平家物語 四十九 大臣流罪(だいじんるざい)

原文

法印御所へ参ツて、此由奏聞(そうもん)せられければ、法皇も道理至極(だうりしごく)して、仰せ下さるる方もなし。同(おなじき)十六日、入道相国(にふだうしやうこく)、此日ごろ思ひ立ち給へる事なれば、関白殿を始め奉ツて、太政大臣已下(いげ)の公卿殿上人、四十三人が官職(くわんしよく)をとどめて、追(お)つ籠(こ)めらる。関白殿をば太宰帥(だざいのそつ)にうつして、鎮西(ちんぜい)へながし奉る。「かからん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古河(ふるかは)といふ所にて御出家あり。御年(おんとし)卅五。礼儀よくしろしめし、くもりなき鏡にてわたらせ給ひつる物をとて、世の惜しみ奉る事、なのめならず。遠流(をんる)の人の、道にて出家しつるをば、約束の国へはつかはさぬ事である間、始(はじめ)は日向国(ひうがのくに)へと定められたりしかども、御出家の間、備前国府(びぜんのこふ)の辺(へん)、井ばさまといふ所に留め奉る。

大臣流罪(るざい)の例(れい)は、左大臣曽我(そが)の赤兄(あかえ)、右大臣豊成(とよなり)、左大臣魚名(うをな)、右大臣菅原(すがはら)、かけまくも忝(かたじけな)く北野の天神の御事なり。左大臣高明公(たかあきらこう)、内大臣藤原伊周公(ふぢはらのいしうこう)に至るまで、既に六人、されども摂政関白流罪の例は、是始(これはじめ)とぞ承(うけたまは)る。故中殿御子(こなかどののおんこ)、二位中将基通(もとみち)は、入道の聟(むこ)にておはしければ、大臣関白になし奉る。

去円融院(さんぬるゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天禄三年十一月一日、一条摂政兼徳公(いちでうのせつしやうけんとくこう)うせ給ひしかば、御弟堀河関白忠義公(ほりかはのくわんぱくちゆうぎこう)、其時(そのとき)は未(いま)だ従二位(じゆにゐ)の中納言にてましましけり。其御弟法興院(ほこゐん)の大入道殿(おほにふだうどの)、其比(そのころ)は大納言の右大将にておはしける間、忠義公は御弟に越えられ給ひしかども、今又越えかへし奉り、内大臣条正二位(じやうにゐ)にあがツて、内覧宣旨蒙(ないらんのせんじかうぶ)らせ給ひたりしをこそ、人耳目(じぼく)をおどろかしたる御昇進(しようじん)とは申ししに、是(これ)はそれには猶超過(てうくわ)せり。非参議二位中将(ひさんぎにゐのちゆうじやう)より大中納言を経ずして、大臣関白になり給ふ事、いまだ承り及ばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御事なり。上卿(じやうけい)の宰相(さいしやう)、大外記(だいげき)、大夫史(たいふのし)にいたるまで、みなあきれたる様(さま)にぞみえたりける。

太政大臣師長(もろなが)は、つかさをとどめて、あどまの方へながされ給ふ。去保元(さんぬるほうげん)に、父悪左大臣殿(あくひだんのおほいどの)の縁座(えんざ)によツて、兄弟四人(しにん)、流罪せられ給ひしが、御兄右大将兼長(おんせうとうだいしやうかねなが)、御弟(おんおとうと)左中将隆長(たかなが)、範長禅師(はんちやうぜんじ)三人は、帰洛(きらく)を待たず、配所にてうせ給ひぬ。是は土佐(とさ)の畑(はた)にて九(ここの)かへりの春秋を送りむかへ、長寛二年八月に召しかへされて、本位に復(ふく)し、次の年正二位(じやうにゐ)して、仁安(にんあん)元年十月に、前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言にあがり給ふ。折節大納言あかざりければ、員(かず)の外(ほか)にぞくははられける。大納言六人になる事、是始(はじめ)なり。又前中納言より権大納言になる事も、後山階大臣躬守公(ごやましなのだいじんみもりこう)、宇治大納言隆国卿(うぢのだいなごんたかくにのきやう)の外(ほか)は、未だ承り及ばず。

