平家物語 五十一 法皇被流(ほふわうながされ)

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平家物語巻第三より「法皇被流(ほうおう ながされ)」。平清盛は後白河法皇をとらえ、鳥羽殿へ幽閉する。

前回「行隆之沙汰」からのつづきです。
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鳥羽離宮南殿跡

あらすじ

治承三年十一月二十日、院の御所法住寺殿を平家の侍が取り囲んだ。

宗盛が先導して、後白河法皇を鳥羽殿へ移す。後白河法皇は亡くなった重盛と弟の宗盛を比べて、宗盛の人物の劣っていることを嘆く。

公卿・殿上人は一人も連れず、北面の下級武士、金行という者と、乳母の紀伊の二位だけが 付き添う。

法皇が連行されていくのを見て、人々は嘆き、先日の地震(「法院問答」)はこのことの前触れだったかと 言い合った。

鳥羽殿には後白河法皇の側近、大膳大夫信成(だいぜんのたいふ のぶなり)が紛れ込んでおり、 法皇の望みに従って泣く泣く湯をわかす。

静憲法印は法皇への面会を清盛から許された。鳥羽殿で法皇が経を上げているのを見て、静憲法印は涙を流し、「いずれ平家は滅び、法皇様の御世が戻るでしょう」と慰める。

高倉天皇は、関白藤原基房をはじめ多くの臣下を失ったことに加え、今回の 後白河法皇幽閉で、すっかり気持ちが参って、清涼殿の御寝所に引きこもってしまった。

夜ごとに後白河法皇の安全を願い、伊勢大神宮に祈った。

(このように父親思いな高倉天皇にくらべて)

二条院は賢王であられたが父の法皇の仰せに口答えばかりなさった。

そのせいか、皇位継承の君ともならず、二条院から譲位された六条院も、御年十三で崩御された。嘆かわしいことであった。

原文

同廿日(おなじきはつかのひ)、院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)には、軍兵四面(ぐんぴやうしめん)を打ちかこむ。平治(へいぢ)に信頼(のぶより)が三条殿(さんでうでん)にしたりし様(やう)に、火をかけて人をばみな焼き殺さるべしと聞えし間、上下の女房、めのわらは、物をだにうちかづかず、あわて騒いで走りいづ。法皇も大きにおどろかせおはします。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、御車(おんくるま)を寄せて、「とうとう召されべう候(さうらふ)」と奏(そう)せられければ、法皇、「こはされば何事ぞや。御(おん)とがあるべしともおぼしめさず。成親(なりちか)、俊寛(しゆんくわん)が様(やう)に、遠き国、遥(はる)かの島へもうつしやらんずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡らせ給へば、政務(せいむ)に口入(こうじゆ)する計(はかり)なり。それもさるべからずは、自今以降さらでこそあらめ」と仰せければ、宗盛卿、「其儀(そのぎ)では候はず。世をしずめん程、鳥羽殿へ御幸なし参らせんと、父の入道申し候」。「さらば宗盛やがて御供に参れ」と仰せけれども、父の禅門(ぜんもん)の気色(きしよく)に恐(おそれ)をなして参られず。「あはれ是につけても、兄の内府(だいふ)には、事(こと)の外(ほか)におとりたりける者かな。一年(ひととせ)もかかる御目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日までも心安かりつれ。いさむる者もなしとて、かやうにするにこそ、行末(ゆくすゑ)とてもたのもしからず」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝(かたじけな)き。

さて御車に召されけり。公卿殿上人一人(くぎやうてんじやうびといちにん)も供奉(ぐぶ)せられず、ただ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)、さては金行(こんぎやう)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞ参りける。御車の尻(しり)には、尼(あま)ぜ一人参られたり。この尼ぜと申すは、やがて法皇の御乳(おんち)の人、紀伊二位(きのにゐ)の事なり。七条を西へ、朱雀(しゆしやか)を南へ御幸なる。あやしのしづのを、賤女(しづのめ)にいたるまで、「あはや法皇のながされさせましますぞや」とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。去(さんぬる)七日の夜の大地震(だいぢしん)も、かかるべかりける先表(ぜんべう)にて、十六洛叉(らくしや)の底までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢしん)の驚きさわぎ給ひけんも、理(ことわり)かなとぞ人申しける。

