平家物語 五十六 鼬之沙汰(いたちのさた)

原文

さるほどに法皇(ほふわう)は、「とほき国へもながされ、はるかの島へうつされんずるにや」と仰せけれども、城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にして、今年(ことし)は二年(ふたとせ)にならせ給ふ。

同(おなじき)五月十二日、午剋(むまのこく)ばかり、御所中(ごしよぢゆう)にはいたちおびたたしうはしりさわぐ。法皇大きに驚きおぼしめし、御占形(おんうらかた)をあそばいて、近江守仲兼(あふみのかみなかかね)、其比(そのころ)はいまだ鶴蔵人(つるくらんど)と召されけるを召して、「この占形(うらかた)もツて、泰親(やすちか)がもとへゆけ。きツと勘(かんが)へさせて、勘状(かんじやう)をとツて参れ」とぞ仰せける。仲兼これを給はツて、陰陽守安倍泰親(おんやうのかみあべのやすちか)がもとへゆく。をりふし宿所(しゆくしよ)にはなかりけり。「白河なる所へ」といひければ、それへたづねゆき、泰親にあうて、勅定(ちよくぢやう)のおもむき仰すれば、やがて勘状を参らせけり。仲兼、鳥羽殿にかへり参ツて、門(もん)より参らうどすれば、守護の武士どもゆるさず。案内は知ツたり、築地(ついぢ)をこえ、大床(おほゆか)のしたをはうて、きり板(いた)より泰親が勘状をこそ参らせたれ。法皇これをあけて御覧ずれば、「いま三日がうちの御悦(おんよろこび)、ならびに御歎(おんなげき)」とぞ申したる。法皇、「御よろこびはしかるべし。これほどの御身(おんみ)になツて、又いかなる御歎のあらんずるやらん」とぞ仰せける。

さるほどに、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、法皇の御事を、たりふし申されければ、入道相国、やうやう思ひなほツて、同(おなじき)十三日、鳥羽殿をいだし奉り、八条烏丸(はつでうからすまる)の美福門院(びふくもんゐん)の御所へ御幸なし奉る。「いま三日がうちの御悦(おんよろこび)」とは泰親これをぞ申しける。

かかりけるところに、熊野別当湛増(くまののべつたうたんぞう)、飛脚をもツて、高倉宮の御謀反(ごむほん)のよし、都へ申したりければ、前右大将宗盛卿大きにさわいで、入道相国折(をり)ふし福原におはしけるに、此(この)よし申されたりければ、ききもあへず、やがて都へはせのぼり、「是非に及ぶべからず。高倉宮からめとツて、土佐(とさ)の畑(はた)へながせ」とこそ宣ひけれ。上卿(しやうけい)は三条(さんでう)大納言実房(さねふさ)、職事(しきじ)は頭弁光雅(とうのべんみつまさ)とぞきこえし。源大夫判官兼綱(げんだいふのはうぐわんかねつな)、出羽判官光長(ではのはうぐわんみつなが)、承ツて、宮の御所へぞむかひける。この源大夫判官と申すは、三位入道の次男なり。しかるをこの人数(にんじゆ)に入れられけるは、高倉の宮の御謀反(ごむほん)を、三位入道すすめ申したりと、平家いまだ知らざりけるによツてなり。

現代語訳

さて法皇は、「遠い国に流され、はるかの島にも移されるのだろうか」と仰せになったが、城南(せいなん)の離宮にあって、今年はニ年におなりになる。

同年(治承四年)五月十ニ日、正午ごろ、御所の中にはいたちが多く走りさわぐ。法皇は大いに驚かれ、占いの結果をお書きになって、近江守仲兼(なかかぬ)、その頃はいまだ鶴蔵人(つるくらんど)とよばれていたのを召して、「この占いの結果を持って、泰親のもとへゆけ。必ず考えさせて、勘状(吉凶をしるした書状)をとって参れ」と仰せになった。

仲兼がこれをお預かりして、陰陽頭(おんようのかみ)阿倍泰親(あべのやすちか)のもとへゆく。

ちょうど宿所にはいなかった。「白河という所へ」と言ったので、そこへ訪ねゆき、泰親に会って、法皇のお考えのあらましを仰せになると、(泰親は仲兼に)すぐに勘状を差し上げた。

仲兼は鳥羽殿に帰り参って、門から参ろうとすると、守護の武士どもがゆるさない。様子は知っているので、築地をこえ、大床の下をはって、きり板(簀子)から泰親の勘状を差し上げたのである。

法皇がこれをあけて御覧になると、

「いま三日のうちの御よろこび事、ならびに御嘆き事」

と記してあった。

法皇、

「御よろこび事は結構なことだ。これほどの情けない身になって、またどんな嘆きがあるのだろうか」

と仰せになった。

そうこうしている内に、前右大将宗盛卿が、法皇の御事を、切に申されたので、入道相国は、しだいに思いなおって、同月(五月)十三日、鳥羽殿をお出し申し上げ、八条烏丸(はちじょうからすまる)の美福門院の御所へ御幸なし申し上げる。

「いま三日のうちの御喜び事」とは泰親はこれを申したのだ。

こうしていたところに、熊野別当湛増が、飛脚をもって、高倉宮のご謀反のことを、都へ伝えてきたので、前右大将宗盛卿は大いにさわいで、入道相国がその時福原にいらしたのに、このことを申されたところ、きくやいなや、すぐに都に馳せのぼり、

「いいの悪いの言っている場合ではない。高倉宮をからめ捕って、土佐の畑(はた)へ流せ」

とおっしゃった。

役務に当たる筆頭公卿は三条大納言実房、現場で事に当たる蔵人は頭弁(とうのべん)光雅(みつまさ)ということだった。

源大夫判官(げんたいふのはうぐわん)兼綱(かねつな)、出羽判官(ではのほうぐわん)光長(みつなが)が命令を受けて、宮の御所へ向かった。

この源大夫判官と申すのは、三位入道の次男である。それをこの人数に入れられたのは、高倉の宮のご謀反を三位入道がすすめ申したと、平家がいまだ知らないことによってである。

語句

■ニ年 治承三年の十一月二十日に幽閉されたから足掛けニ年になる。 ■御占形 おんうらかた。占いの結果。占いのあらわれた形。 ■近江守仲兼 源光通の子。仲国の弟。後白河院に仕える。 ■勘状 吉凶を記した書状。 ■白河なる所 左京区。賀茂川の東。 ■勅定 法皇のおっしゃること。 ■大床 寝殿造の広廂。 ■きり板 簀子。竹をならべて板状にしてある。 ■しかるべし 結構だ。よい。 ■たりふし 切に。 ■美福門院 鳥羽天皇后美福門院得子。永暦元年(1160)崩御。 ■土佐の畑 高知県幡多郡。流人の流される場所。 ■上卿 役務にあたる筆頭の公卿。 ■職事 蔵人頭と蔵人の総称。ここでは現場で役務にあたる蔵人。 ■頭弁 弁官かつ蔵人頭の者。 ■源判官兼綱 頼政の弟頼行の子で頼政の養子。大夫は五位。判官は検非違使尉。

前の章「平家物語 五十五 源氏揃(げんじぞろへ)
朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永