現代語訳

法印は御所に参って、このことを上奏なさると、法皇も道理もっともであるとして、仰せ下されようもない。

同月(十一月)十六日、入道相国は、日頃から考えておられた事であるので、関白殿(松殿基房)をはじめ、太政大臣(松殿師長)以下の公卿殿上人、四十三人の官職を停止して、朝廷を追放された。関白殿を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷して、鎮西へお流し申し上げる。

「こんな世の中では、どうでもこうでもひっそり過ごそう」

といって、鳥羽のあたり、古河という所でご出家された。御年三十五。礼儀作法をよくご存知で、くもりない鏡のような方でいらっしゃったのにと、世の人々が惜しみ申し上げることは並々でない。

遠流の人が、道中出家した場合は、予定されていた国へは遣わさない事であるので、はじめは日向国へと決められていたが、ご出家されたので、備後国府(こふ)のあたり、井ばさまという所にお留め申し上げた。

大臣が流罪になった例は、左大臣蘇我赤兄、右大臣藤原豊成、左大臣藤原魚名、右大臣菅原道真、口にするのも畏れ多い北野の天神の御事である。

左大臣源高明公、内大臣藤原伊周(これちか・いしゅう)公に至るまで、すでに六人、しかし摂政関白流罪の例はこれがはじめとうかがっている。

故中殿(藤原基実)の御子、二位中将藤原基通は、入道の婿でいらっしゃるので、大臣の関白になし申し上げた。

昔、円融院の時代、天禄三年(1049)十一月一日、一条摂政謙徳公(藤原伊尹)が亡くなつたので、御弟堀河関白忠義公(藤原兼通)は、その時はいまだ従二位の中納言でいらっしゃった。

その御弟法興院の大入道殿(藤原兼家)は、その頃は大納言の右大臣でいらっしゃったので、忠義公は御弟に超えられなさったけれど、今又越え返し申し上げ、内大臣大正二位にあがって、内覧の宣旨をお受けなさったのは、人々は耳と目をおどろかせた御昇進とは申したものの、今回の二位中将藤原基通の例はそれよりもなお過ぎている。

参議でない二位中将から、大中納言をへずに大臣関白におなりになつた事は、いまだうかがったことがない。普賢寺殿の御事である。

除目の議事まとめ役である上卿の宰相、大外記、大夫史(たいふのし)に至るまで、みたあきれた様子に見えた。

太政大臣師長は、官位を停止され、東国の方へ流されなさる。

去る保元に、父悪左大臣(藤原頼長)の巻き添えとして処罰され、兄弟四人が流罪に処せられなさったが、兄の右大将兼長、弟の左中将隆長、範長禅師三人は都にもどることを待たず、配所でお亡くなりになった。

この師長は土佐の幡多で九年の春秋を送り迎え、長寛二年(1164)八月に召還されて、もとの位にもどり、次の年正二位になって、仁安元年(1166)十月に、前中納言から権大納言にご昇進なさった。

ちょうど大納言の席があいてなかったので、員外の大納言にお加わりになった。大納言が六人になる事は、これが始めである。

また前中納言から権大納言になる事も、後山階大臣躬守公(ごやましなのだいじんみもりこう)、宇治大納言隆国卿(うぢのだいなごんたかくにのきやう)の他は、まだきき及ばない。

