平家物語 五十四 還御(くわんぎよ)

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平家物語巻第四より「還御(かんぎょ)」。

高倉上皇一行が厳島から京都にもどるまでの道中。さつばつとした話の多い平家物語の中にめずらしく、ほのぼのした平和な回です。

しかしその中にも、後々の展開につながる伏線が、巧妙にはられています。

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前回「厳島御幸(いつくしまごかう)」からのつづきです。
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あらすじ

治承四年(1180)二月二十六日、高倉上皇一行は厳島へ到着し、歓迎を受ける。

中心となって節会を行った三井寺の公兼僧正は、

雲井より おちくる滝の しらいとに ちぎりをむすぶ ことぞうれしき

(雲の間から(宮中から)白糸のように落ちてくる滝によって この滝の宮の神と関係を持てるのは嬉しいことだ)

世話役の僧らに位を授ける。ニ月二十九日還御しようとするが、風が激しいため、ありの浦に留まる。

隆房の少将、

たちかへる なごりもありの 浦なれば 神もめぐみを かくるしら浪

(都へ戻るのも名残惜しい有の浦なので、寄せ来る白波のように 神も私たちに恵みをかけてくださるだろう。「なごり~あり」と「ありの浦」という地名を、 「めぐみをかくる」と「かくるしらなみ」を懸ける)

夜半、風が静まり酒宴となる。

隆季の大納言、

千とせへん 君がよはひに 藤なみの 松のえだにも かかりぬるかな

(先年の齢を保たれる上皇さまの長寿にあやかり、藤の花が松の枝にかかっています)

また、厳島の内侍(巫女)の一人が国綱卿に想いを寄せていたとについて高倉上皇が話を振ると、ちょうどその内侍から文が届いた。

しらなみの 衣の袖をしぼりつつ きみゆゑにこそ たちもまはれね

(白波のような白い袖をしぼり、貴方を想って泣いてます。 貴方のために立って舞うこともできないのです。「たち」は「衣」の縁語の「裁ち」と 「立ち」を懸ける)

国綱卿の返事

おもひやれ 君がおもかげ たつなみの よせくるたびに ぬるるたもとを

(どうか思ってほしい。白波が寄せ来るたびに君の面影を思い出して 涙に袖をぬらす私のことを)

その後、福原を経由して都へ戻る。

同四月二十二日は新帝(安徳天皇)の即位式が行われる。が、儀式を行うべき大極殿は去年炎上していた。

そういう場合太政官の庁で行うきまりだが、時の右大臣藤原兼実(九条殿)の 提言で、紫振殿で行うこととなった。

平家一門の人々が即位式に参列する中、小松殿(重盛)の公達は 去年重盛が亡くなったので欠席し喪に服していた。

原文

同(おなじき)廿六日、厳島(いつくしま)へ御参着(ごさんちやく)、入道相国の最愛(さいあい)の内侍(ないし)が宿所(しゆくしよ)、御所になる。なか二日御逗留(ににちおんとうりゆう)あツて、経会(きやうゑ)、舞楽(ぶがく)おこなはれけり。導師には、三井寺の公顕僧正(こうけんそうじやう)とぞきこえし。高座にのぼり鐘うちならし、表白(へうひやく)の詞(ことば)にいはく、「九重(ここのへ)の都をいでて、八重(やへ)の塩路(しほぢ)をわきもツて参らせ給ふ、御心(おんこころ)ざしのかたじけなさ」と、たからかに申されたりければ、君も臣も感涙(かんるい)をもよほされけり。大宮、客人(まらうど)をはじめ参らせて、社々所々(やしろやしろところどころ)へみな御幸なる。大宮より五町ばかり山をまはツて、滝の宮へ参らせ給ふ。公顕僧正、一首の歌ようで、拝殿の柱に書きつけられたり。

雲井(くもゐ)よりおちくる滝のしらいとにちぎりをむすぶことぞうれしき

神主佐伯(かんぬしさいき)の景広(かげひろ)、加階従上(かかいじゆじやう)の五位、国司藤原有綱(ふぢはらのありつな)、しなあげられて加階従下(じゆげ)の四品(ほん)、院の殿上(てんじやう)ゆるさる。座主尊永(ざすそんえい)、法印になさる。神慮もうごき、太政入道(だいじやうにふだう)の心もはたらきぬらんとぞみえし。

