平家物語 五十ニ 城南之離宮(せいなんのりきゆう)

原文

百行(はくかう)の中には、孝行(かうかう)をもツて先とす。明王(めいわう)は孝をもツて天下を治むといへり。されば唐堯(たうげう)は老い衰へたる母をたツとび、虞舜(ぐしゆん)はかたくななる父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主(かのけんわうせいしゆ)の先規(せんき)を追はせましましけむ、叡慮(えいりよ)の程こそ目出たけれ。

其比(そのころ)内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書(ごしよ)あり。「かからむ世には、雲井に跡(あと)をとどめても何かはし候(さうらふ)べき。寛平(くわんぺい)の昔をもとぶらひ花山(くわさん)の古(いにしへ)をも尋ねて、家を出で世をのがれ、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)ともなりにべうこそ候へ」と、あそばされたりければ、法皇の御返事(おんへんじ)には、「さなおぼしめされ候ひそ。さて渡らせ給ふこそ、一つのたのみにても候へ。跡なくおぼしめしならせ給ひなん後は、なんのたのみか候べき。ただ愚老(ぐらう)がともかうもならむやうをきこしめしはてさせ給ふべし」とあそばされたりければ、主上此御返事(しゆうしやうこのおんへんじ)を竜顔(りようがん)におしあてて、いとど御涙にしづませ給ふ。君は舟、臣(しん)は水、水よく舟をうかべ、水又舟をくつがへす。臣よく君をたもち、臣又君を覆(くつがへ)す。保元(ほうげん)、平治(へいぢ)の比(ころ)は、入道相国、君(きみ)をたもち奉るといへども、安元(あんげん)、治承(ぢしよう)のいまは、又君をなみし奉る。史書(ししょ)の文(もん)にたがはず。

大宮大相国(おほみやのたいしやうこく)、三条内大臣(さんでうのないだいじん)、葉室大納言(はむろのだいなごん)、中山中納言(なかやまのちゆうなごん)も失(う)せられぬ。今はふるき人とては、成頼(せいらい)、親範(しんぱん)ばかりなり。この人々もかからむ世には朝(てう)につかへ身をたて、大納言を経(へ)ても何かはせんとて、いまだ盛(さか)むなツし人々の、家を出で世をのがれ、民部卿入道親範(みんぶのきやうにふだうしんぱん)は、大原の霜(しも)にともなひ、宰相入道成頼(さいしやうにふだうせいらい)は、高野(かうや)の霧にまじはり、一向後世菩提(いつかうごせぼだい)のいとなみの外(ほか)は他事(たじ)なしとぞきこえし。昔も商山(しやうざん)の雲にかくれ、潁川(えいせん)の月に心をすます人もありければ、これ豈博覧清潔(あにはくらんせいけつ)にして、世を逋(のが)れたるにあらずや。中にも高野におはしける宰相入道成頼、か様(やう)の事共を伝へ聞いて、「あはれ心どうも世をばのがれたるものかな。かくて聞くも同じ事なれども、まのあたり立ちまじはツて見ましかば、いかに心うからん。保元平治の乱(みだれ)をこそ、浅ましと思ひしに、世すゑになれば、かかる事もありけり。此後猶(こののちなほ)いか計(ばかり)の事か出でこむずらむ。雲を分けてものぼり、山を隔てても入りなばや」とぞ宣ひへる。げに心あらん程の人の、跡(あと)をとどむべき世ともみえず。

現代語訳

あらゆる行いの中に、孝行こそ一番だ。賢明な王は孝をもって天下を治めるという。なので堯王は老い衰えた母を尊び、舜王は頑固な父を敬ったとみえる。

かの賢明聡明な君主たちの先例をお追いなされようとする、(高倉)天皇のお考えのほどの素晴らしいことよ。

その頃内裏からひそかに鳥羽殿へ御書がある。

「このような世には、宮中に残っていても何になりましょう。宇多法皇の昔の跡を弔い、花山法皇のご遺跡をも尋ねて、家を出て世をのがれ、山や林に流浪する行者ともなりたく存じます」

とおっしゃったところ、法皇の御返事には、

「そのようにお思いになられますな。そうして御帝位についていらっしゃるからこそ、一つの頼みでございます。ご出家された後は、なんの頼みがございましょう。ただ愚かな老人のどうにもこうにもなる行く末をお聞きになってください」

と書かれたので、天皇はこの御返事を御顔に押し当てて、たいそう御涙にお沈みになる。

君は舟、臣は水、水よく船をうかべ、また船をひっくりかえす。臣よく君を助け、臣また君をひっくりかえす。保元平治のころは、入道相国、君を助け申し上げたといっても、安元治承の今は、また君をないがしろにし申し上げる。史書に書いてあることに違わない。

