平家物語 五十 行隆之沙汰(ゆきたかのさた)

原文

前関白(さきのくわんぱく)松殿の侍(さぶらひ)に、江大夫判官遠成(がうのたいふのはうぐわんとほなり)といふ者あり。是(これ)も平家心よからざりければ、既に六波羅(ろくはら)より押し寄せて、搦(から)め取らるべしと聞えし間、子息江左衛門尉家成打具(がうさゑもんのじよういへなりうちぐ)して、いづちともなく落ち行きけるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬より下りて、親子いひ合せけるは、「東国の方へ落ちくだり、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前右兵衛佐頼朝(さきのうひやうゑのすけよりとも)をたのばやとは思へども、それも当時(たうじ)は勅勘(ちよくかん)の人で、身一つだにもかなひがたうおはすなり。日本国に平家の庄園(しやうゑん)ならぬ所やある。とてものがれざらんものゆゑに、年来(ねんらい)住みなれたる所を、人に見せんも恥ぢがましかるべし。ただ是(これ)よりかへツて、六波羅より召使(めしづかひ)あらば、腹かき切つて死なんにはしかじ」とて、川原坂(かはらざか)の宿所へとて取ツて返す。案のごとく六波羅より源大夫判官季貞(げんだいふはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、ひた甲(かぶと)三百余騎、河原坂の宿所へ押し寄せて、時をどツとぞつくりける。江大夫判官、縁(えん)に立出(たちい)でて、「是御覧ぜよおのおの、六波羅ではこの様(やう)申させ給へ」とて、館(たち)に火かけ、父子ともに腹かききり、ほのほの中にて焼け死にぬ。

抑(そもそも)か様(やう)に上下多く亡(ほろ)び損ずる事をいかにといふに、当時関白にならせ給へる二位中将殿(にゐのちゆうじやうどの)と、前(さき)の殿(との)の御子、三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)と、中納言御相論(さうろん)の故と申す。さらば関白殿御一所(ごいつしよ)こそ、いかなる御目にもあはせ給はめ、四十余人までの人々の、事に逢(あ)ふべしやは。去年讃岐院(こぞさぬきのゐん)の御追号(ついがう)、宇治の悪左府(あくさふ)の贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)ありしかども、世間は猶(なほ)しづかならず。凡(およ)そ是にも限るまじかんなり。入道相国の心に天魔(てんま)入りかはツて、腹をすゑかね給へりと聞えしかば、又天下(てんか)いかなる事か出でこんずらんとて、京中上下おそれをののく。

其比前左小弁行隆(そのころさきのさせうべんゆきたか)と聞(きこ)えしは、故中山中納言顕時卿(こなかやまのちゆうなごんあきときのきやう)の長男なり。二条院の御世には、弁官(べんくわん)にくははツて、ゆゆしかりしかども、此(この)十余年は官を留められて、夏冬の衣がへにも及ばず。朝暮(てうぼ)の飡(さん)も心にまかせず、有(あ)るかなきかの体(てい)にておはしけるを、太政入道(だいじやうぬふだう)、「申すべき事あり。きツと立寄(たちよ)り給へ」と宣ひつかはされたりければ、行隆、「此十余年は、何事にもまじはらざりつる物を、人の讒言(ざんげん)したる旨あるにこそ」とて、大きにおそれさわがれけり。北の方、公達(きんだち)もいかなる目にかあはんずらんと、泣きかなしみ給ふに、西八条(にしはちでう)より使(つかひ)しきなみにありければ、力及ばで人に車かツて西八条へ出でられたり。思ふに似ず、入道やがて出でむかうて、対面(たいめん)あり。「御辺(ごへん)の父の卿は、大小事申しあはせし人なれば、おろかに思ひ奉らず。年来籠居(ろうきよ)の事も、いとほしう思ひ奉(たてま)ツしかども、法皇御政務(せいむ)のうへは力及ばず。今は出仕(しゆつし)し給へ。官途(くわんど)の事も申し沙汰(さた)仕るべし。さらばとう帰られよ」とて入り給ひぬ。帰られたれば、宿所には女房達死んだる人の生きかへりたる心地(ここち)して、さしつどひてみな悦泣共(よろこびなきども)せられけり。

現代語訳

前関白松殿(藤原基房)の侍に、江大夫判官遠成(がうのたいふのはうがんとほなり)という者がある。この人も平家をこころよく思っていなかつたので、すぐに六波羅から押し寄せて、からめ捕られるだろうと噂されていたので、子息江左衛門尉家成(ごうさゑもんのじよういへなり)を連れて、いずこともなく落ちて行ったが、稲荷山に上がり、馬から下りて、親子で言いあわせることには、

「東国の方へ落ち下り、伊豆国の流人、前右兵衛佐頼朝(さきのうひょうえのすけよりとも)をたのもうとは思うが、それも今は罪人であるので、身一つさえも自由にならなくていらっしゃるという。日本国に平家の庄園でない所があろうか。どうやっても逃げられないものであるから、長年住みなれた所を、人に見せるの恥の強いことに違いない。ただここから帰って、六波羅から召捕りの使があれば、腹かき切って死ぬのが一番だ」

といって、瓦坂の宿所へと取って返す。思ったとおり、六波羅から源大夫判官季貞(げんたいふはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、みな甲冑を着て三百余騎、瓦坂の宿所に押し寄せて、鬨の声をどっとつくった。

