平家物語 五十三 厳島御幸(いつくしまごかう)

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平家物語巻第四より「厳島御幸(いつくしまごかう)」。

高倉天皇は清盛によって退位させられ、安徳天皇が位につく。 退位した高倉院は、安芸の厳島へ御幸されるが、出発前に鳥羽殿に幽閉されている父、後白河法皇を訪ねる。

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前回「城南之離宮」からのつづきです。
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あらすじ

後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されたまま治承四年の正月が来る。正月というのに鳥羽殿に参る人はない。

桜町中納言成範卿、その弟左京大夫脩範のみ鳥羽殿への参入を許された。

二十日、東宮言仁(ときひと)親王の生後はじめて袴をつける初袴の儀式とはじめて魚肉を食べる真魚始の儀式が行われる。

後白河法皇はしかし、鳥羽殿にてよそに聞くのみだった。

二月二十一日、高倉天皇はさしたるご病気でもないのに清盛の独断で退位させられ、 替わって東宮言仁親王が安徳天皇として即位。平家の人々は我らの時代が来たと喜んだ。

位譲りの儀式が行われる。儀式に参加した弁内侍、備中内侍は共に高倉帝に仕えていた女官なので、 神器を手にお世話するのも今宵限りと、感慨もひとしおだっただろう。

また、少納言内侍という女官は儀式に参加するはずだったが辞退した。今夜神器に手をかけては二度と新帝の内侍にはなれないと聞いていたためである。

すでに年をくっていて、それでなくても内侍になれようはずがないのにと、人々が悪し様に言っていたところ、十六歳の備中内侍が代りを申し出たのは殊勝なことであった。

皇室に伝わる所蔵品が、新帝の皇居、五条内裏に移される。

一方、高倉帝の里内裏、閑院殿は閑散として心ぼそくなった。

新帝は今年三歳。「譲位は早すぎる」と言う人もいたが、平大納言時忠卿は、 内外のいろいろな例を引いて、人々の意見を封じた。

安徳天皇が位に上ったことにより、入道相国夫婦は外祖父・外祖母として 准三后の宣旨を受け、いよいよ権力を固めた。

同年三月上旬、位を降りた高倉天皇が安芸国厳島へ御幸する話が持ち上がる。

天皇が位を降りてからの御幸はじめは、石清水八幡宮、加茂社、春日社などに御幸されるのが慣例だった。厳島は異例だった。

「平家の信仰する厳島神社を詣でることで表面上は平家に同心を装いながら、その実は入道相国の謀反の心をなだめようというお心だろう」と、人々は噂た。

比叡山の衆徒が難癖をつけてきたので、御幸はしばらく延期されたが、清盛が比叡山衆徒をなだめ、どうにか御幸が決行される。

同十七日、高倉院は出発に際して西八条邸に立ち寄った。鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に会いたい旨を宗盛に伝え、許される。

十九日早朝、西八条邸を出発し、鳥羽殿へ御幸される。

父子の対面。

御前には高倉院の乳母、紀伊の二位のみがつきそう。

しばらく父子で物語された後、お互いの前途を思いやりつつ別れるのだった。

原文

治承(ぢしやう)四年正月一日(ひとひのひ)、鳥羽殿(とばどの)には、相国(しやうこく)もゆるさず、法皇もおそれさせましましければ、元日元三(ぐわんじつぐわんざん)の間(あひだ)参入する人もなし。されども故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息、桜町の中納言成範卿(しげのりのきやう)、其弟左京大夫脩範(そのおととさきやうのだいぶながのり)ばかりぞゆるされて参られける。