さて鳥羽殿へ入らせ給ひたるに、大善大夫信業(だいぜんのだいぶのぶなり)が、何としてまぎれ参りたりけるやらむ、御前ちかう候ひけるを召して、「いかさまにも今夜うしなはれなんずとおぼしめすぞ。御行水(おんぎやうずい)を召さばやとおぼしめすは、いかがせんずる」と仰せければ、さらぬだに信業、けさより肝(きも)たましひも身にそはず、あきれたる様(さま)にてありけるが、此(この)仰せ承(うけたまは)る忝(かたじけな)さに、狩衣(かりぎぬ)に玉だすきあげ、小柴墻壊(こしばがきやぶ)り大床(おほゆか)つか柱(ばしら)わりなンどして、水くみ入れ、かたのごとく御湯(おゆ)しだいて参らせたり。

現代語訳

同月(十一月)二十日、院御所法住寺殿では、軍勢が四面を囲んだ。平治の乱で信頼が三条殿にしたように、火をかけて人をみな焼き殺すだろうと噂されたので、身分の高い女房低い女房、女童(めのわらわ)は、物も頭にかぶらず、あわて騒いで走り出る。

法皇も大いに驚かれた。前右大将宗盛卿が御車を寄せて、

「これはさて何事であるか。咎があるようにも思わない。成親、俊寛のように、遠い国、遥かの島へもうつしやろうとするのか。天皇があのようにお若くていらっしゃるので、政務に口出しするだけである。それもいけないというなら、今後、一切の口出しはやめよう」

と仰せになると、宗盛卿は、

「その事ではございません。世をしずめる間、鳥羽殿へ五幸なし参らせようと、父の入道が申してございます」。

「ならば宗盛すぐに御供に参れ」

と仰せになったけれども、父の禅門の機嫌に恐れをなして参らない。

「ああこの事につけても、兄の内府(重盛)には、たいそう劣った者であるな。一年前もこのような目にあいそうだったのを、内府が身にかえて制し留めたから、今日までも心安く過ごせたのだ。諌める者がないからといって、このようにするのは、行末といっても頼みにならない」

といって、御涙をお流しになるのは畏れ多いことであった。

さて御車にお乗りになった。公卿殿上人一人もお供なさらず、ただ北面の下級の者、それに金行(かねゆき)という力仕事の召使いだけがお供に参った。

御車の尻には、尼御前が一人参られた。この尼御前と申すのは、すなわち法皇の乳母の人、紀伊二位のことである。

七条を西へ、朱雀を南へ御幸される。

身分の低い庶民の男女に至るまで、

「ああ法皇がお流されになられる」

と涙を流し、袖をしぼらない者はなかった。

去る七日の夜の大地震も、かのような事態になろうことの前兆であり、もっとも深い地の底までもこたえ、大地を守護する神々が驚き騒ぎなさったのも、道理であるよと人は申した。

さて鳥羽殿へお入りになると、大膳大夫信業(だいぜんのだいぶのぶなり)が、どうやってまぎれ参ったのだろうか、御前近く控えているのを召して、

「きっと今夜殺されるだろうと思うぞ。御行水をしたいと思うが、どうしたものか」

と仰せになると、それでなくとも信業は、今朝から肝魂も身につかず、呆然とした様子であったのが、この仰せを承るかたじけなさに、狩衣にたすきをあげ、小柴垣を破り、大床(寝殿造の広廂)の縁の下の短い柱をわりなどして、水をくみ入れ、形式どおりにお湯を用意して参らせた。

語句

■平治に信頼が… 平治の乱(平治元年)藤原信頼・源義朝が反乱を起こし、後白河上皇の御所三条殿に火をかけた件。 ■御とが… 自敬表現。以下、法皇の台詞中に自敬表現多数。 ■主上さて渡らせ給へば 天皇があのようにお若くていらっしゃるから。 ■口入 こうじゅ。口出し。 ■鳥羽殿 京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽離宮。白河法皇の造営。白河・鳥羽院政の舞台となった。 ■御力者 おんりきしゃ。力仕事に使う召使い。 ■尼ぜ 尼前。尼御前の略。 ■紀伊二位 きのにゐ。少納言入道信西の妻。紀伊守藤原兼永の娘。朝子。従二位。 ■あやしのしづのを 身分卑しい庶民。 ■先表 ぜんべう。前兆。 ■十六洛叉 世界の最低。洛叉(らくしゃ)は古代インドの数量の単位。10万。十六洛叉は百六十万由旬。由旬は古代インドの距離の単位。約七マイル(約一一・二キロメートル)あるいは九マイル。 ■堅牢地神 大地を支え守護する神。 ■いかさまにも 如何様にも。どう見ても。きっと。 ■玉だすき たすきの美称。 ■小柴垣 小さい柴でつくつた垣。 ■大床 寝殿造の広廂。 ■つか柱 縁の下の短い柱。 ■しだいて し出(いだ)して。用意して。