語句

■道理至極す 道理がきわまっている。 ■関白殿  藤原(松殿)基房。 ■大宰帥 大宰権帥。大宰府に配流される時、形式的に与えられる官職。 ■とてもかくても どうでもこうでも。 ■古河 京都市伏見区羽束師古河町。西国に流される人はここから船に乗った。 ■備前国府 岡山市国府市場、湯迫(ゆはざま)あたり。
関白屋敷跡として残る。 ■曾我の赤兄 『日本書紀』天智十年八月朔条に左大臣蘇我赤兄配流。 ■豊成 藤原豊成。天平勝宝九年(757)7月、橘奈良麻呂の変に連座して配流。 ■魚名 左大臣藤原魚名。天応ニ年(782)6月、氷上川継の謀反に連座して配流。 ■菅原 菅原道真。昌泰2年(899)右大臣。同4年(901)配流。 ■高明 左大臣源高明 康安4年(967)左大臣、安和2年(969)安和の変により配流。 ■藤原伊周公 正暦5年(994)内大臣、長徳2年(996)「長徳の変」で配流。出家。これちか。中関白家。 ■故中殿 中殿は藤原基実。基通の父。 ■大臣関白に 『玉葉』治承三年十一月十五日条、『山槐記』同十六日条。 ■一条摂政謙徳公 藤原伊尹(これただ)。師輔の子。諡が謙徳公。小倉百人一首「あれはとも言ふべき人は思ほえで身のいたずらになりぬべきかな」。  ■堀河関白忠義公 藤原兼通。伊尹の弟。諡が忠義公。 ■法興院(ほこゐん)の大入道殿(おほにふどうどの) 藤原兼家。道長の父。兼通の弟。 ■内覧 太政官から天皇に上奏する文書を上奏前にチェックする役。 ■上卿の宰相 除目の議事長。 ■大外記 太政官外記局で文書を扱う役人。 ■大夫史(たいふのし) 左大史で、五位に叙せられた者。史は太政官の弁官のもとで、弁官とともに事務局を構成する役人。 ■師長 左大臣頼長の第ニ子。『玉葉』治承三年十一月十八日条に師長解官・追放のこと。妙法院殿。 ■悪左大臣殿 あくひだんのおほいどの。宇治の悪左府藤原頼長。 ■縁座 ある者が罪せられたのに伴い、近親者が処罰されること。 ■兼長・隆長・範長禅師 保元元年(1156)8月3日、兼長は出雲へ、隆長は伊豆へ、範長は安芸へ配流。 ■土佐の畑 土佐国幡多郡。 ■長寛二年 1164年。 ■後山階大臣躬守公 藤原三守。承和五年(838)右大臣。後山科大臣と号す。天長5年(828)前中納言から権大納言に任じられた。 ■宇治大納言隆国卿 源隆国。治承三年(1179)前権中納言から権大納言に任じられた。

原文

管弦の道に達し、才芸勝(すぐ)れてましましければ、次第の昇進(しようじん)とどこほらず。太政大臣まできはめさせ給ひて、又いかなる罪の報(むくい)にや、かさねてながされ給ふらん。保元の昔は、南海(なんかい)土佐へうつされ、治承(ぢしよう)の今は、東関尾張国(とうくわんをはりのくに)とかや。もとよりつみなくして、配所の月をみんといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事ともし給はず。彼唐太子賓客白楽天(かのたうのたいしのひんかくはくらくてん)、潯陽江(しんやうのえ)の辺(ほとり)にやすらひ給ひけん、其古(そのいにしへ)を思ひ遣(や)り、鳴海潟塩路遥(なるみがたしほぢはる)かに遠見(ゑんけん)して、常は朗月(らうげつ)を望み、浦風に嘯(うそむ)き、琵琶(びは)を弾(たん)じ、和歌を詠(えい)じて、なほざりがてらに月日を送らせ給ひけり。

ある時当国(たうごく)第三の宮、熱田明神(あつたみやうじん)に参詣(さんけい)あり。その夜神明法楽(しんめいほふらく)のために、琵琶ひき朗詠し給ふに、所もとより無智(むち)の境(さかひ)なれば、情(なさけ)を知れる者なし。邑老(いふらう)、村女(そんじよ)、漁人(ぎよじん)、野叟(やそう)、首(かうべ)をうなたれ、耳を峙(そばだ)つといへども、更に清濁をわかち、呂律(りよりつ)を知る事なし。されども瓠巴琴(こはきん)を弾(たん)ぜしかば、魚鱗(ぎよりん)踊(をど)りほどばしる。虞公(ぐこう)歌を発(はつ)せしかば梁塵(りやうぢん)うごきうごく。

