平家物語 五十五 源氏揃(げんじぞろへ)

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平家物語巻第四より「源氏揃(げんじぞろえ)」。

源三位入道頼政が、高倉宮(たかくらのみや)=以仁王(もちひとおう)に謀反をすすめる。

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前回「還御(かんぎよ)」からのつづきです。
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あらすじ

安徳天皇の即位式は無事終わったが、世の中は鎮まらかなった。

後白河法皇の第二子、以仁の王(もちひとの おおきみ)という方がいた。三条高倉に御所があったので、高倉宮とも呼ばれる。

才覚すぐれた方で、天皇の位につくだろうといわれていたが、故建春門院 (高倉天皇の母)の嫉みにあい、不遇なまま今年は三十歳を迎えていた。

ある夜、源三位入道頼政がこの高倉宮の御所に来て、平家を討つことを勧める。

「もし あなたが令旨を発すれば、各地の源氏が馳せ散じるでしょう」と、全国の源氏の名を挙げて、謀叛をすすめた。

高倉宮はそう言われても躊躇していたが、ある時相少納言と呼ばれる人相見の名人に 「位につく相があります」と言われ、決意を固めた。源十郎蔵人行家を令旨の使いとして 各地に遣わす。

伊豆の頼朝、信濃の木曽義仲らに令旨が届けられる中、熊野別当湛増(くまののべっとう たんぞう) は、平家に堅く忠誠を誓っていたので源氏に加担する那智・新宮の勢力に合戦を挑む。

三日合戦し、さんざんに破られ、湛増は本宮へ退却する。

高倉宮御所の碑
高倉宮御所の碑

原文

蔵人衛門権佐定長(くらんどのゑもんのごんのすけさだなが)、今度の御即位に、違乱(ゐらん)なくめでたき様(やう)を、厚紙(こうし)十枚ばかりにこまごまと記(しる)いて、入道相国の北の方、八条(はちでう)の二位殿へ参らせたりければ、ゑみをふくんでぞよろこばれける。かやうにはなやかにめでたき事どもありしかども、世間(せけん)は猶(なほ)しづかならず。
其比(そのころ)一院第二の皇子(わうじ)、以仁(もちひと)の王(おほきみ)と申ししは、御母加賀大納言季成卿(かがのだいなごんすえなりのきやう)の御娘(むすめ)なり。三条高倉(たかくら)にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去(い)んじ永万(えいまん)元年十二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原(このゑかはら)の大宮の御所にて、御元服(おんげんぷく)ありけり。

御手跡(ごしゆせき)うつくしうあそばし、御才学(おんさいがく)すぐれてましましければ、位(くらゐ)にもつかせ給ふべきに、故建春門院(こけんしゆんもんゐん)の御そねみにて、おしこめられさせ給ひつつ、花のもとの春の遊(あそび)には、紫毫(しがう)をふるツて手づから御作(ごさく)を書き、月の前の秋の宴(えん)には、玉笛(ぎよくてき)を吹いて身づから雅音(がいん)をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御年卅にぞならせましましける。

其比近衛河原(そのころこんゑかはら)に候ひける源三位入道頼政(げんざんみにふだうよりまさ)、或夜(あるよ)ひそかに此(この)宮の御所に参ツて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照太神(てんせうだいじん)四十八世(せ)の御末(おんすゑ)、神武天皇(じんむてんわう)より七十八代にあたらせ給ふ。太子(たいし)にもたち、位にもつかせ給ふべきに、卅まで宮にてわたらせ給ふ御事(おんこと)をば、心うしとはおぼしめさずや。当世(たうせい)のていをみ候(さうらふ)に、うへにはしたがひたる様(やう)なれども、内々(ないない)は平家をそねまぬ者や候。御謀反(ごむほん)おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心(おんこころ)をも、やすめ参らせ、君も位につせか給ふべし。これ御孝行(ごかうかう)のいたりにてこそ候はんずれ。もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨(りようじ)を下させ給ふ物ならば、悦(よろこび)をなして参らむずる源氏どもこそおほう候へ」とて申しつづく。「まづ京都には、出羽前司光信(ではのせんじみつのぶ)が子共(こども)、伊賀守光基(いがのかみみつもと)、出羽判官光長(ではのほうぐわんみつなが)、出羽蔵人光重(ではのくらんどみつしげ)、出羽冠者光能(ではのくわんじやみつよし)、熊野には、故六条判官為義(ころくでうのほうぐわんためよし)が末子(ばつし)、十郎義盛(じふらうよしもり)とてかくれて候。摂津国(つのくに)には、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)こそ候へども、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)の謀反(むほん)の時、同心しながらかへり忠(ちゆう)したる不当人(ふたうじん)で候へば、申すに及ばず。