同(おなじき)廿九日、上皇御舟(おんふね)かざツて、還御(くわんぎよ)なる。風はげしかりければ、御舟こぎもどし、厳島のうち、ありの浦にとどまらせ給ふ。上皇、「大明神の御名残惜(おんなごりを)しみに、歌(うた)仕れ」と仰せければ、隆房(たかふさ)の少将、

たちかへるなごりもありの浦なれば神もめぐみをかくる白浪(しらなみ)

夜半(やはん)ばかりより浪もしづかに、風もしづまりければ、御舟こぎいだし、其日(そのひ)は備後国(びんごのくに)、しき名の泊(とまり)につかせ給ふ。此所(このところ)は去(さんぬ)る応保の(おうほう)のころほひ、一院御幸の時、国司藤原の為成(ためなり)がつくツたる御所のありけるを、入道相国まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせ給はず。「今日(けふ)は卯月一日(うづきついたち)、衣(ころも)がへといふ事のあるぞかし」とて、おのおの都の方(かた)を思ひやり、あそび給ふに、岸にいろふかき藤の松に咲きかかりたるけるを、上皇叡覧(えいらん)あツて、隆季(たかすゑ)の大納言を召して、「あの花折につかはせ」と仰せければ、左史生中原康定(さししやうなかはらのやすさだ)がはし舟(ふね)に乗ツて、御前(ごぜん)をこぎとほりけるを召して、折りにつかはす。藤の花を手折(たを)り、松の枝につけながら、もツて参りたり。「心ばせあり」なンど仰せられて、御感(ぎよかん)ありけり。

現代語訳

同月(治承三年三月)二十六日、厳島にご到着。入道相国の寵愛する内侍の宿所が御所となる。なか二日ご逗留あって、写経を奉納する儀式、舞楽が行われた。

主催する僧は三井寺の公顕僧正ということだった。高座にのぼり鐘うちならし、神に申し上げる詞にいうことに、

「九重の都を出でて、八重の潮路を分けて参詣された、御こころざしのありがたいこと」

と、高らかに申されたので、君も臣も感激の涙をもよおされた。

厳島の本社、摂社の客人宮(まろうどのみや)、あちこちの社へ皆御幸される。大宮から五町ほど山をまわって、滝の宮へお参りになる。

公顕僧正が一首の歌を詠んで、拝殿の柱に書きつけられた。

雲居より…
(宮中から厳島まで下り来たように、雲のあたりから落ちてきた白糸の滝に契を結ぶことのうれしさよ)

神主佐伯の景広(かげひろ)は、昇進させられて従五位上となり、国司藤原有綱は、位を上げられ昇進させられて従四位下となり、高倉院の院の御所の殿上に昇殿することをゆるされる。

厳島の別当尊永は、法印になされた。神のお心も動き、太政入道の心も動くであろうと思われた。

同月(三月)二十九日、上皇は御舟をかざりたてて、還御なさる。風が激しかったので、御舟をこぎもどし、厳島のうち、有の浦におとどまりになる。

上皇、「大明神の御名残を惜しんで、歌をつくれ」

と仰せになると、隆房の少将が、

たちかへる…

(都に帰ることには名残がある…その名も有の浦ですので、神もおめぐみをかけて白波を立ててくださったのでしょうな)

夜中ごろから波も静かに、風もしずまったので、御舟を漕ぎ出し、その日は備後国、敷名の泊にお着きになる。

この所はさる応保のころ、後白河法皇が御幸された時、国司藤原為成が作った御所があったのを、入道相国が御休憩所に整備されていたが、上皇はそこにはお上がりになられなかった。