原文

又静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条の亭(てい)にゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なツて候なるに、御前(ごぜん)に人一人(いちにん)も候はぬ由承(うけたまは)るが、余りにあさましう覚え候。何かは苦しう候べき、静憲ばかりは御ゆるされ候へかし。参り候はん」と申されければ、「とうとう。御坊(おんぼう)は事あやまつまじき人なれば」とてゆるされたり。法印、鳥羽殿へ参ツて、門前にて車よりおり、門の内へさし入り給へば、折しも法皇御経(おんきやう)をうちあげうちあげあそばされける。御声もことにすごう聞えさせ給ひける。法印のつツと参られたれば、あそばされける御経に、御涙のはらはらとかからせ給ふを見参らせて、法印あまりのかなしさに、旧苔(きうたい)の袖(そで)をかほにおしあてて、泣く泣く御前(ごぜん)へぞ参られける。

御前には尼(あま)ぜばかり候はれけり。「いかにや法印御坊(ほふいんのおんぼう)、君は昨日(きのふ)のあした、法住寺殿にて供御(くご)きこしめされて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめしも入れず。長き夜すがら御寝(ぎよしん)もならず。御命(おんいのち)も既にあやふくこそ見えさせおはしませ」と宣(のたま)へば、法印涙をおさへて申されけるは、「何事も限りある事にて候へば、平家たのしみさかへて廿余年、されども悪行法(ほふ)に過ぎて、既に亡び候ひなんず。天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮、いかでか捨て参らツさせ給ふべき。中にも君の御憑(たのみ)ある、日吉山王七社(ひよしさんわうしちしや)、一乗守護(いちじようしゆご)の御ちかひあらたまらずは、彼法華(かのほつけ)八軸(ぢく)に立ちかけツてこそ、君をばまもり参らツさせ給ふらめ。しかれば政務(せいむ)は君の御代(おんよ)となり、凶徒(きようと)は水の泡(あわ)と消えうせ候べし」なンど申されければ、此詞(このことば)にすこしなぐさませおはします。

主上は関白のながされ給ひ、臣下(しんか)の多く亡びぬる事をこそ御歎(おんなげき)ありけるに、剰(あまつさ)へ法皇鳥羽殿におし籠められさせ給ふときこしめされて後は、つやつや供御(くご)もきこしめされず。御悩(ごなう)とて常はよるのおとどにのみぞいらせ給ひける。后宮(きさいのみや)をはじめ参らせて、御前(ごぜん)の女房たち、いかなるべしとも覚え給はず。

法皇鳥羽殿へ押し籠めらさせ給ひて後は、内裏には臨時の御神事(ごしんじ)とて、主上夜ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰壇(いしばひのだん)にて、伊勢太神宮をぞ御拝(ごはい)ありける。是(これ)はただ一向法皇の御祈(おんいのり)なり。二条院(にでうのゐん)は賢王(けんわう)にて渡らせ給ひしかども、天子に父母(ふぼ)なしとて、常は法皇の仰せをも申しかへさせましましける故にや、継体(けいてい)の君にてもましまさず。されば御譲(おんゆづり)をうけさせ給ひたりし六条院(ろくでうゐん)も、安元(あんげん)二年七月十四日御年十三にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさましかりし御事なり。

現代語訳

また静憲法印は入道相国の西八条の邸宅に行って、「法皇が鳥羽殿へ御幸されてごさいますが、御前に人が一人もございませんことを承るに、あまりに酷いことに思います。何のさしさわりがございましょう、静憲だけはおゆるしください。参りましょう」

と申されたところ、

「早く早く(参られよ)、御房は間違いはしないだろう人であるので」

といって許された。

法印は鳥羽殿へ参って、門前で馬からおり、門の内へお入りになると、その時法皇は御経をうちあげうちあげ、お読みでいらっしゃった。

御声もとくにすさまじくお聞こえになられた。法印がつっと参ると、お読みになっておられた御経に、御涙がはらはらとかかりなさるのを見申し上げて、法印はあまりのかなしさに、僧侶の正装の袖を顔に押し当てて、泣く泣く御前に参られた。

御前には尼御前だけが控えていらした。

「どうしたものか法印御房、わが君は昨日の朝、法住寺にてお食事を召し上がって後は、昨夜も今朝もお召し上がりになられない。長い夜を一晩中お休みにもなられない。御命も既に危なくお見えになられます」

とおっしゃると、法印は涙をおさえて申し上げたのは、

「何事も限りある事でございますので、平家楽しみ栄えて二十余年、けれども悪行が法の範囲を超えて、今にも滅びてしまうでしょう。天照太神(てんせうだいじん)、
正八幡宮も、どうしてお捨て申し上げなさるでしょう。