現代語訳

蔵人衛門権佐定長(さだなが)は、今度のご即位に、問題なくめでたくあった様子を、厚手の和紙十枚ぐらいにこまごまと記して、入道相国の北の方、八条のニ位殿へお送り申し上げると、(ニ位殿は)笑みをふくんで喜ばれた。

このように華やかにめでたい事が多くあったが、世間はなお静かでない。

その頃後白河院第二の皇子、以仁(もちひと)の王(おほきみ)と申した人は、御母加賀大納言季成(すえなり)卿の御娘である。三条高倉にいらしたので、高倉の宮と申した。

去る永万元年(1165年)十二月十六日、御年十五で忍んで近衛河原の大宮(近衛天皇后藤原多子)の御所で、御元服された。

ご手跡(文字)が美しくいらっしゃり、御才能すぐれていらしたので、位にもおつきになるのが当然なのに、故建春門院の御ねたみのために、押し込められなさって、花のもとの春の遊びには、筆をふるって手づから御作を書き、月の前の秋の宴には、笛をふいてみづすからみやびな音楽を奏でられた。

こうして昼夜暮らしなさっているうちに、治承四年には、御年三十におなりになった。

その頃近衛河原にお仕えしていた源三位入道頼政が、ある夜ひそかにこの宮(以仁王・高倉宮)の御所に参って申したことは恐ろしかった。


高倉宮 以仁王

「君は天照大神四十八世のご子孫であり、神武天皇より七十八代におあたりになります。皇太子にも立ち、位にもおつきになられるべきですのに、三十まで宮でいらっしゃる(親王宣下すら受けられない)ことを、残念とお思いになりませんか。

今の世の様子を見ますに、上には従っている様子ですが、内々は平家を憎まぬ者がありましょうか。

ご謀反をおこされて、平家をほろぼし、法皇のいつまでとも知れず鳥羽殿に押し込められていらっしゃる御心をもお安め申し上げ、君も位におつきになるべきです。

これぞ御孝行の極みでございます。

もしご決心なさって、令旨をお下しになられるなら、喜んで参ずるでしょう源氏どもが多くございます」

といって申し続ける。

「まず京都には、出羽前司光信(ではのせんじみつのぶ)の子ども、伊賀守光基(いがのかみみつもと)、出羽判官光長(ではのほうぐわんみつなが)、出羽蔵人光重(ではのくらんどみつしげ)、出羽冠者光能(ではのくわんじやみつよし)、熊野には、故六条判官為義(ころくでうのほうぐわんためよし)の末子(ばつし)、十郎義盛(じふらうよしもり)といっててかくれてございます。

摂津国(つのくに)には、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)がおりますが、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)の謀反の時、同心しながら裏切ったふどどき者でございますので、申すに及びません。

語句

■蔵人衛門権佐定長 平家の家人。藤原為隆の孫。元房の子。 ■違乱なく 違ったところ乱れたところがなく。問題なく。 ■厚紙 こうし。厚手の和紙。 ■一院 後白河院。 ■加賀大納言季成卿の御娘 藤原公実の娘。父が加賀守であったことがあるためこういう。後白河院に仕え高倉の三位と呼ばれた。 ■永万元年 1165年。 ■近衛河原の大宮の御所 近衛天皇皇后、藤原多子の御所。現鴨川東近衛通あたり。 ■建春門院 後白河后。高倉天皇母。 ■紫毫 しごう。筆の異名。 ■玉笛 笛の美称。 ■雅音 みやびな音楽。 ■源三位入道頼政 源仲政の子。治承ニ年(1178)従三位。同年出家。歌人。弓の名手。 ■四十八世 親1→子2→孫3と数えていって四十八世目。 ■七十八代 天皇として位を継いだ順。後白河は七十七代。 ■そねむ 憎む。 ■いつとなく いつまでともわからず。 ■令旨 皇太子、または三后の下す文書。または天皇以外の皇族が下す文書。 ■出羽前司光信 光信は源頼光四代源光国の子。 