同(おなじき)正月廿日(はつかのひ)、東宮御袴着(おんはかまぎ)、ならびに御(おん)まなはじめとて、めでたき事どもありしかども、法皇は鳥羽殿にて、御耳のよそにぞきこしめす。
二月廿一日、主上(しゆしやう)ことなる御(おん)つつがもわたらせ給はぬを、おしおろし奉り、春宮践祚(とうぐうせんそ)あり。これは入道相国、よろづ思ふ様(さま)なるが致すところなり。時よくなりぬとてひしめきあへり。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣(ほうけん)わたし奉る。上達部(かんだちめ)陣にあつまツて、ふるき事ども先例にまかせておこなひしに、弁内侍御剣(べんのないしぎよけん)とツてあゆみいづ。清涼殿(せいりやうでん)の西面(にしおもて)にて、恭通(やすみち)の中将うけとる。備中(びつちゆう)の内侍(ないし)、しるしの御箱(おんばこ)とりいづ。隆房(たかふさ)の少将うけとる。内侍所しるしの御箱、こよひばかりや手をもかけんと思ひあへりけむ、内侍の心のうちども、さこそはとおぼえて、あはれおほかりけるなかに、しるしの御箱をば、少納言の内侍とりいづべかりしを、こよひこれに手をもかけては、ながくあたらしき内侍にはなるまじきよし、人の申しけるをきいて、其期(そのご)に辞し申してとりいでざりけり。年すでにたけたり、二たびさかりを期(ご)すべきにもあらずとて、人々にくみあへりしに、備中の内侍とて、生年(しようねん)十六歳、いまだいとけなき身ながら、その期(ご)にわざとのぞみ申してとりいでける、やさしかりしためしなり。つたはれる御物(ごもつ)ども、しなじなつかさづかさうけとツて、新帝の皇居、五条内裏(だいり)へわたし奉る。閑院殿(かんゐんどの)には、火の影もかすかに、鶏人(けいじん)の声もとどまり、滝口(たきぐち)の文爵(もんじやく)もたえにければ、ふるき人々心ぼそくおぼえて、めでたきいはひのなかに、涙(なみだ)をながし心をいたましむ。左大臣陣(ぢん)にいでて、御位(おんくらゐ)ゆづりの事ども仰せしをきいて、心ある人々は、涙(なみだ)をながし袖(そで)をうるほす。われと御位を、儲(まうけ)の君にゆづり奉り、麻姑射(ほこや)の山のうちも閑(しづか)になンどおぼしめすさきざきだにも、哀(あはれ)はおほき習(ならひ)ぞかし。況(いはん)やこれは御心ならずおしおろされさせ給ひけん、あはれさ申すもなかなかおろかなり。

新帝今年は三歳(さんざい)、「あはれいつしかなる譲位(じやうゐ)かな」と、時の人々申しあはせけり。平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)は、内の御めのと、帥(そつ)のすけの夫(をつと)たるによツて、「今度の譲位、いつしかなりと誰かかたむけ申すべき。異国には、周成王(しうのせいわう)三歳、普穆帝(しんのぼくてい)二歳、我朝(わがてう)には、近衛院(このゑのゐん)三歳、六条院(ろくでうのゐん)二歳、これみな襁褓(きやうほう)のなかにつつまれて、衣帯(いたい)をただしうせざツしかども、或(あるい)は摂政おうて位につけ、或は母后(ぼこう)いだいて朝(てう)にのぞむとみえたり。後漢の孝殤皇帝(かうしやうくわうてい)は、生(むま)れて百日といふに、践祚(せんそ)あり。天子位をふむ先蹤(せんじよう)、和漢かくのごとし」と申されければ、其時の有職(いうしよく)の人々、「あなおそろし、物な申されそ。さればそれはよき例(れい)どもかや」とぞつぶやきあはれける。春宮(とうぐう)位につかせ給ひしかば、入道相国夫婦(ふうふ)共に、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とて、准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶり、年官年爵(ねんぐわんねんじやく)を給はツて、上日(じやうにち)の者を召しつかふ。絵かき花つけたる侍(さぶらひ)どもいで入りて、ひとへに院宮(ゐんぐう)ごとくにてぞありける。出家入道の後(のち)も、栄耀(えいえう)はつきせずとぞみえし。出家の人の准三后(じゆんさんごう)の宣旨を蒙る事は、法興院(ほこゐん)の大入道殿兼家公(おほにふだうどのかねいへこう)の御例(れい)なり。

