言入道信西 藤原通憲。日向守、少納言に至るも出世の望みなく出家して信西と名乗った。しかし後白河上皇に重く用いられ院政に参加。学識すぐれ、大内裏の再建事業などを成し遂げたが、平治の乱で死ぬはめになった。 ■静憲法印 藤原通憲の六男。思慮深い人物で後白河も清盛も清憲を信用していた。 ■ととのほらず ととのわず。調和しない。 ■惣別につけて 万事につけて。 ■嗷々(がうがう)たる体(てい) 騒がしい様子。 ■無音 音沙汰もない。 ■勅定 天皇の仰せ。
 

原文

喚(よ)びかへいて、「やや法印御房(ほふいんのおんぼう)、浄海(じやうかい)が申す処(ところ)は僻事(ひがごと)か。まづ内府(だいふ)が身まかり候ひぬる事、当家の運命をはかるにも、入道随分悲涙(ずいぶんひるい)をおさへてこそ罷過(まかりす)ぎ候へ。御辺(ごへん)の心にも推察し給へ。保元(ほうげん)以後は、乱逆(らんげき)打ちつづいて、君やすい御心(おんこころ)もわたらせ給はざりしに、入道はただ大方を取りおこなふばかりでこそ候へ。内府こそ手をおろし身を摧(くだ)いて、度々(どど)の逆鱗(げきりん)をばやすめ参らせ候へ。其外臨時(そのほかりんじ)の御大事(おんだいじ)、朝夕(てうせき)の政務(せいむ)、内府程(ほど)の功臣(こうしん)ありがたうこそ候らめ。

爰(ここ)をもツて古(いにしへ)を思ふに、唐(たう)の太宗(たいそう)は魏徴(ぎちよう)におくれてかなしみのあまりに『昔の殷宋(いんそう)は夢のうちに良弼(りやうひつ)をえ、今の朕(ちん)は、さめの後賢臣(けんしん)を失ふ』といふ碑(ひ)の文(もん)をみづから書いて、廟(べう)に立ててだにこそかなしみ給ひけるなれ。我朝にもま近く見候ひし事ぞかし。顕頼民部卿(あきよりのみんぶきやう)が逝去(せいきよ)したりしをば、故院(こゐん)殊に御歎(おんなげき)あツて、八幡行幸延引(やはたのぎやうがうえんいん)し、御遊(ぎよいう)なかりき。惣じて臣下の卒(しゆつ)するをば、代々御門(だいだいのみかど)、みな御歎(おんなげき)ある事でこそ候へ。さればこそ親よりもなつかしう、子よりもむつましきは、君と臣との中とは申す事にて候らめ。されども内府が中陰に(ちゆういん)に、八幡(やはた)の御幸(ごかう)あツて御遊(ぎよいう)ありき。御歎(おんなげき)の色一事(いちじ)も是(これ)を見ず。たとひ入道がかなしみを御(おん)あはれみなくとも、などか内府が忠をおぼしめし忘れさせ給ふべき。

たとひ内府が忠をおぼしめし忘れさせ給ふとも、いかでか入道が歎(なげき)を御(おん)あはれみなからむ。父子共に叡慮(えいりよ)に背(そむ)き候ひぬる事、今において面目(めんぼく)を失ふ。是(これ)一つ。次に越前国(ゑちぜんのくに)をば、子々孫々まで、御変改(ごへんがい)あるまじき由、御約束(おんやくそく)あツて下し給はツて候ひしを、内府におくれて後、やがてめしかへされ候事は、何(なむ)の過怠(くわたい)にて候やらむ、是一つ。次に中納言闕(けつ)の候ひし時、二位中将(にゐのちゆうじやう)の所望候ひしを、入道随分執(と)り申ししかども、遂に御承引(ごしよういん)なくして、関白の息(そく)をなさるる事はいかに。たとひ入道非拠(ひきよ)を申しおこなふとも、一度はなどかきこしめし入れざるべき。申し候はんや、家嫡(けちやく)といひ、位階(ゐかい)といひ、理運左右(りうんさう)に及ばぬ事を、引きちがへさせ給ふは、本意(ほい)なき御(おん)ぱからひとこそ存じ候へ、是一つ。次に新大納言成親卿以下(いげ)、鹿谷(ししのたに)に寄りあひて、謀反(むほん)の企(くはだて)候ひし事、まツたく私(わたくし)の計略(けいりやく)にあらず。併(しか)しながら君御許容(ごきよよう)あるによツてなり。事新しき申し事にて候へども、七代までは此(この)一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに入道七旬(しつしゆん)に及んで、余命(よめい)いくばくならぬ一期(いちご)の内にだにも、ややもすれば亡(ほろぼ)すべき由、御ぱからひあり。申し候はんや、子孫あひついて、朝家に召しつかはれん事ありがたし。