原文

さりながら其弟(そのおとと)、多田二郎朝実(ただのじらうともざね)、手島(てしま)の冠者高頼(くわんじやたかより)、太田太郎頼基(おほだのたらうよりもと)、河内国(かうちのくに)には、武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにふだうよしもと)、子息石河判官代義兼(いしかはのほうぐわんだいよしかね)、大和国(やまとのくに)には、宇野七郎親治(うののしちらうちかはる)が子共、太郎有治(たらうありはる)、二郎清治(じらうきよはる)、三郎成治(さぶらうなりはる)、四朗義治(しらうよしはる)、近江国(あふみのくに)には、山本(やまもと)、柏木(かしはぎ)、錦古里(にしごり)、美濃(みの)、尾張(おはり)には、山田次郎重広(やまだのじらうしげひろ)、河辺太郎重直(かはのべのたらうしげなほ)、泉太郎重光(いづみのたらうしげみつ)、浦野四朗重遠(うらののしらうしげとほ)、安食次郎重頼(あじきのじらうしげより)、其子太郎重資(そのこのたらうしげすけ)、木太三郎重長(きだのさぶらうしげなが)、開田判官代重国(かいでんのほうぐわんだいしげくに)、矢島先生重高(やしまのせんじやうしげたか)、其子太郎重行(そのこのたらうしげゆき)、甲斐国(かひのくに)には、逸見冠者義清(へんみのくわんじやよしきよ)、其子太郎清光(そのこのたらうきよみつ)、武田太郎信義(たけだのたらうのぶよし)、加賀見二郎遠光(かがみのじらうとほみつ)、同小次郎長清(おなじくこじらうながきよ)、一条次郎忠頼(いちでうのじらうただより)、板垣三郎兼信(いたがきのさぶらうかねのぶ)、逸見兵衛有義(へんみのひやうゑありよし)、武田五郎信光(たけだのごらうのぶみつ)、安田三郎義定(やすだのさぶらうよしさだ)、信濃国(しなののくに)には、大内太郎惟義(おおうちのたらうこれよし)、岡田冠者親義(おかだのくわんじやちかよし)、平賀冠者盛義(ひらがのくわんじやもりよし)、其子四郎義信(そのこのしらうよしのぶ)、故帯刀先生義賢(こたてわきのせんじやうよしかた)が次男、木曽冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)、伊豆国(いづのくに)には、流人前右兵衛佐頼朝(るにんさきのうひょうゑのすけよりとも)、常陸国(ひたちのくに)には、信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)、佐竹冠者正義(さたけのくわんじやまさよし)、其子太郎忠義(そのこのたらうただよし)、同三郎義宗(おなじくさぶらうよしむね)、四郎高義(しらうたかよし)、五郎義季(ごらうよしすゑ)、陸奥国(むつのくに)には、故佐馬守義朝(さまのかみよしとも)が末子(ばつし)、九郎冠者義経(くろうくわんじやよしつね)、これみな六孫王(ろくそんわう)の苗裔(べうえい)、多田新発満仲(ただのしんぱつまんぢゆう)が後胤(こういん)なり。朝敵をもたひらげ、宿望(しゆくまう)をとげし事は、源平いづれ勝劣(しようれつ)なかりしかども、今は雲泥(うんでい)まじはりをへだてて、主従(しゆじゆう)の礼にもなほおとれり。国には国司にしたがひ、庄(しやう)には預所(あづかりしよ)につかはれ、公事雑事(くじざふじ)にかりたてられて、やすい思ひも候はず。いかばかり心うく候らん。君もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨(りゃうじ)をたうづるものならば、夜を日についで馳(は)せのぼり、平家をほろぼさん事、時日(じじつ)をめぐらすべからず。入道も年こそよツて候とも、子供引き具して参り候べし」とぞ申したる。

