平家物語 五十一 法皇被流(ほふわうながされ)

原文

同廿日(おなじきはつかのひ)、院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)には、軍兵四面(ぐんぴやうしめん)を打ちかこむ。平治(へいぢ)に信頼(のぶより)が三条殿(さんでうでん)にしたりし様(やう)に、火をかけて人をばみな焼き殺さるべしと聞えし間、上下の女房、めのわらは、物をだにうちかづかず、あわて騒いで走りいづ。法皇も大きにおどろかせおはします。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、御車(おんくるま)を寄せて、「とうとう召されべう候(さうらふ)」と奏(そう)せられければ、法皇、「こはされば何事ぞや。御(おん)とがあるべしともおぼしめさず。成親(なりちか)、俊寛(しゆんくわん)が様(やう)に、遠き国、遥(はる)かの島へもうつしやらんずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡らせ給へば、政務(せいむ)に口入(こうじゆ)する計(はかり)なり。それもさるべからずは、自今以降さらでこそあらめ」と仰せければ、宗盛卿、「其儀(そのぎ)では候はず。世をしずめん程、鳥羽殿へ御幸なし参らせんと、父の入道申し候」。「さらば宗盛やがて御供に参れ」と仰せけれども、父の禅門(ぜんもん)の気色(きしよく)に恐(おそれ)をなして参られず。「あはれ是につけても、兄の内府(だいふ)には、事(こと)の外(ほか)におとりたりける者かな。一年(ひととせ)もかかる御目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日までも心安かりつれ。いさむる者もなしとて、かやうにするにこそ、行末(ゆくすゑ)とてもたのもしからず」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝(かたじけな)き。

さて御車に召されけり。公卿殿上人一人(くぎやうてんじやうびといちにん)も供奉(ぐぶ)せられず、ただ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)、さては金行(こんぎやう)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞ参りける。御車の尻(しり)には、尼(あま)ぜ一人参られたり。この尼ぜと申すは、やがて法皇の御乳(おんち)の人、紀伊二位(きのにゐ)の事なり。七条を西へ、朱雀(しゆしやか)を南へ御幸なる。あやしのしづのを、賤女(しづのめ)にいたるまで、「あはや法皇のながされさせましますぞや」とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。去(さんぬる)七日の夜の大地震(だいぢしん)も、かかるべかりける先表(ぜんべう)にて、十六洛叉(らくしや)の底までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢしん)の驚きさわぎ給ひけんも、理(ことわり)かなとぞ人申しける。

さて鳥羽殿へ入らせ給ひたるに、大善大夫信業(だいぜんのだいぶのぶなり)が、何としてまぎれ参りたりけるやらむ、御前ちかう候ひけるを召して、「いかさまにも今夜うしなはれなんずとおぼしめすぞ。御行水(おんぎやうずい)を召さばやとおぼしめすは、いかがせんずる」と仰せければ、さらぬだに信業、けさより肝(きも)たましひも身にそはず、あきれたる様(さま)にてありけるが、此(この)仰せ承(うけたまは)る忝(かたじけな)さに、狩衣(かりぎぬ)に玉だすきあげ、小柴墻壊(こしばがきやぶ)り大床(おほゆか)つか柱(ばしら)わりなンどして、水くみ入れ、かたのごとく御湯(おゆ)しだいて参らせたり。

現代語訳

同月(十一月)二十日、院御所法住寺殿では、軍勢が四面を囲んだ。平治の乱で信頼が三条殿にしたように、火をかけて人をみな焼き殺すだろうと噂されたので、身分の高い女房低い女房、女童(めのわらわ)は、物も頭にかぶらず、あわて騒いで走り出る。

法皇も大いに驚かれた。前右大将宗盛卿が御車を寄せて、

「これはさて何事であるか。咎があるようにも思わない。成親、俊寛のように、遠い国、遥かの島へもうつしやろうとするのか。天皇があのようにお若くていらっしゃるので、政務に口出しするだけである。それもいけないというなら、今後、一切の口出しはやめよう」

と仰せになると、宗盛卿は、

「その事ではございません。世をしずめる間、鳥羽殿へ五幸なし参らせようと、父の入道が申してございます」。

「ならば宗盛すぐに御供に参れ」

と仰せになったけれども、父の禅門の機嫌に恐れをなして参らない。

「ああこの事につけても、兄の内府(重盛)には、たいそう劣った者であるな。一年前もこのような目にあいそうだったのを、内府が身にかえて制し留めたから、今日までも心安く過ごせたのだ。諌める者がないからといって、このようにするのは、行末といっても頼みにならない」