現代語訳

治承四年正月一日、鳥羽殿には、入道相国もゆるさず、法皇も(入道相国にきこえることを)お恐れになったので、元日三が日の間参入する人もない。

それでも故少納言入道信西の子息、桜町の中納言成範(しげのり)卿、その弟左京大夫脩範(ながのり)だけが許されて参られた。

同年正月二十日、東宮の御袴着、ならびに御まなはじめと、めでたい儀式などがあったが、法皇は鳥羽殿にて、御耳のよそにお聞きになる。

二月二十日、高倉天皇はべつだんの病もおありにならないのに、ご譲位させ申し上げて、東宮(言仁親王)が践祚した。

これは入道相国が、万事思うままになることによって行ったことである。時勢がよくなったと、平家の人々は騒ぎ合う。

内侍所、神璽、宝剣をお渡し申し上げる。公卿らは陣の座に集まって、古い事などは先例にまかせて行ったところ、弁内侍(べんのないし)が御剣をとって歩みだす。

清涼殿の西面にて、泰通(やすみち)の中将が受け取る。備中の内侍が、しるしの御箱(神璽の入れてある御箱)を取り出す。

隆房の少将が受け取る。内侍所としるしの御箱が、今夜以後はもう手もかけられないと(この人々は)お互いに思い合っていただろう、内侍の心のうちなど、まことにもっともと思えて、感慨深い中に、しるしの御箱を、少納言の内侍が取り出すべきところを、今夜これに手をもかけては、長く次の天皇の内侍にはなれないことを、人が申したのをきいて、その時に辞退申して取り出さなかった。

すでに年老いており、ふたたび盛りを期待することもできないと、人々が憎み合っていると、備中の内侍といって、生年十六歳、いまだ幼い身であるが、その時にわざと希望申し上げて取り出したのは、殊勝なことである。

朝廷に伝わる多くの宝物、それぞれの品をそれぞれの役人が受け取って、新帝(安徳天皇)の皇居、五条内裏へわたし申し上げる。

閑院殿(高倉上皇の里内裏)には、火の影もかすかに、鶏人(時を告げる役人)の声もやみ、滝口(宮中警備の役人)の点呼を取る声も絶えたので、古老の人々は心細く思って、めでたい祝の中に、涙を流し心を傷ませた。

左大臣(藤原経宗)が陣の座に出て、御位ゆずりの事など仰せになったのを聞いて、心ある人々は、涙をながし袖をうるおす。

自分から御位を東宮に譲り申し上げ、上皇御所のうちに静かに隠居しようと思われる場合でさえも将来のことは哀れ多いのが常である。

ましてこれは御心ならず譲位させられなさったので、哀れさは口に出して言うこともできぬほどだ。

新帝(安徳天皇)は今年は三歳、「ああ早すぎる譲位だなあ」と、時の人々は申し合われた。平大納言時忠卿は、新帝の御乳母、帥のすけ殿の夫であるので、「今度の譲位が早すぎると誰が非難できよう。異国には周の成王三歳、晋の穆帝二歳、わが国には、近衛院三歳、六条院ニ歳、これはみな幼児の衣に包まれて、衣や帯を正しく着ることもできなかったが、あるいは摂政がおぶって位につけ、あるいは母后が抱いて政務にのぞんだと古典に見えている。

後漢の孝殤(こうしょう)帝は、生まれて百日という日に、践祚した。天子が位をふむ先例は、和漢ともにこのようであるのだ」

と申されたので、その時の有職故実に詳しい人々は、

「ああ恐ろしい。物を申されるな。いったいそれは、よい先例であるのか」

とつぶやきあわれた。

東宮が位におつきになれば、入道相国夫婦ともに、外祖父、外祖母として、准三后の宣旨を受け、年間年爵を給わり、当番として出仕する者を召しつかう。絵を描き花を刺繍した侍たちが出入りして、まったく院や宮の御所のようであった。