中にもわが君の御頼みある、日吉山王七社の、法華経守護の御誓いが改まらないなら、あの法華経八軸(全巻)に飛びかけって、わが君をお守り申し上げなさるでしょう。であるので政務はわが君がお執りになる御世となり、悪逆の徒(平家)は水の泡と消え失せますでしょう」

などと申し上げたところ、この言葉にすこしお心をおなぐさめられた。

(高倉)天皇は関白(藤原基房)がお流されになり、臣下が多く亡びたことを御嘆きになられていた上に、法皇が鳥羽殿に押し込められなさったとお聞きになられて後は、ほとんどお食事も召し上がらない。后の宮(建礼門院)をはじめ御前の女房たちは、どうしたらいいかもおわかりにならない。

法皇が鳥羽殿に押し込められなさって後は、内裏には臨時の御神事ということで、天皇は夜毎に清涼殿の石灰壇(いしばひのだん)で、伊勢太神宮を拝された。

これはただひたすら法皇のための御祈りである。二条院は賢王でいらっしゃったが、「天子の父母なし」といって、いつも父法皇(後白河院)の仰せにお逆らいになっておられたからであろうか、皇位継承の君でもいらっしゃらなかった。なのでご譲位をお受けになった六条院も、安元二年(1176)七月十四日御年十三で崩御された。嘆かわしい御事である。

語句

■静憲法印 藤原通憲(信西)の六男。鹿谷事件に参画。 ■何かは苦しう候べき 何のさしさわりもないでしょう。慣用表現。 ■旧苔 正しくは裘代。宮体とも。出家した者が参内の時に着る正装。または僧侶や隠者の衣を苔の衣とよぶことから僧衣のことか。 ■供御 くご。お食事。特に天皇上皇のお食事。 ■日吉山王七社 比叡山延暦寺の守り神。坂本の日吉社に祀られる神々。 ■一乗守護 一乗は法華経。法華経をたもつ者を守護するという日吉山王七社の誓い。 ■法華八軸 法華経は八巻八軸。法華経全巻。軸は巻物を数える単位。 ■立ちかけッて 立ち翔って。神が現れること? ■石灰壇 清涼殿の石灰で塗った壇。天皇が神事や伊勢大神宮遥拝を行う。 ■天子の父母なし 出典不明。二条天皇は父後白河院と不仲だった。 ■継体の君 けいていのきみ。皇位継承の君主。 ■六条院 二条天皇の子、六条天皇。永万元年(1165)即位。安元ニ年(1176)崩御。 ■安元二年七月十四日 史実は七月十七日。

……

平清盛が、関白藤原基房以下の公卿殿上人の官位をうばい追放した「治承三年の政変」、その総仕上げとして後白河法皇をとらえ、鳥羽殿に幽閉するくだりでした。

鳥羽殿は京都南方、鴨川と桂川が合流するあたり、鳥羽の地に白河上皇によって造営された離宮です。つづく鳥羽上皇、後白河上皇の時代にも造営がすすみ、院政の拠点として、さながら第二の平安京のようなにぎわいをみせていました。

現在、鳥羽離宮南殿跡が公園として整備されています。

承久三年(1221)承久の乱がはじまった城南宮、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いがはじまった地点も、すぐ近くです。

ゆかりの地

鳥羽離宮跡(鳥羽離宮跡公園・鳥羽離宮南殿跡)

鳥羽離宮跡公園は鳥羽離宮南殿の庭園の跡。公園の一角にある「秋の山」は、鳥羽離宮の築山の跡と伝えられる。慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いがはじまったのもこの付近。

鳥羽離宮は、11世紀の末、白河上皇が京都の南・鳥羽の地に造営した広大な離宮。白河・鳥羽・後白河、三代にわたって院政の拠点として栄えた。

淀川に続く池沼の岸辺に位置し、東西1.5Km。南北1K。平安京の朱雀大路から「鳥羽の作道」とよばれるまっすぐな道が伸びて、鳥羽離宮とつながっていた。

応徳3年(1086)造営が開始され、南殿・北殿・泉殿・馬場殿といった御所が建てられた。またそれぞれの御所には南殿に証金剛院、北殿に勝光明院、東殿に安楽寿院というふうに一つずつ、御堂が建てられた。

白河上皇に続く鳥羽上皇の時代にも鳥羽離宮の造営は続き、東殿・田中殿が建てられた。鳥羽離宮は上皇が院政を行う拠点として、さながら第二の平安京のように華やかな賑わいを見せた。

承久3年(1221)後鳥羽上皇が承久の乱で鎌倉幕府に破れた後は、鳥羽離宮は幕府よりの西園寺家の管理とされたが、それ以後、しだいに廃れていった。

京都府京都市伏見区中島御所ノ内町

朗読・解説:左大臣光永

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