宮は此事(このこと)いかがあるべからんとて、しばしは御承引(しよういん)もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿(あこまるのだいなごんむねみちのきやう)の孫、備後前司季通(びんごのせんじすゑみち)が子、少納言伊長(せうなごんこれなが)と申し候、勝(すぐれ)たる相人(さうにん)なりければ、時の人相少納言(さうせうなごん)とぞ申しける。其人(そのひと)が此宮を見参(みまゐ)らせて、「位に即(つ)かせ給ふべき相(さう)まします。天下(てんか)の事思食(おぼしめ)しはなたせ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道(げんざんみにふだう)も、かやうに申されければ、「さてはしかるべし、天照大神(てんせうだいじん)の御告(おんつげ)やらん」とて、ひしひしとおぼしめしたたせ給ひけり。熊野に候十郎義盛(じふらうよしもり)を召して、蔵人(くらんど)になさる。行家(ゆきいへ)と改名(かいみやう)して、令旨の御使(おんつかひ)に東国へぞ下りける。

現代語訳

そうはいってもその弟、多田二郎朝実(ただのじらうともざね)、手島(てしま)の冠者高頼(くわんじやたかより)、太田太郎頼基(おほだのたらうよりもと)、河内国(かうちのくに)には、武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにふだうよしもと)、子息石河判官代義兼(いしかはのほうぐわんだいよしかね)、大和国(やまとのくに)には、宇野七郎親治(うののしちらうちかはる)が子ども、太郎有治(たらうありはる)、二郎清治(じらうきよはる)、三郎成治(さぶらうなりはる)、四朗義治(しらうよしはる)、近江国(あふみのくに)には、山本(やまもと)、柏木(かしはぎ)、錦古里(にしごり)、美濃(みの)、尾張(おはり)には、山田次郎重広(やまだのじらうしげひろ)、河辺太郎重直(かはのべのたらうしげなほ)、泉太郎重光(いづみのたらうしげみつ)、浦野四朗重遠(うらののしらうしげとほ)、安食次郎重頼(あじきのじらうしげより)、其子太郎重資(そのこのたらうしげすけ)、木太三郎重長(きだのさぶらうしげなが)、開田判官代重国(かいでんのほうぐわんだいしげくに)、矢島先生重高(やしまのせんじやうしげたか)、其子太郎重行(そのこのたらうしげゆき)、甲斐国(かひのくに)には、逸見冠者義清(へんみのくわんじやよしきよ)、其子太郎清光(そのこのたらうきよみつ)、武田太郎信義(たけだのたらうのぶよし)、加賀見二郎遠光(かがみのじらうとほみつ)、同じく小次郎長清(こじらうながきよ)、一条次郎忠頼(いちでうのじらうただより)、板垣三郎兼信(いたがきのさぶらうかねのぶ)、逸見兵衛有義(へんみのひやうゑありよし)、武田五郎信光(たけだのごらうのぶみつ)、安田三郎義定(やすだのさぶらうよしさだ)、信濃国(しなののくに)には、大内太郎惟義(おおうちのたらうこれよし)、岡田冠者親義(おかだのくわんじやちかよし)、平賀冠者盛義(ひらがのくわんじやもりよし)、其子四郎義信(そのこのしらうよしのぶ)、故帯刀先生義賢(こたてわきのせんじやうよしかた)の次男、木曽冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)、伊豆国(いづのくに)には、流人である前右兵衛佐頼朝(さきのうひょうゑのすけよりとも)、常陸国(ひたちのくに)には、信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)、佐竹冠者正義(さたけのくわんじやまさよし)、その子太郎忠義(たらうただよし)、同じく三郎義宗(さぶらうよしむね)、四郎高義(しらうたかよし)、五郎義季(ごらうよしすゑ)、陸奥国(むつのくに)には、故佐馬守義朝(さまのかみよしとも)の末子(ばつし)、九郎冠者義経(くろうくわんじやよしつね)、これみな六孫王(ろくそんわう)の子孫で、多田新発満仲(ただのしんぱつまんぢゆう)の子孫です。