大宮大相国(藤原伊通)、三条内大臣(藤原公教)、葉室大納言(藤原光頼)、中山中納言(中山顕時)も亡くなられた。

今はふるい人としては、成頼(藤原成頼)、親範(平親範)だけである。この人々もこのような世には朝廷に仕え身を立て、大中納言を経てもどうなろうということで、いまだ盛んであった人々であるが、家を出て世をのがれ、民部卿入道親範は、大原の霜を友とし、宰相入道成頼は、高野の霧に交わり、ひたすら後の世の菩提を祈る行いをされる他はないときいている。

昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心をすます人もあったので、これはどうして博学にして清廉潔白な人が世を逃れたのでないことがあろうか。

中にも高野にいらっしゃる宰相入道成頼は、このような事(法皇が流された事)などを伝え聞いて、

「ああ心早くも世を逃れた(出家した)ものだなあ。このように出家の身で聞くのも同じ事であるが、目の前に自分も参加して見たのならば、どれだけ悲しかろう。保元平治の乱れをこそ酷いと思ったのに、世も末になったので、このような事もあるのだ。この後さらにどれほどの酷い事が出てくるだろう。雲を分けてものぼり、山を隔てても入らなければ」

とおっしゃった。本当に心あるほどの人が、跡をとどめるべき世とも見えない。

語句

■百行 あらゆる行為。「孝道之美、百行之本也」(白虎通)、「五孝の用は則ち別なりと雖も、百行の源は殊ならず(孝経・唐玄宗序)。 ■名王は… 名王は賢明な王。「名王の孝を以て天下を治むるや此の如し」(孝経・孝治章)。 ■唐堯 古代中国の伝説的な王、五帝の一人、堯。 ■虞舜 古代中国の伝説的な王、舜。父母が頑なで愚かだったがそれでも孝行をつくしたと『尚書』に。 ■寛平の昔 寛平9年(897)7月、宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となったこと。 ■花山の古 寛和2年(986)花山天皇が19歳で一条天皇に譲位させられて後、法皇となったこと。その後、崩御までの21年間、諸国巡礼や山ごもりをした。 ■さて そうして。帝位につかれて。 ■竜顔 りょうがん。天子の顔。 ■君は舟… 「君は舟なり、庶人は水なり。水は舟を載する所以、また舟を覆す所以なり」(孔子家語・一)、「君は舟なり、庶人は水なり。水則ち舟を載せ、水則ち舟を覆す」(筍子・五)。 ■なみし 軽んじる。 ■大宮大相国 藤原伊通。九条大相国と号す。長寛3年(1165)没。 ■三条内大臣 藤原公教。三条内府(内大臣)と号す。永暦元年(1160)没。 ■葉室大納言 藤原光頼。葉室大納言入道と号す。承安三年(1173)没。 ■中山中納言 中山顕時。藤原長隆の子。中山中納言と号す。仁安二年(1167)没。 ■成頼 藤原顕頼の子。出家して高野山に入り高野宰相入道と号す。建仁二年(1202)没。『平家物語』作者ともいわれる。 ■親範 平範家の子。大原極楽殿で出家。承久二年(1220)没。 ■大原の霜にともなひ 大原の霜を友とし。 ■商山 中国長安の南。陝西省商県。出家隠遁の地。昔、東園公、綺里季、夏黄公・甪里(ろくり)先生の四人の老人(四皓)が秦の戦を避けて商山に棲んだという。四人を画題にする絵画を商山四皓図という。 ■潁川 えいせん。中国河南省にある川。許由は堯帝から知事にならないかと言われて、耳が穢れたといって潁川で耳を洗った(高士伝)。 ■心どうも 「心疾くも」の音便。心早くも。 ■見ましかば 見ていたら。反実仮想。 

原文

同(おなじき)廿三日、天台座主覚快法親王(てんだいざすかくくわいほつしんわう)、頻(しき)りに御辞退(ごじたい)あるによツて、前座主明雲大僧正(さきのざすめいうんだいそうじやう)、環着(くわんちやく)せらる。入道相国(にふだうしやくこく)はかくさんざんにし散(ちら)されたれども、御女(おんむすめ)中宮にてまします、関白殿と申すも聟(むこ)なり、よろづ心やすうや思はれけむ、政務はただ一向、主上(しゆしやう)の御(おん)ぱからひたるべしとて、福原へ下られけり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、いそぎ参内して、此由奏聞せられければ、主上は、「法皇のゆづりましましたる世ならばこそ。ただとうとう執柄(しつぺい)にいひあはせて、宗盛(むねもり)ともかうもはからへ」とて、きこしめしも入れざりけり。