といって、御涙をお流しになるのは畏れ多いことであった。

さて御車にお乗りになった。公卿殿上人一人もお供なさらず、ただ北面の下級の者、それに金行(かねゆき)という力仕事の召使いだけがお供に参った。

御車の尻には、尼御前が一人参られた。この尼御前と申すのは、すなわち法皇の乳母の人、紀伊二位のことである。

七条を西へ、朱雀を南へ御幸される。

身分の低い庶民の男女に至るまで、

「ああ法皇がお流されになられる」

と涙を流し、袖をしぼらない者はなかった。

去る七日の夜の大地震も、かのような事態になろうことの前兆であり、もっとも深い地の底までもこたえ、大地を守護する神々が驚き騒ぎなさったのも、道理であるよと人は申した。

さて鳥羽殿へお入りになると、大膳大夫信業(だいぜんのだいぶのぶなり)が、どうやってまぎれ参ったのだろうか、御前近く控えているのを召して、

「きっと今夜殺されるだろうと思うぞ。御行水をしたいと思うが、どうしたものか」

と仰せになると、それでなくとも信業は、今朝から肝魂も身につかず、呆然とした様子であったのが、この仰せを承るかたじけなさに、狩衣にたすきをあげ、小柴垣を破り、大床(寝殿造の広廂)の縁の下の短い柱をわりなどして、水をくみ入れ、形式どおりにお湯を用意して参らせた。

語句

■平治に信頼が… 平治の乱(平治元年)藤原信頼・源義朝が反乱を起こし、後白河上皇の御所三条殿に火をかけた件。 ■御とが… 自敬表現。以下、法皇の台詞中に自敬表現多数。 ■主上さて渡らせ給へば 天皇があのようにお若くていらっしゃるから。 ■口入 こうじゅ。口出し。 ■鳥羽殿 京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽離宮。白河法皇の造営。白河・鳥羽院政の舞台となった。 ■御力者 おんりきしゃ。力仕事に使う召使い。 ■尼ぜ 尼前。尼御前の略。 ■紀伊二位 きのにゐ。少納言入道信西の妻。紀伊守藤原兼永の娘。朝子。従二位。 ■あやしのしづのを 身分卑しい庶民。 ■先表 ぜんべう。前兆。 ■十六洛叉 世界の最低。洛叉(らくしゃ)は古代インドの数量の単位。10万。十六洛叉は百六十万由旬。由旬は古代インドの距離の単位。約七マイル(約一一・二キロメートル)あるいは九マイル。 ■堅牢地神 大地を支え守護する神。 ■いかさまにも 如何様にも。どう見ても。きっと。 ■玉だすき たすきの美称。 ■小柴垣 小さい柴でつくつた垣。 ■大床 寝殿造の広廂。 ■つか柱 縁の下の短い柱。 ■しだいて し出(いだ)して。用意して。

原文

又静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条の亭(てい)にゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なツて候なるに、御前(ごぜん)に人一人(いちにん)も候はぬ由承(うけたまは)るが、余りにあさましう覚え候。何かは苦しう候べき、静憲ばかりは御ゆるされ候へかし。参り候はん」と申されければ、「とうとう。御坊(おんぼう)は事あやまつまじき人なれば」とてゆるされたり。法印、鳥羽殿へ参ツて、門前にて車よりおり、門の内へさし入り給へば、折しも法皇御経(おんきやう)をうちあげうちあげあそばされける。御声もことにすごう聞えさせ給ひける。法印のつツと参られたれば、あそばされける御経に、御涙のはらはらとかからせ給ふを見参らせて、法印あまりのかなしさに、旧苔(きうたい)の袖(そで)をかほにおしあてて、泣く泣く御前(ごぜん)へぞ参られける。

御前には尼(あま)ぜばかり候はれけり。「いかにや法印御坊(ほふいんのおんぼう)、君は昨日(きのふ)のあした、法住寺殿にて供御(くご)きこしめされて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめしも入れず。長き夜すがら御寝(ぎよしん)もならず。御命(おんいのち)も既にあやふくこそ見えさせおはしませ」と宣(のたま)へば、法印涙をおさへて申されけるは、「何事も限りある事にて候へば、平家たのしみさかへて廿余年、されども悪行法(ほふ)に過ぎて、既に亡び候ひなんず。天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮、いかでか捨て参らツさせ給ふべき。中にも君の御憑(たのみ)ある、日吉山王七社(ひよしさんわうしちしや)、一乗守護(いちじようしゆご)の御ちかひあらたまらずは、彼法華(かのほつけ)八軸(ぢく)に立ちかけツてこそ、君をばまもり参らツさせ給ふらめ。しかれば政務(せいむ)は君の御代(おんよ)となり、凶徒(きようと)は水の泡(あわ)と消えうせ候べし」なンど申されければ、此詞(このことば)にすこしなぐさませおはします。

主上は関白のながされ給ひ、臣下(しんか)の多く亡びぬる事をこそ御歎(おんなげき)ありけるに、剰(あまつさ)へ法皇鳥羽殿におし籠められさせ給ふときこしめされて後は、つやつや供御(くご)もきこしめされず。御悩(ごなう)とて常はよるのおとどにのみぞいらせ給ひける。后宮(きさいのみや)をはじめ参らせて、御前(ごぜん)の女房たち、いかなるべしとも覚え給はず。