出家入道の後も、栄華は尽きないと見えた。出家した人が准三后の宣旨を受けることは、法興院の大入道殿兼家公の御例によるものである。

語句

■治承四年 1180年。 ■おそれさせましましければ 鳥羽殿に人が参ることについて入道相国清盛のとがめがあることを恐れた。 ■元三 三が日。 ■桜町の中納言成範卿 「吾身栄花」に詳しい。 ■左京大夫脩範 左京大夫は左京職の長官。 ■東宮 言仁親王。後の安徳天皇。 ■御袴着 生後はじめて袴をはく儀式。 ■御まなはじめ 生後はじめて魚肉を食す儀式。 ■つつが 病気。 ■践祚 天皇の位を継ぐこと。 ■時よくなりぬ 清盛の孫である言仁親王が践祚することで、平家にとって都合のよい世の中になるので、平家の人々は喜んだの意。 ■内侍所 三種の神器の一つ、神鏡(八咫鏡)をおさめる御殿。転じて神鏡そのもの。 ■上達部 かんだちめ。摂政・関白・太政大臣・左右大臣・内大臣・大中納言・参議および、その他の三位(さんみ)以上の者。ただし、参議は四位でもここに含む。 ■陣 陣の座。宮中の宣陽殿にあり、公卿らが話し合うところ。 ■弁内侍 筑前守高階泰兼女。 ■泰通 参議藤原為通の子、藤原泰通。大納言藤原成通の養子。 ■備中の内侍 備中守源季長女。 ■しるしの御箱 神璽(八尺瓊勾玉)をおさめる箱。 ■隆房の少将 藤原(冷泉)隆房。実際はこの時中将。 ■こよひばかりや手をもかけん 内侍所やしるしの御箱に手をかけるのは今宵限りのことで次は滅多にないだろうの意。 ■思ひあへりけむ 互いに思っていた。 ■少納言の内侍 少納言平信国女。 ■つたはれる御物 代々朝廷に伝わっている宝物。 ■五条内裏 安徳帝の里内裏。五条殿。五条大納言藤原邦綱の家。五条の南。東洞院の西。 ■閑院殿 高倉帝の里内裏。もと閑院左大臣藤原冬嗣の家。二条の南、西洞院の西。現西福寺東南角に碑。 ■火の影もかすかに… 「火のかげもかすかに…鶏人の声もとどまり」(高倉院厳島御幸記)。 ■鶏人 宮中で夜時刻を告げる役人。 ■滝口 宮中警備の役人。詰め所が清涼殿の東南、御溝水(みかわみず)の落ちる滝口にあったため。 ■文爵 もんじやく。正しくは問籍。宿直の滝口が姓名を名乗り、蔵人が取り次ぐこと。 ■ふるき人々 古老の人々。 ■左大臣 藤原経宗。 ■儲の君 東宮。 ■麻姑射の山 はこやのやま。上皇の御所。仙洞御所。 ■さきざきだにも 将来のことさえも。 ■いつしかなる 早すぎる。 ■帥のすけ 帥の典侍。「公卿揃」に詳しい。 ■かたむけ申す 非難する。 ■周成王三歳 実際には十三歳。 ■襁褓 きやうほう。幼児を包む衣。おむつ。 ■衣帯 衣を着て帯を結ぶこと。正装すること。 ■摂政おうて 摂政がおぶって。周公が成王の摂政として政務にあたったことをさす。 ■母后いだいて 母の皇太后が穆帝を抱いて政務にあたったことをさす。 ■孝殤皇帝 『後漢書』に生後百日で即位したとある。 ■有職 宮中の儀礼作法に通じた人。有職故実に通じた人。 ■されば いったい。そもそも。 ■准三后 皇后・皇太后・太皇太后につぐ者。治承四年(1180)六月十一日、准三后の宣旨を受けた。 ■年官年爵 年官は毎年国司などの任官者を推薦する権利。年爵は毎年従五位下の叙爵、もしくは従五位下以上よりの昇進(加階)を推薦する権利。いずれも推薦した者の収入の一部を還元される。 ■上日の者 当番として出仕する者。 ■花 練絹の糸で編んだ花。刺繍の花。 ■院宮 院(上皇)や宮(皇族)の御所。 ■法興院 藤原兼家。道長の父。晩年、京都に法興院という寺を造営した。 