法皇は城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にして、冬もなかばすごさせ給へば、野山(やさん)の嵐の音のみはげしくて、寒庭(かんてい)の月のひかりぞさやけき。
庭には雪のみ降りつもれども、跡ふみつくる人もなく、池にはつららとぢかさねて、むれゐし鳥もみえざりけり。おほ寺の鐘の声、遺愛寺(ゐあいじ)の聞(きき)を驚かし、西山(にしやま)の雪の色、香炉峰(かうろほう)の望(のぞみ)をもよほす。よる霜に寒けき砧(きぬた)のひびき、かすかに御枕につたひ、暁(あかつき)、氷(こほり)をきしる車の跡、遥(はる)かに門前によこたはれり。

巷(ちまた)を過ぐる行人征馬(かうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世を渡る有様(ありさま)も、おぼしめし知られて哀れなり。宮門(きゆうもん)をまもる蛮夷(ばんい)の、よるひる警衛(けいゑい)をつとむるも、先の世のいかなる契(ちぎり)にて今縁(えん)を結ぶらんと、仰せなりけるぞ忝(かたじけな)き。凡(およ)そ物にふれ事にしたがツて、御心(おんこころ)をいたましめずといふ事なし。さるままにはかの折々の御遊覧、所々(ところどころ)の御参詣、御賀(おんが)のめでたかりし事共、おぼしめしつづけて、懐旧(くわいきう)の御泪(おんなみだ)おさへがたし。年さり年来(きた)ツて、治承も四秊(しねん)になりにけり。

現代語訳

同月(十一月)二十三日、天台座主覚快法親王がしきりにご辞退されるので、前の座主明雲大僧正が天台座主に復職された。

入道相国はこのようにさんざんにし散らしたが、御娘は中宮でいらっしゃる、関白殿(藤原基通)と申すのも婿であるので、万事心やすく思われたのだろうか、政務はただひたすら、天皇のお計らいによるべしといって、福原に下られた。

前右大将宗盛卿がいそいで参代して、この事を上奏なさると、(高倉)天皇は、「法皇がお譲りになられた世であるからこそ(私は天皇として世を治めたくもあるのだ。清盛の世では何もしたくない)。ただ早く早く、摂政関白と言いあわせて、宗盛がどうにもこうにも計らえ」と、お聞き入れにもなられない。

法皇は城南の離宮(鳥羽殿)で、冬も半ばお過ごしになると、野山の嵐の音がひたすらはげしく、寒々とした庭の月の光はさえている。庭には雪ばかり降りつもるが、足跡をつけて訪ねてくる人もなく、池にはつららが重なって、群れをなしていた鳥も見えなかった。

大寺(勝光明院)の鐘の音が、遺愛寺のそれのように聴く耳を驚かし、西山の雪の色は、香炉峰のながめを思わせる。

夜は霜の中寒々した砧の響きが、かすかに御枕に伝わり、明け方、氷を踏みしきる車の跡が、はるかに門前に横たわる。

巷を過ぎる人や馬の忙しそうな様子、浮世をわたるありさまも、おわかりになって哀れ深い。

宮門を守る番人の、夜昼警護をつとめるのも、前世のどんな契で今縁を結ぶのだろうと、仰せになられるのは畏れ多い。

万事、物にふれても事にしたがっても、御心をお痛めににならない事はない。

そんな中にも以前の折々の御遊覧、所々の御参詣、御祝賀の華やかだった事など、思い続けられて、昔を懐かしむ御涙をお抑えになられない。

年去り年来たって、治承も四年になった。

語句

■同廿三日 『玉葉』では十一月十六日。『山槐記』では十七日。 ■還着 かんぢやく。もとの職に復すこと。 ■福原へ下られけり 十一月二十日(玉葉、山槐記)。  ■執柄 しつぺい。摂政関白の異称。 ■城南の離宮 せいなんのりきゆう。鳥羽殿の異称。 ■野山の嵐の音。 ■おほ寺 鳥羽上皇建立の勝光明院。鳥羽殿安楽寿院そば。 ■遺愛寺の聞を驚かし 「遺愛寺の鐘は枕をそばたてて聴く、香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」(和漢朗詠集下・山家 白楽天)。遺愛寺は中国江西省九江県の廬山にある山岳。 ■砧 秋に衣を叩いてツヤを出したりシワをのばしたりする木槌。秋の砧の音は深い情緒であるとして、多くの歌に詠まれる。 ■蛮夷 宮門を守る番人。もとは九州南部の隼人を使ったため蛮夷といったものか。 ■御賀 ご祝賀。

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朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永