現代語訳

法印を呼び戻して、

「さて法印御房、浄海が申すところは間違いだろうか。まず内府(重盛)が亡くなりました事は、当家の運命をはかるにも、入道はずいぶん悲しみの涙を抑えてまかり過ごしてございます。あなたも推察ください。保元以後は、反逆・謀反が打ちつづいて、天皇はお心やすくもお過ごしになれませんでしたのに、入道はただ大方の事を行うばかりでございました。内府こそが手をおろし身をくだいて、たびたびの天皇のお怒りをやすめ申し上げてきました。その他臨時の御大事、朝夕の政務、内府ほどの功績ある大臣はめったにございません。

ここについて昔を思うに、唐の太宗(2代李世民)は臣下魏徴に先立たれて悲しみのあまりに、『昔の殷宗(殷の22代王)は夢のうちに良い臣下を得たが、今の朕は目覚めて後、すぐれた家臣を失う」という碑の文言をみずから書いて、それを霊廟に立ててまで悲しまれたといいます。

わが国にもま近く見ます事です。

顕頼民部卿が逝去なさったのを、故院(鳥羽上皇)がことにお嘆きになり、石清水八幡宮への行幸を延期し、御遊もなさらなかった。

総じて臣下の逝去することを、代々の御門はみな御嘆きある事でございます。

だからこそ親よりもなつかしく、子よりも睦ましいのは、君と臣の仲と申す事でございます。

それなのに内府の中陰(四十九日)の間に、石清水八幡宮に御幸され、御遊された。御嘆の色はまったくこれをみない。

たとえ入道の悲しみを御憐れまれずとも、どうして内府の忠を思い忘れなさってよいものか。

たとえ内府の忠を思い忘れなさっても、どうして入道の嘆きを御あわらみなさらないのか。

父子ともに天皇のお心に反しました事が、今となって面目をなくしたこと。これが一つ。

次に越前国を、子々孫々まで、ご変更なさらない事を御約束あって下されましたのを、内府に私が死に遅れて後、すぐに召還されました事は、何の過失によってでしょうか。これが一つ。

次に中納言に欠員がございました時、二位中将(近衛基通。清盛の娘婿)が所望しましたのを、入道は随分とりなし申し上げましたが、ついにお聞き入れくださらず、関白の息子(松殿師家。反平家より)を中納言になされた事はどういうことですか。

たとえ入道が理に反した事を申し行うといっても、一度はどうしてお聞き入れくださらないのでしょうか。

まして、本家の嫡男であることといい、位階といい、どうこう言われる筋合いのないことを、お変えになったのは、残念な御はからいと存じます。これが一つ。

次に新大納言成親卿以下、鹿谷に寄り合って、謀反の企てがござしました事は、まったく私事の計略ではありません。

すべて法皇さまがお許しなさったことによってです。

今更申す事でもございませんが、(これまでの奉公を考えれば)七代まではこの一門をどうしてお捨てになってよいでしょうか。

それに入道七十に及び、余命いくばくもない一期の内だけでも、どうかすると平家を滅ぼすような事を、御はからいあります。

まして、子孫があいついで、朝廷に召しつかわれる事は滅多にありません。

語句

■乱逆 反乱・謀反。 ■逆鱗 天子の怒り。『韓非子』より。 ■唐の太宗 唐朝第2代皇帝李世民。「魏徴夢に見えて天子泣く」(白氏文集・三・新楽府七徳舞)。 ■殷宗 高宗武丁。殷朝の第22代王。傅説(ふえつ)という良臣を夢によって見出した。 ■さめの後 目覚めた後。 ■顕頼民部卿 藤原顕隆の子。久安四年(1148)正月5日没。近衛天皇の御代。民部卿は民部省の長官。 ■故院 鳥羽院。 ■八幡行幸 八幡の石清水八幡宮への行幸。 ■卒する 逝去する。亡くなること。 ■中陰 四十九日。 ■八幡の御幸 『玉葉』に治承三年(1179)八月二十七日、高倉天皇石清水八幡宮行幸とある。 ■変改 変える事。ここでは別の者に与えること。 ■めしかへされ お取り上げになる。『玉葉』治承三年十一月十五日条に後白河が重盛の越前領を没収した旨。 ■ニ位中将 近衛家の藤原基通。前摂政基実の子。清盛の娘寛子を妻としている。父基実も清盛の娘盛子を妻とする。普賢寺殿。近衛家は平家と結びつきが強い。 ■執る とりなす。 ■関白の息 関白藤原基房(松殿家)の息子。師家。 ■非拠 道理に反したこと。 ■申し候はんや 「いわんや」の丁寧な言い方。まして。 ■家嫡 けちゃく。本家の嫡子。 ■理運左右におよばぬこと 道理にかなったこと。とやかく言うまでもないこと。 ■本意なき 残念な。 ■併しながら 全部。 ■事新しき事にて候へども 今更らいしい申し分でございますが。 ■七旬 一旬は十年。七十。 