「今日は卯月一日、衣替えという事があるぞ」

といって、おのおの都の方を思いやり、音楽を奏したりしてお遊びになっていると、岸に色の深い富士が松に咲きかかっているのを、上皇がご覧になり、隆季の大納言を召して、

「あの花を折りに人をつかはせ」

と仰せになったので、左史生(さししょう)中原康定(なかはらのやすさだ)が小舟に乗って、御前をこぎとおったのを召して、折りに遣わす。

藤の花を手折り、松の枝につけたまま、もって参った。

「気が利いている」

などと仰せられて、(上皇は)感心された。

語句

■経会 写経して神前に供えること。高倉院は「法華経一部、寿量品、寿命経」を自ら書かれた(高倉院厳島御幸記)。 ■公顕僧正 寿永元年(1182)園城寺長吏、文治六年(1190)天台座主。建久四年(1193)没。 ■表白 法会のはじめや終わりに、法会の趣旨を神に申し上げること。 ■大宮 厳島神社の本社。 ■客人 まらうど。厳島神社摂社、客人の宮。天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)以下五柱の神を祀る。 ■滝の宮 厳島神社摂社、滝宮神社。湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祀る。社の裏に白糸の滝がある。 ■佐伯の景広 正しくは景弘。厳島神社の神主。 ■加階 位階を昇進させること。 ■従上の五位 従五位上。 ■国司藤原有綱 安芸守。 ■従下の四品 従四位下。 ■院の殿上ゆるさる 高倉上皇の院の殿上に昇殿することをゆるされた。 ■座主尊永 厳島神社の別当職。弥山山麓の大聖院の住職。 ■法印 法印は僧位の第一位。二位は法眼。 ■はたらきぬらん 動いただろう。 ■ありの浦 宮島市有浦。船着き場。 ■隆房の少将 正しくは中将。 ■しき名の泊 敷名の泊。広島県沼隈郡沼隈町。口無泊(くちなしのとまり)とも。 ■一院 後白河法皇。応保(1161-63)は正しくは承安(1171-5)。『百錬抄』に承安四年三月十六日、後白河法皇が建春門院と安芸厳島へ御幸のことがある。 ■まうけ 休憩所。 ■左史生 史生は文書の起草・書写などを行う役人。左右各十人。 ■はし舟 はしけ舟。小舟。 ■つけながら つけたままで。 ■心ばせあり 気が利いている。

原文

「此花にて歌あるべし」と仰せければ、隆季の大納言、

千(ち)とせへん君がよはひに藤なみの松のえだにもかかりぬるかな

其後御前(そののちごぜん)に人々あまた候はせ給ひて、御たはぶれごとのありしに、上皇、「白ききぬ着たる内侍が、邦綱郷(くにつなのきやう)に心をかけたるな」とてわらはせおはしましければ、大納言大きにあらがひ申さるるところに、ふみもツたる便女(びんじよ)が参ツて、「五条大納言殿へ」とてさしあげたり。「さればこそ」とて、満座興ある事に申しあはれけり。大納言これをとツてみ給へば、

しらなみの衣の袖(そで)をしぼりつつきみゆゑにこそたちも舞はれね

上皇、「やさしうこそおぼしめせ。この返事はあるべきぞ」とて、やがて御硯(おんすずり)をくださせ給ふ。大納言返事には、

思ひやれ君がおもかげたつなみのよせくるたびにぬるるたもとを

それより備前国小島(こじま)の泊(とまり)につかせ給ふ。
五日(いつかのひ)、天(てん)晴れ風しづかに、海上(かいしやう)ものどかなりければ、御所の御舟をはじめ参らせて、人々の舟どもみないだしつつ、雲の浪煙(けぶり)の浪をわけ過ぎさせ給ひて、其日(そのひ)の酉剋(とりのこく)に、播磨国山田(はりまのくにやまだ)の浦につかせ給ふ。それより御輿(おんこし)に召して、福原へいらせおはします。