法皇鳥羽殿へ押し籠めらさせ給ひて後は、内裏には臨時の御神事(ごしんじ)とて、主上夜ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰壇(いしばひのだん)にて、伊勢太神宮をぞ御拝(ごはい)ありける。是(これ)はただ一向法皇の御祈(おんいのり)なり。二条院(にでうのゐん)は賢王(けんわう)にて渡らせ給ひしかども、天子に父母(ふぼ)なしとて、常は法皇の仰せをも申しかへさせましましける故にや、継体(けいてい)の君にてもましまさず。されば御譲(おんゆづり)をうけさせ給ひたりし六条院(ろくでうゐん)も、安元(あんげん)二年七月十四日御年十三にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさましかりし御事なり。

現代語訳

また静憲法印は入道相国の西八条の邸宅に行って、「法皇が鳥羽殿へ御幸されてごさいますが、御前に人が一人もございませんことを承るに、あまりに酷いことに思います。何のさしさわりがございましょう、静憲だけはおゆるしください。参りましょう」

と申されたところ、

「早く早く(参られよ)、御房は間違いはしないだろう人であるので」

といって許された。

法印は鳥羽殿へ参って、門前で馬からおり、門の内へお入りになると、その時法皇は御経をうちあげうちあげ、お読みでいらっしゃった。

御声もとくにすさまじくお聞こえになられた。法印がつっと参ると、お読みになっておられた御経に、御涙がはらはらとかかりなさるのを見申し上げて、法印はあまりのかなしさに、僧侶の正装の袖を顔に押し当てて、泣く泣く御前に参られた。

御前には尼御前だけが控えていらした。

「どうしたものか法印御房、わが君は昨日の朝、法住寺にてお食事を召し上がって後は、昨夜も今朝もお召し上がりになられない。長い夜を一晩中お休みにもなられない。御命も既に危なくお見えになられます」

とおっしゃると、法印は涙をおさえて申し上げたのは、

「何事も限りある事でございますので、平家楽しみ栄えて二十余年、けれども悪行が法の範囲を超えて、今にも滅びてしまうでしょう。天照太神(てんせうだいじん)、
正八幡宮も、どうしてお捨て申し上げなさるでしょう。

中にもわが君の御頼みある、日吉山王七社の、法華経守護の御誓いが改まらないなら、あの法華経八軸(全巻)に飛びかけって、わが君をお守り申し上げなさるでしょう。であるので政務はわが君がお執りになる御世となり、悪逆の徒(平家)は水の泡と消え失せますでしょう」

などと申し上げたところ、この言葉にすこしお心をおなぐさめられた。

(高倉)天皇は関白(藤原基房)がお流されになり、臣下が多く亡びたことを御嘆きになられていた上に、法皇が鳥羽殿に押し込められなさったとお聞きになられて後は、ほとんどお食事も召し上がらない。后の宮(建礼門院)をはじめ御前の女房たちは、どうしたらいいかもおわかりにならない。

法皇が鳥羽殿に押し込められなさって後は、内裏には臨時の御神事ということで、天皇は夜毎に清涼殿の石灰壇(いしばひのだん)で、伊勢太神宮を拝された。

これはただひたすら法皇のための御祈りである。二条院は賢王でいらっしゃったが、「天子の父母なし」といって、いつも父法皇(後白河院)の仰せにお逆らいになっておられたからであろうか、皇位継承の君でもいらっしゃらなかった。なのでご譲位をお受けになった六条院も、安元二年(1176)七月十四日御年十三で崩御された。嘆かわしい御事である。

語句

■静憲法印 藤原通憲(信西)の六男。鹿谷事件に参画。 ■何かは苦しう候べき 何のさしさわりもないでしょう。慣用表現。 ■旧苔 正しくは裘代。宮体とも。出家した者が参内の時に着る正装。または僧侶や隠者の衣を苔の衣とよぶことから僧衣のことか。 ■供御 くご。お食事。特に天皇上皇のお食事。 ■日吉山王七社 比叡山延暦寺の守り神。坂本の日吉社に祀られる神々。 ■一乗守護 一乗は法華経。法華経をたもつ者を守護するという日吉山王七社の誓い。 ■法華八軸 法華経は八巻八軸。法華経全巻。軸は巻物を数える単位。 ■立ちかけッて 立ち翔って。神が現れること? ■石灰壇 清涼殿の石灰で塗った壇。天皇が神事や伊勢大神宮遥拝を行う。 ■天子の父母なし 出典不明。二条天皇は父後白河院と不仲だった。 ■継体の君 けいていのきみ。皇位継承の君主。 ■六条院 二条天皇の子、六条天皇。永万元年(1165)即位。安元ニ年(1176)崩御。 ■安元二年七月十四日 史実は七月十七日。

朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永