原文

凡(およ)そ老いて子を失ふは、枯木(こぼく)の枝なきにことならず。今は程なき浮世(うきよ)に、心を費(つひや)しても何かはせんなれば、いかでもありなんとこそ思ひなツて候へ」とて、且(かつう)は腹立(ふくりふ)し、且(かつうう)は落涙(らくるい)し給へば、法印おそろしうも又哀(あは)れにも覚えて、汗(あせ)水になり給ひぬ。此時(このとき)はいかなる人も、一言(いちごん)の返事に及びがたき事ぞかし。其上(そのうへ)、我身も近習(きんじゆ)の仁(じん)なり。鹿谷に寄りあひたりし事は、まさしう見聞かれしかば、其人数(にんじゆ)とて、只今も召しや籠められむずらんと思ふに、竜(りよう)の髭(ひげ)をなで、虎(とら)の尾をふむ心地(ここち)はせられけれども、法印もさるおそろしい人で、ちツともさわがず申されけるは、「誠に度々(どど)の御奉公浅からず。一旦(いつたん)恨み申させまします旨(むね)、其謂(そのいはれ)候。但(ただ)し官位といひ俸禄(ほうろく)といひ、御身にとツては悉(ことごと)く満足す。しかれば功の莫太(ばくたい)なるを、君御感(ぎよかん)あるでこそ候へ。しかるを近臣(きんしん)事を乱り、君御許容(きよよう)ありといふ事は、謀臣(ぼうしん)の凶害(きようがい)にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは俗(しよく)の常の弊(へい)なり。少人(せうじん)の浮言(ふげん)を重うして、朝恩の他にことなるに、君を背(そむ)き参らツさせ給はん事、冥顕(みやうけん)につけて其恐(そのおそれ)すくなからず候。凡(およ)そ天心(てんしん)は蒼々(さうさう)としてはかりがたし。叡慮(えいりよ)さだめて其儀でぞ候らん。

下(しも)として上(かみ)にさかふる事、豈人臣(あにじんしん)の礼たらんや。よくよく御思惟(ごしゆい)候べし。詮(せん)ずるところ、此趣(このおもむき)をこそ披露仕(ひろうつかまつ)り候はめ」とて出でられければ、いくらもなみゐたる人々、「あなおそろし。入道のあれ程いかり給へるに、ちツとも恐れず、返事うちしてたたるる事よ」とて、法印をほめぬ人こそなかりけれ。

現代語訳

いったい年取って子を失うことは、枯れた木の枝のないのに同じです。今は残り少ない浮世に、心を費やしても無益ですので、どうとでもなってしまえという思いになってございます」

といって、一方では立腹し、一方では涙をお流しになると、法印は恐ろしくも又哀れにも思えて、汗水になられる。

この時はどんな人も、一言の返事にも及びがたい事であった。その上、(静憲法印は)自分も後白河近臣の人である。鹿谷に寄り合った事は、はっきりと見聞きなさっているのだから、その一員として、今すぐでも召し捕らえられるのではないかと思うと、竜の髭をなで、虎の尾をふむ心地ではあられたが、法印もそうとうにしたたか者で、少しもさわがず申し上げたのは、

「ほんとうに度々の御奉公、並々ではありません。一応、お恨み事申される事には道理がございます。ただし官位といい、俸禄といい、御身にとってはことごとく満ち足りている。

それはあなたの功績の莫大であるのを法皇さまは感じ入りなされているからでございます。

それを近臣が秩序を乱し、それを法皇さまが御許容あったという事は、悪い臣下のたくらみ事でございましょう。

人から聞いた噂話を信じて自分の目で見たことを疑うのは、俗人のいつもの悪いくせである。つまらない者のあやふやな話を重く取って、朝廷の恩はあなたに対して他と異なるほど大きいのに、法皇さまに背き申し上げることは、神仏に対しても世間に対しても、その恐れ少なくございません。

いったい天の心は青青として広く深く、はかりがたいものです。法皇さまのお考えも、きっとそのようなものでございましょう。下として上に逆らう事は、どうして臣下の礼にあたろうか。よくよくお考えください。つまり、あなたのおっしゃったご意見を、法皇さまにお伝え申しあげましょう」といって出ていかれたので、たくさん並んで座っていた人々は、

「ああすごい。入道があれほどお怒りであるのに、少しも恐れず、返事してたたれる事よ」

といって、法印を褒めない者はなかった。

語句

■さるおそろしい人 そうとうにおそろしい人。 ■凶害 悪だくみ。 ■冥顕 冥界と顕界。神仏に対しても世間に対しても。 ■蒼蒼として 青々として広く深いこと。 ■さかふる 逆らう。 ■詮ずるところ つまり。 ■此趣 入道相国の意見。

……

とうとうと恨み言を述べる清盛と、恐れつつも毅然とした態度でそれに反論する静憲法印。ふたりのギャップが冴える場面です。

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朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永