物の妙(めう)を究(きは)むる時には、自然(じねん)に感を催(もよほ)す理(ことわり)なれば、諸人(しよにん)身の毛よだツて、満座奇異(まんざきい)の思(おもひ)をなす。やうやう深更(しんかう)に及んで、風香調(ふがうでう)の内には、花芬馥(はなふんぷく)の気を含み、流泉(りうせん)の曲の間には、月清明(せいめい)の光(ひかり)をあらそふ。「願はくは今生世俗文字業(こんじやうせぞくもじのげふ)、狂言綺語(きやうげんきぎよの)誤りをもッて」といふ朗詠をして、秘曲をひき給へば、神明感応(しんめいかんのう)に堪(た)へずして、宝殿(ほうでん)大きに振動(しんどう)す。平家の悪業なかりせば、今此瑞相(いまこのずいさう)をいかでか拝むべきとて、おとど感涙(かんるい)をながされける。

按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)子息右近衛少将兼讃岐守源資時(うこんゑのせうしやうけんさぬきのかみすけとき)、両(ふた)つの首をとどめらる。参議皇太后宮権大夫(さんぎくわうだいこくうのごんのだいぶ)兼右兵衛督藤原光能(うひやうゑのかみふじわらのみつよし)、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経(いよのかみたかしなのやすつね)、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)兼中宮権大進藤原基親(ちゆうぐうのごんのだいしんふぢはらのもとちか)、三官共に留めらる。按察大納言資賢卿子息右近衛少将、孫(まご)の右少将雅賢(まさかた)、是(これ)三人をばやがて都の内を追ひ出(いだ)さるべしとて、上卿藤大納言実国(しやうけいとうだいなごんさねくに)、博士判官中原範貞(はかせのはうぐわんなかはらののりさだ)に仰せて、やがて其日(そのひ)都のうちを追ひ出(いだ)さる。大納言宣(のたま)ひけるは、「三界(さんがい)広しといへども五尺の身おき所なし。一生程なしといへども一日暮(くら)しがたし」とて、夜中(やちゆう)に九重(ここのへ)の内をまぎれ出でて、八重たつ雲の外(ほか)へぞおもむかれける。彼(かの)大江山やいく野の道にかかりつ、丹波国村雲と云ふ所にぞ、しばしはやすらひ給ひける。其(それ)より遂には尋ね出(いだ)されて、信濃国(しなののくに)とぞ聞えし。

現代語訳

管弦の道に達し、学問芸能にすぐれていらしたので次々と昇進して止まることがなく、太政大臣にまでお極めになって、またどんな罪の報いだろうか、二度も重ねてお流されになるとは。

保元の昔は、南海土佐に配流され、治承の今は関の東、尾張国とかいうことだ。もとより罪もないのに配所の月を見ようということは、風流を解するほどの人の願う事であるので、大臣はまったく何ともお思いにならない。

かの唐の太子賓客(東宮の教育係)白楽天が、瀋陽江の(しんようのえ)あたりにお留まりになった、その昔を思いやり、鳴海潟の塩路はるかに遠くみやって、常は名月をながめ、浦風に詩歌を朗詠し、琵琶を弾き、和歌を詠じて、なぐさみ半分に月日をお送りになった。

ある時当国第三の宮、熱田明神に参詣あった。その夜、神を喜ばせるために、琵琶を弾き朗詠なさると、場所はもとより無知の辺境であるので、情緒を知る者はない。村の老人、村の女、漁師、百姓らが首を垂れて、耳をそばだてるといっても、まったく音律の変化を聞き取り、調子を知る事はない。