原文

同(おなじき)三月上旬に、上皇安芸国厳島(しやうくわうあきのくにいつくしま)へ御幸(ごかう)なるべしときこえけり。帝王位をすべらせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡(やはた)、賀茂(かも)、春日(かすが)なンどへこそならせ給ふに、安芸国までの御幸は、いかにと人不審(ふしん)をなす。或人(あるひと)の申しけるは、「白河院(しらかはのゐん)は熊野へ御幸、後白河は日吉社(ひよしのやしろ)へ御幸なる。既に知んぬ、叡慮(えいりよ)にありといふ事を。御心中にふかき御立願(ごりふぐわん)あり。其上此(そのうへこの)厳島をば、平家なのめならずあがめうやまひ給ふあひだ、うへには平家に御同心、したには法皇のいつとなう鳥羽殿におしこめられわたらせ給ふ、入道相国の謀反(むほん)の心をもやはらげ給へとの、御祈念(ごきねん)のため」とぞきこえし。山門大衆(さんもんのだいしゆ)いきどほり申す。「石清水(いはしみず)、賀茂、春日へならずは、我山(わがやま)の山王へこそ御幸はなるべけれ。安芸国への御幸は、いつのならひぞや。其義(そのぎ)ならば、神輿(しんよ)をふりくだし奉りて、御幸をとどめ奉れ」と僉議(せんぎ)しければ、これによツてしばらく御延引(ごゑんいん)ありけり。太政入道やうやうになだめ給へば、山門の大衆しづまりぬ。

同(おなじき)十七日、厳島御幸の御門出(おんかどいで)とて、入道相国の西八条(にしはちでう)の亭(てい)へいらせ給ふ。其日の暮方(くれがた)に、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりきやう)を召して、「明日(みやうにち)御幸の次(つひで)に、鳥羽殿へ参って、法皇の見参(げんざん)に入(い)らばやとおぼしめすはいかに。相国禅門(しやうこくぜんもん)に知らせずしてはあしかりなんや」と仰せければ、宗盛卿(むねもりのきやう)涙をはらはらとながいて、「何条事(なんでうこと)か候(さうらふ)べき」と申されければ、「さらば宗盛其様(そのやう)をやがて今夜(こよひ)鳥羽殿へ申せかし」とぞ仰せける。前右大将宗盛卿、いそぎ鳥羽殿へ参ツて、此よし奏聞(そうもん)せられければ、法皇はあまりにおぼしめす御事にて、「夢やらん」とぞ仰せける。

同(おなじき)十九日、大宮大納言隆季卿(おほみやのだいなごんたかすゑのきやう)、いまだ夜ふかう参ツて、御幸もよほされけり。此日ごろきこえさせ給ひつる厳島(いつくしま)の御幸、西八条よりすでにとげさせおはします。やよひもなかば過ぎぬれど、霞(かすみ)にくもる在明(ありあけ)の月はなほおぼろなり。こし地(じ)をさしてかへる雁(かり)の、雲井におとづれゆくも、折ふしあはれにきこしめす。いまだ夜のうちに、鳥羽殿へ御幸なる。

門前にて御車よりおりさせ給ひ、門のうちへさしいらせ給ふに、人まれにして木(こ)ぐらく、物さびしげなる御住(おんすま)ひ、まづあはれにぞおぼしめす。春すでに暮れなんとす。夏木立(なつこだち)にもなりにけり。梢(こづゑ)の花(はな)色おとろへて、宮の鶯(うぐひす)声老いたり。去年(きよねん)の正月六日(むゆかのひ)、朝覲(てうきん)のために、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸ありしには、楽屋(がくや)に乱声(らんじやう)を奏し、諸卿列(れつ)に立ツて、諸衛陣(しよゑぢん)をひき、院司(ゐんじ)の公卿(くぎやう)参りむかツて、幔門(まんもん)をひらき、掃部寮(かもんれう)、縁道(えんだう)をしき、ただしかりし儀式、一事(いちじ)もなし。今日(けふ)はただ夢とのみぞおぼしめす。成範(しげのり)の中納言、御気色(おんきしよく)申されたりければ、法皇寝殿(しんでん)の橋がくしの間(ま)へ御幸なツて、待ち参らツさせ給ひけり。上皇は今年(こんねん)、御年廿(おんとしはたち)、あけがたの月の光にはえさせ給ひて、玉体(ぎよくたい)もいとどうつくしうぞみえさせおはします。御母儀建春門院(ごぼぎけんしゆんもんゐん)にいたく似(に)参らツさせ給ひたりければ、法皇まづ故女院(こにようゐん)の御事(おんこと)おぼしめしいでて、御涙せきあへさせ給はず。両院の御座(ござ)ちかくしつらはれたり。御問答(ごもんだふ)は人承るに及ばず。御前(ごぜん)には尼(あま)ぜばかりぞ候はれける。