江大夫判官は縁側に立出て、「これを御覧になられよおのおの、六波羅ではこの様子をお申しくだされ」

といって、館に火をかけ、父子ともに腹かき切り、炎の中で焼け死んだ。

そもそもこのように上も下も多く亡び損なわれることはどういうことかというと、この頃関白になられた二位中将殿と、前の関白(藤原基房)の御子、三位中将殿(藤原師家)と、中納言の位をめぐって互いに争われたからという。

であれば関白殿お一人こそどんな御目にもおあいになろうところ、四十人までの人々が、事にあう必要があったのだろうか。

去年讃岐院の御追号、宇治の悪左府の贈官贈位があったが、世間はなお鎮まらない。

いったいこれに限ったことではないだろう。入道相国の心に天魔が入りかわって、怒りを抑えかねなさっていると噂されたので、また天下にどのような事が起こるだろうかと、京中上下おそれおののく。

その頃、前左少弁行隆といわれていた人は、故中山中納言顕時卿の長男である。

二条院の御世には、弁官の一員として加わって、羽振りがよかったが、この十余年は官を停止されて、夏冬の衣がえも満足にできない。

朝夕の食事もままならず、有るかなきかな様子でいらしたのを、太上入道、

「申すべき事がある。必ずお立ち寄りください」

とおっしゃって人をお遣わしになったので、行隆、

「この十余年は、何事にも関わらなかったのに。人が讒言した事があるにちがいない」

と、大いに恐れ騒がれた。

北の方、公達もどんな目にあうだろうと、泣きかなしみなさっていとる、西八条から使いがしきりに届くので、力及ばず人に車かりて西八条へ出発された。

思っていたのと違い、入道はすぐに出迎えて、対面した。

「あなたの父の卿は、大事につけ小事につけ相談した人であるので、疎遠に思い申し上げてはおりませんでした。長年籠居されていた事も、気の毒におもうい申し上げておりましたが、法皇がご政務を執っておられる上は力及びません。今はご出仕ください。任官の道もお取りはからいいたしましょう。なので早くお帰りください」

といって奥にお入りになった。

行隆がお帰りになると、宿所には女房たちが死んだ人が生き返った心地して、集まって皆、喜び泣きなどをなさった。

太政入道は、源大夫判官季貞を遣わして、行隆がけ知行することになる庄園の権利書を多く送ってくる。当面生活がお苦しいだろうということで、絹百疋、金百両に米をつんでお送りになった。

出仕のお入り用にということで、雑色牛飼牛車まで手配しお遣わしになる。

行隆は手が舞い足の踏みどころも知らぬほど喜ぶ。これはそれでは夢かや夢かと驚かれる。同月(十一月)十七日五位の蔵人に任命されて、左少弁になってお帰りになる。今年五十一、いまさらながら若やいでおられる。ただ一時の栄華とみえた。

語句

■江大夫判官遠成 大江遠業。大夫判官は五位の検非違使尉。 ■稲荷山 京都市伏見区の伏見稲荷大社の後ろの山。 ■前兵衛佐頼朝 源頼朝。平治の乱に破れ伊豆に流され、二十年を過ごしていた。 ■勅勘の人 天皇から罪を受けた人。 ■川原坂 瓦坂。京都東山区。八条から山科に通じる。 ■源大夫判官季貞(げんだいふはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ) ともに平清盛に仕える侍。 ■行隆 藤原行隆。永万元年(1165)左少弁を解官され、治承3年(1179)まで十五年無官。11月、五位蔵人。 ■故中山中納言顕時卿 藤原長隆の子。藤原顕時。中山中納言。 ■弁官 太政官の官。左右がそれぞれ上中下に分かれる。業務は各省の文書の受付など。 ■ゆゆしかりし 羽振りがよかった。 ■飡(さん) 食事。 ■しきなみに しきりに。 ■官渡の事 任官の道。 ■申し沙汰仕るべし お取りはからいたしましょう。 ■さこそあらめ さぞお困りだろう。 

原文

太政入道、源大夫判官季貞(げんのだいふはんぐわんすゑさだ)をもツて、知行し給ふべき庄園(しやうゑん)の状共あまた遣(つかは)す。まづさこそあらめとて、百疋百両に米(よね)をつんでぞ送られける。出仕の料(れう)にとて、雑色牛飼牛車(ざふしきうしかひうしくるま)まで沙汰しつかはさる。行隆(ゆきたか)手の舞ひ足の踏みどころも覚えず。是(これ)はされば夢かや夢かやとぞ驚かれける。同(おなじき)十七日五位の侍中(じちゆう)に捕(ふ)せられて、左小弁(させうべん)になり帰り給ふ。今年(こんねん)五十一、今更わかやぎ給ひけり。ただ片時(へんし)の栄花(えいぐわ)とぞみえし。

現代語訳

太政入道は、源大夫判官季貞(すえさだ)をやって、行隆が知行なさるはずの荘園の権利証などをたくさん送られる。まず、さぞかし困っているだろうと、絹百疋と金百両に米を積んで送られた。出勤のためにと、雑色、牛飼い、牛車まで整えてお遣わしになる。行隆は、手の舞い足の踏み場も知らないほど喜ぶ。これは夢ではないかと驚かれた。同(十一月)十七日に五位の侍中(じちゅう)に任ぜられて、左小弁になりお帰りになる。今年五十一、いまさらのように若返られた。ただ一時だけの栄華と見えた。

語句

■百疋 布百疋。一疋は布地ニ反。 ■侍中 蔵人の唐名。

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朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永