朝敵を平定し、立身出世の望みをとげた事は、源平いずれも優劣はなかったのに、今は雲と泥のように差がついて交わることもできなくなり、主従の関係よりももっと源氏は劣っています。

国においては国司に従い、庄園においては預所に使われ、公の用事と雑用にかりたてられて、安心もできません。

どれほど残念に思ってございますでしょう。君がもし思い立ちなされて、令旨をお与えくださいますなら、夜を日についで馳せのぼり、入道(頼政)も年を取ってはございますが、子らを連れて参上いたしますでしょう」

と申した。

宮(高倉宮)はこの事どうしたものだろうと、しばらくはお引き受けにもならなかったが、阿古丸の大納言宗通(むねみち)卿の孫、備後前司季通(すゑみち)の子、少納言伊長と申す者は、すぐれた人相見であったので、時の人は相少納言と申した。

その人がこの宮(高倉宮)を拝見して、「位におつきになる相があられます。天下の事を諦めなさってはなりません」と申した上、源三位入道も、このように申されたので、

「であればその通りになるのだな。天照大神の御告げであろうか」

といって、着々と計画をお立てになった。熊野にある十郎義盛を召して蔵人になさり、行家と改名して、令旨の御使に東国へ下った。

語句

■山本 山本義経。山本は近江の地名。 ■柏木 山本義経の子。柏木義兼。柏木は甲賀郡柏木村(現 水口町)。 ■錦古里 柏木義兼の弟、錦織冠者義高。錦織は滋賀県大津市の地名。大津京跡地。 ■六孫王 源経基。経基王が臣籍降下して源氏を名乗った。 ■多田新発満仲 ただのしんぼつまんぢゆう 源満仲。経基の子。摂津多田の人。新発はあらたに志を立てた人。 ■宿望 立身出世の望み。 ■雲泥まじはりをへでてて 雲と泥のように差がついて交わることもできなくなって。 ■主従の礼にもなほおとれり 主従の関係よりもさらに源氏は劣っている。 ■預所 庄園の管理をする役所。 ■公事雑事 公の用事や雑用。 ■たうづる 「賜ひつる」の音便。 ■阿古丸大納言宗通卿 右大臣藤原俊家の子。白河院の寵愛を受けた。 ■思食しはたなたせ給ふ 「思い放つ」の尊敬語。思いを放つ=あきらめる。 ■しかるべし そうなるに違いない。 ■ひしひしと 着々と。 ■十郎義盛 源義朝や為朝の末弟。

原文

同(おなじき)四月廿八日、都をたツて近江国よりはじめて、美濃、尾張の源氏共に次第にふれゆくほどに、五月十日、伊豆の北条(ほうでう)にくだりつき、流人前兵衛佐殿(るにんさきのひやうゑのすけどの)に令旨(りやうじ)奉り、信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)は、兄なればとらせんとて、常陸国信太浮島(ひたちのくにしだのうきしま)へくだる。木曽冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)は、甥(おひ)なればたばんとて、東山道(とうせんだう)へぞおもむきける。
其比(そのころ)の熊野別当湛増(くまののべつたうたんぞう)は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてかもれきいたりけん、「新宮十郎義盛(しんぐうのじふらふよしもり)こそ、高倉宮の令旨給はツて、美濃、尾張の源氏ども、ふれもよほし、既に謀反をおこすなれ。那智新宮(なちしんぐう)の者共は、さだめて源氏の方人(かたうど)をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩(ごおん)を天山(あめやま)とかうむツたれば、いかでか背(そむ)き奉るべき。那智新宮の者共に、矢(や)一つ射かけて、平家へ子細(しさい)を申さん」とて、ひた甲(かぶと)一千人、新宮の湊(みなと)へ発向(はつかう)す。新宮には、鳥井(とりゐ)の法眼(ほふげん)、高房(たかばう)の法眼、侍(さぶらひ)には、宇井(うゐ)、鈴木(すずき)、水屋(みづや)、亀甲(かめのかふ)、那智には、執行法眼以下(しゆぎやうほふげんいげ)、都合(つがふ)其勢二千余人なり。時つくり矢合(やあはせ)して、源氏の方(かた)にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れとて、矢さけびの声の退転(たいてん)もなく、鏑(かぶら)の鳴りやむひまもなく、三日(みつか)がほどこそたたかうたれ。熊野別当湛増、家子郎等(いへのこらうだう)おほくうたせ、我身手おひ、からき命をいきつつ、本宮(ほんぐう)へこそにげのぼりけれ。