やや久しう御物語せさせ給ふ。はるかに日たけて、御暇(おんいとま)申させ給ひ、鳥羽の草津(くさづ)より、御舟(おんふね)に召されけり。上皇は法皇の離宮、故亭幽閑寂寞(こていいうかんせきばく)の御住(おんすま)ひ、御心苦(おんこころぐる)しく御覧じおかせ給へば、法皇は又上皇の旅泊(りよはく)の行宮(かうきゆう)の浪(なみ)の上、舟の中(うち)の御有様、おぼつかなくてぞおぼしめす。まことに宗廟(そうべう)、八幡(やはた)、賀茂なンどをさしおいて、はるばると安芸国(あきのくに)までの御幸をば、神明(しんめい)もなどか御納受(なふじゆ)なかるべき。御願成就(ごぐわんじやうじゆ)うたがひなしとぞみえたりける。

現代語訳

同年三月上旬に、(高倉)上皇は安芸国厳島へ御幸なるだろうと噂された。帝王が位をお下りになり、あちこちの神社へ御幸されるはじめには、八幡、賀茂、春日などへ御幸されるのが普通だが、安芸国までの御幸はどうしたことかと人は不審に思った。

ある人の申したのは、

「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉社へ御幸された。たしかにわかった。天皇のお考えがあるということを。御心中に深い御立願があるのだ。その上この厳島を、平家は並々ならず信仰なさっているので、上には平家に御同心、下には法皇がいつまでという期限もわからず鳥羽殿におしこめられていらっしゃる、入道相国の謀反の心をもお和らげくださいとのご祈念のため」と噂された。

山門の大衆はいきどおり申す。

「石清水、賀茂、春日へならずは、わが山の山王権現へこそ御幸されるべきである。安芸国への御幸は、いつの先例であるか。そういう事であれば、神輿をふりくだし申し上げて、御幸を止め申し上げよ」と話し合ったので、これによってしばらくご延期なされた。

太政入道がいろいろとなだめなさったので、山門の大衆は鎮まった。

同月(三月)十七日、厳島御幸の御門出ということで、入道相国の西八条の屋敷にお入りになる。その日の暮れ方に、前右大将宗盛を召して、

「明日御幸のついでに、鳥羽殿に参って、法皇にお目にかかろうと思うがどうだろう。相国禅門に知らせずにそんなことをしてはまずいだろうか」

と仰せになると、宗盛卿は涙をはらはらと流して、

「どうしてまずいことなどございましょう」

と申されたので、

「であれば宗盛そのことをすぐに鳥羽殿へ申してくれ」

と仰せになった。

前右大将宗盛卿は、いそぎ鳥羽殿へ参って、このことを奏上なさったところ、法皇はあまりに(高倉天皇にお会いしたいと)思われていたことであるので、「夢であろうか」と仰せになった。

同月(三月)十九日、大宮大納言隆季卿が、いまだ夜が深いうちに参って、御幸を催促なされた。

この日頃お耳に入れ申し上げなさっていた厳島の御幸を、西八条よりいよいよご実行なさる。弥生も半ば過ぎたが、霞にくもる有明の月はやはりまだおぼろである。

越路をさして帰る雁の、雲の方に鳴いて飛んでいくのも、時にかなって哀れにお聞きになる。いまだ夜のうちに、鳥羽殿へ御幸なさる。

門前にて御車より降りられ、門の内にお入りになると、人は少なく木の影暗く、物さびしげな御住まいを、まず哀れに思われる。春もすでに暮れようとしており夏木立のありさまにもなった。