六日(むゆかのひ)は供奉(ぐぶ)の人々、いま一日も都へとくといそがれけれども、新院御逗留(おんとうりう)あツて、福原のところどころ歴覧(れきらん)ありけり。池(いけ)の中納言頼盛卿(ちゆうなごんよりもりのきやう)の山庄(さんざう)あら田まで御覧ぜらる。七日(なぬかのひ)、福原を出でさせ給ふに、隆季(たかすゑ)の大納言、勅定(ちよくぢやう)を承ツて、入道相国の家の賞おこなはる。入道の養子(やうじ)、丹波守清邦(たんばのかみきよくに)、正下(じやうげ)の五位、同(おなじう)入道の孫。越前少将資盛(ゑちぜんのせうしやうすけもり)、四位の従上(じゆじやう)とぞきこえし。其日てら井につかせ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御(おん)むかへの公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、鳥羽(とば)の草津(くさづ)へぞ参られける。還御(くわんぎよ)の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相国の西八条(にしはちでう)の亭(てい)へいらせ給ふ。

現代語訳

「この花について歌を詠むように」

と仰せになると、隆季の大納言、

千とせへん…

(千年も長生きされる上皇様の齢にあやかろうと、藤浪も長寿のしるしたる松の枝にかかったのですなあ)

その後、御前に人々多く集まりなさって、御たわむれごとがあった時に、上皇、「白い絹を着た内侍が、邦綱卿に心をかけているな」といってお笑いになられたので、大納言は大いに抗弁申し上げなさっているところに、文をもった召使いの女が参って、

「五条大納言殿へ」

といってさしあげた。

「それみたことか」

といって、満座興味深いことに言い合われた。

大納言がこれをとってご覧になると、

しらなみの…

(白い衣の袖を涙で濡らして、私はあなたのために立って舞うことができません)

上皇、「優雅に思う。この返事はしなくてはならぬぞ」

といって、すぐに御硯をお下しになる。大納言の返事には、

思ひやれ…

(思いやってください。あなたの面影が浮かびます。寄せくる波が立つたびに、あなたが恋しくて私の衣のたもとは涙に濡れているのです)

それより備前児島の船着き場にお着きになる。

五日、空は晴れ風はしずかに、海の上ものどかであったので、上皇御所になっている御座舟をはじめ、人々の多くの舟を出して、雲や煙のような波を分けてお進みになり、その日の酉の刻(午後6時ころ)に、播磨国山田の浦におつきになる。

それより御輿にお乗りになり、福原へお入りになられる。

六日はお供の人々は、いま一日も都へはやくと急がれたけれど、新院(高倉上皇)はご逗留され、福原のあちこちをご覧になった。

池の中納言夜頼盛卿の山荘あら田まで御覧になる。七日、福原をご出発なさるに際し、隆季の大納言、勅書をお受けして、入道相国の家の恩賞が行われる。入道の養子、丹波守清邦は正五位下に、同じく入道の孫、越前少将資盛は従四位上ということだった。

その日てら井にご到着。八日都にお入りなると、御むかえの公卿殿上人が鳥羽の草津へ迎えに参られた。

還御の時は、鳥羽殿には御幸もなさらず、入道相国の西八条の邸宅へお入りになる。

語句

■千とせへん… 「ちとせへむ君がかざしのふぢなみは松のえだにもかかるなりけり 源通親」(高倉院厳島御幸記)。 ■邦綱卿 五条大納言藤原邦綱。巻六「祇園女御」に詳しい。 ■便女 召使いの女。 ■しらなみの… 「たつ」は白波(立つ)と衣(裁つ)の縁語。 ■備前国小島 岡山県児島郡にあった船着き場。 ■酉の刻 午後6時前後。 ■播磨国山田 山田の浦。神戸市垂水区内。須磨・明石の中間。 ■あら田 神戸市兵庫区荒田町の辺り。「あらたといふ頼盛の家にて、かさかけ、やぶさめなどつかうまつらせて御覧ぜさす」(高倉院厳島御幸記)。 ■丹波守清邦 五条大納言邦綱の子。清盛の養子。平清邦。 ■正下の五位 正五位下。 ■越前少将資盛 平重盛の次男。惟盛の弟。 ■四位の従上 従四位上。 ■てら井 詳細不明。「寺江」とする諸本も。