現代語訳

同年四月二十八日、都をたって近江国からはじめて、美濃、尾張の源氏らに次第にふれていくうちに、五月十日、伊豆の北条にくだりつき、流人前兵衛佐殿(頼朝)に令旨を差し上げて、信太三郎先生義憲(よしのり)は、兄であるのでとらせようと、常陸国信田浮島(うきしま)へくだる。木曾冠者義仲は、甥であるので与えようということで、東山道へおもむいた。

その頃の熊野の別当湛増(たんぞう)は、平家に深く同心していたが、どうやって漏れ聞いたのだろうか、

「新宮十郎義盛が、高倉宮の令旨をお預かりして、美濃、尾張の源氏らに、触れ回し、いよいよ謀反をおこすという。

那智新宮の者たちは、きっと源氏の味方をするだろう。湛増は、平家の御恩を天山のように受けているので、どうして背き申し上げよう。那智新宮の者どもに、矢一つ射かけて、平家へ詳しいことを知らせよう」

とて、甲冑を着こんだ者一千人、新宮の港へ出発する。新宮には、鳥井(とりゐ)の法眼(ほふげん)、高房(たかばう)の法眼、侍には、宇井(うゐ)、鈴木(すずき)、水屋(みづや)、亀甲(かめのかふ)、那智には、執行法眼(しゆぎやうほふげん)以下、あわせてその勢力は二千余人である。

時の声をつくり矢合して、源氏の方にはこう射る、平家の方にはああ射るといって、矢さけびの声がとどまることなく、鏑のなりやむひまもなく、三日ほど戦った。熊野別当湛増は、家の子郎党多く討たれ、わが身も傷を負って、なんとか生き延びて、本宮へ逃げのぼった。

語句

■北条 静岡県田方郡韮山町。狩野川沿い。北条氏発祥の地。 ■信太三郎先生義憲 志田三郎先生源義広。源為義の三男。行家の兄。 ■常陸国信太浮島 茨城県稲敷軍桜川村。 ■木曾冠者義仲 源義賢の子。行家の甥。頼朝のいとこ。 ■東山道 八道の一つ。東海道と北陸道の間。 ■天山と 天や山のようにはかり知れないほど高く。 ■ひた甲 甲冑を着込んだ者ども。 ■執行 しゆぎやう。寺社の事務を行う者。 ■とこそ射れ…かうこそ射れ… こう射た、ああ射た。 ■矢さけびの声 矢が命中した時の歓声。 ■退転 
とどまること。 ■からき命いきて 命が危ないところをようやく生き延びて。 

ゆかりの地

高倉宮址

高倉宮址
高倉宮址

高倉宮=以仁王の三条高倉の御所跡。マンションの前に石碑がぽつんと立つ。近くには在原業平邸跡、足利尊氏邸跡も。

……

源三位入道頼政が高倉宮以仁王をたきつけ、打倒平家の令旨を出させるくだりでした。

「令旨」とは、天皇以外の皇族が出す公式文書のことです。以仁王の令旨は、実物は残っていないのですが、『源平盛衰記』の中に本文の引用があります。

それによると、以仁王は壬申の乱に勝利した天武天皇(大海人皇子に自分をなぞらえています。

つまり、大海人皇子が正当性の無い大友皇子の政権を打倒し、天武天皇となったように、

自分も、平清盛によって樹立された安徳天皇の政権はニセモノだから、打倒するのだ、という話です。

(もっとも『源平盛衰記』の作者の創作とも思われます)

朗読・解説:左大臣光永

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