梢の花の色が衰えて、宮廷の鶯は声が老いた。去年の正月六日、天皇が朝勤のために法住寺殿へ行幸された時は、楽屋で楽人たちが音楽をいっせいに奏で、公卿らが列をなして、六衛府の役人たちが整列して、院に仕える公卿らが参り向かって、幕をはった門をひらき、掃部寮の役人が道に筵をしいて、あらゆる儀式が正しく行われたのだが、今年はそのような儀式は一つも行われない。

今日はただ夢とばかりお思いになる。

成範(しげのり)の中納言が、高倉上皇が来られたらしいことを後白河法皇に申し上げると、法皇は寝殿の階(はし)がくしの間に御幸されて、お待ちになられた。

高倉上皇は今年、御年二十歳、あけがたの月の光にお映えになり、玉体もたいそう美しくお見えでいらっしゃる。

御母、建春門院にたいそう似ておられるので、法皇はまず故女院の御事を思い出されて、御涙をおさえることがおできにならない。

高倉・後白河両院の御座は近くしつらわれた。お二人のやり取りは、人はうかがうことができない。御前には尼御前だけがひかえていた。

ややしばらく御物語なされた。はるかに日が長くなってから、御暇申し上げなさり、鳥羽の草津(くさづ)から、御舟にお乗りになった。

高倉上皇は後白河法皇の離宮、古びた御殿の、しずかで寂しげなお住まいを御心苦しくご覧になっておられると、後白河法皇はまた高倉上皇が旅先でお泊りになる、波の上、舟の内の行宮の御有様を、気がかりに思われる。

まったく、伊勢太神宮、八幡、賀茂などをさしおいて、はるばると安芸国までの御幸を、神々もどうしてお聞き入れになられないだろう。

御願が成就することは疑いなく思われた。

語句

■既に知んぬ はっきりわかった。まさしく知った。 ■いつとなう いつまでという期限もしれず。 ■何条事か候べき どうしていけないことがございましょう=よいです。 ■大宮大納言隆季卿 藤原家成の子、藤原隆季。高倉上皇の執事。家が大宮の西、四条の北にあったため、大宮大納言、四条大納言と号した。 ■すでに いよいよ。 ■正月六日 『玉葉』では治承三年正月二日。 ■朝勤 天皇が年のはじめや即位・即位・元服のとき、上皇の御所に行幸すること。 ■楽屋 楽人が舞楽を奏するためにもうけられた殿舎。 ■乱声 らんじやう。笛や太鼓など楽器をさかんに鳴らすこと。 ■諸衛陣をひき 六衛府の役人たちが隊列を整えて。 ■院司 いんじ。院に出仕すること。 ■幔門 幔柱を立てて、幔幕を張った門。 ■掃部寮 宮中の清掃・整備にあたる役所。 ■縁道 筵道。裾などが汚れないように通路に沿って筵をしくもの。 ■ただしかりし儀式、一事もなし 去年はそういう正しい儀式が行われたのだが、それに引き換え今年は、正しい儀式は一つも行われないの意。 ■橋がくしの間 階かくしの間。寝殿の正面中央の階の奥に当たる場所。 ■建春門院 後白河の后。高倉の母。平時信の女滋子。時忠の妹。嘉応元年(1169)院号をこうむり、安元ニ年(1176)三十五で没す。 ■両院 後白河院と高倉院。 ■尼ぜ 尼御前。 ■草津 下鳥羽付近。ここから舟が出入りした。現在の跡地は不明。 ■故亭 ふるびた御殿。 ■行宮 都の外の仮の御所。 ■宗廟 祖先を祀る廟。伊勢太神宮のこと。

……

高倉天皇にかわって安徳天皇が即位し、高倉上皇となったその方が、安芸国厳島に御幸される。その御幸のはじめに、父後白河法皇の幽閉されている鳥羽殿を訪れ、しみじみと父子対面する、というくだりでした。

朗読・解説:左大臣光永

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