原文

同(おなじき)四月廿二日、新帝の御即位あり。大極殿(だいこくでん)にてあるべかりしかども、一年炎上(ひととせえんしやう)の後(のち)は、いまだつくりもいだされず。太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)にておこなはるべしとさだめられたりけるを、其時(そのとき)の九条殿(くでうどの)申され給ひけるは、「太政官の庁は、凡人(ぼんにん)の家にとらば、公文所(くもんじよ)ていの所なり。大極殿なからん上は、紫宸殿(ししんでん)にてこそ御即位(ごそくゐ)はあるべけれ」と申させ給ひければ、紫宸殿にてぞ御即位はありける。「去(い)んじ康保四年(かうほうしねん)十一月一日、冷泉院(れいぜいのゐん)の御即位、紫宸殿にてありしは、主上御邪気(しゆしやうごじやけ)によツて、大極殿へ行幸(ぎやくこう)かなはざりし故(ゆゑ)なり。其例いかがあるべからん。ただ後三条(ごさんでう)の院の延久佳例(えんきうかれい)にまかせ、太政官の庁にておこなはるべき物を」と、人々申しあはれけれども、九条殿の御(おん)ぱからひのうへは、左右(さう)に及ばず。中宮、弘徽殿(こうきでん)より仁寿殿(じじゆうでん)へうつらせ給ひて、たかみくらへ参らせ給ひける、御有様めでたかりけり。平家の人々、みな出仕(しゆつし)せられけるなかに、小松殿の公達(きんだち)は、こぞおとどうせ給ひしあひだ、いろにて籠居(ろうきよ)せられたり。

現代語訳

同年(治承四年)四月二十ニ日、新帝(安徳天皇)がご即位された。大極殿で即位式が行われるべきであったが、先年炎上して後は、いまだ再建もはじまっていない。

太政官の正庁で行われるべしと決まっていたのを、その時、九条兼実公がおっしゃることに、

「太政官の正庁は、一般の公家でいえば、公文所ていどの所である。大極殿がだめなら、紫宸殿にて御即位式を行うのがよい」

と申し上げなさったので、紫宸殿にてご即位式が行われた。

「去る康保四年十一月一日、冷泉院の御即位が紫宸殿であったのは、天皇がご病気であるので、大極殿へ行幸がかなわなかったからである。その例に従うのはどんなものだろうか。ただ後三条院の延久の例に従って、太政官の正庁で行われるべきものなのに」

と、人々は申しあったけれど、九条殿の取り計らいであるから、どうにもならない。

中宮(建礼門院)は弘徽殿から仁寿殿へおうつりになり、高御座にお座りになる。御有様のすばらしいことであった。

平家の人々はみな出仕した中に、小松殿(重盛)の公達は、去年大臣がお亡くなりになったので、喪に服して、籠もっておられた。

語句

■大極殿 大礼が行われる場所。八省院の北。治承元年(1177)4月28日焼失。 ■太政官の庁 太政官の正庁。八省院の東。民部省の北。 ■九条殿 右大臣九条兼実。藤原忠通の子。『玉葉』の作者。法然のファン。 ■凡人 摂政関白でない一般の公家。 ■公文所 公文書ていどの所。公文書は荘園・所領についての文書を扱う役所。 ■紫宸殿 内裏の正殿。即位式・朝賀など公式な儀式が行われる。 ■康保四年十一月一日 正しくは十月一日。『日本紀略』に冷泉院の即位のことが記されている。 ■延久佳例 正しくは治暦。『扶桑略記』治暦四年(1068)七月二十一日条に後三条天皇が太政官で即位したことが記されている。治暦五年四月十三日、延久に改元。 ■中宮 建礼門院徳子。 ■弘徽殿 こうきでん。内裏後宮の殿舎。清涼殿の北。皇后・中宮・女御などのおはする場所。 ■仁寿殿 内裏中央の殿舎。中殿とも。紫宸殿の北。清涼殿の東。清涼殿が御座所となるまで常の御座所だった。清涼殿ができてからは遊宴などに使われるようになった。 ■高御座 たかみくら。天皇の玉座。 ■いろにて 喪に服していて。

…前半は高倉上皇一行が厳島から京都にもどる道中記。後半は安徳天皇の即位式のようすでした。人が死んだり、流されたり、さつばつとした話の多い平家物語の中にあって、めずらしく平和な、おだやかな話ですね。

朗読・解説:左大臣光永

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