しかし瓠巴(こは。琴の名人)が琴を弾くと魚も踊り上がった。虞公(ぐこう。歌の名人)が歌を発すると、梁の塵も動いた。

物事の神妙を極める時には、自然に感動を引き起こす道理なので、誰もが身の毛よだって、そこにいる人全員が感心した。

しだいに深夜になるに及んで、風香調(ふがうでう)の響きのうちには花が芳しい香りをふくみ、流泉の曲の間には、月が清らかな明るい光を争うようだ。

「願はくは今生世俗文字業(こんじやうせぞくもじのげふ)、狂言綺語(きやうげんきぎよの)誤りをもッて」

(願います。今生の世俗の仕事である文章の業と、つまらない飾り立てた言葉の過失をもって、来世何度も生まれ変わって仏を賛美する因としてください)

という朗詠をして、秘曲をお弾きになると、神は感動にたえず、宝殿がたいそう振動する。

平家の悪行がなかったら、今このめでたい印をどうして拝むことができたろうと、大臣は感激の涙をお流しになった。

按察使大納言資賢卿の子息、右近衛少将兼・讃岐守源資時は、ふたつの官を停止させられた。

参議皇太后宮権大夫兼・右兵衛督藤原光能、大蔵卿右京大夫兼・伊予守高階泰経、蔵人左少弁兼・中宮権大進藤原基親は、3つの官をすべて停止させられた。

按察使大納言資賢卿、子息右近衛少将、孫の右少将雅賢、この三人をすぐに都の内を追放すべしといって、上卿藤大納言実国、博士判官中原範貞に仰せになって、すぐにその日都のうちを追放された。

大納言がおっしゃることに、

「衆生が輪廻する三つの世界(欲界・色界・無色界)は広いといっても、たった五尺の身もおき所はない。一生は長いといっても、たった一日でも暮らすのは難しい」

といって、夜中に九重の都の内をまぎれ出て、八重たつ雲の外へおもむかれた。あの大江山やいく野の道にかかりつつ、丹波国村雲という所に、しばらく留まっておられた。

そこから遂には尋ね出されて、信濃国へ流されたということだ。

語句

■東関 逢坂の関より東。 ■つみなくして配所の月をみん 『江談抄』巻三、『古事談』巻一、『発心集』巻五、『撰集抄』巻五などにある話。源顕基が日頃「あはれ、罪なくして配所の月を見ばや」と語っていたという。 ■あえて 全く。 ■太子賓客 たいしのひんかく。東宮の教育係。 ■白楽天 唐の詩人白居易=白楽天。 ■瀋陽江 「瀋陽江頭夜客を送る、楓葉荻花秋瑟瑟」(琵琶行)。瀋陽江は江西省九江府。815年、白楽天はこの地の司馬に左遷された。 ■鳴海潟 名古屋市緑区鳴海町あたり。いかに鳴海の潮干潟など、歌や道行文に読み込まれた。 ■朗月 名月。 ■嘯き 詩歌を朗詠して。 ■なほざりがてら なぐさみ半分に。 ■熱田明神 名古屋市緑区。 ■神明法楽 神様を楽しませること。 ■邑老 村の老人。 ■野叟 田舎のおやじ。 ■清濁 音律(呂と律)の相違。 ■呂律 りょりつ。ろれつ。音楽の調子。 ■瓠巴 こは。中国楚の琴の名手。 ■虞公 漢代魯の人。歌の名人。虞公が歌うとあまりの上手さに梁の塵も動いたという。 ■風香調 ふごうじよう。琵琶の調子の名。 ■芬馥(ふんぷく)の気 芳しい香。 ■願はくは… 「願はくは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りを以て、翻して当世々讃仏乗の因、転法輪の縁とせむ」(和漢朗詠集下・仏事 白楽天)。 ■三界 欲界・色界・無色界。 ■大江山 「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」(金葉・雑上 小式部内侍)。大江山・生野は山城から丹波へ向かう道筋。 ■村雲 兵庫県多紀郡篠山町。

……

前半は平家との縁で大出世をとげた二条中将・近衛基通の話。

後半は宇治悪左府頼長の次男、妙音院殿こと藤原師長の話です。

師長は尾張国に流されるも、詩歌管弦を愛した風流人っぷりが語られます。

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朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永