平家物語 五十七 信連(のぶつら)

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平家物語巻第四より「信連(のぶつら)」。

高倉宮(以仁王)の侍、長谷部信連(はせべ のぶつら)は高倉宮を逃がし、自分は御所にとどまって六波羅からつかわされた役人たちと戦う。

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前回「鼬之沙汰(いたちのさた)」からのつづきです。
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あらすじ

熊野別当湛増(くまののべっとう たんぞう)から高倉宮御謀反の報告を受けた清盛は、 高倉宮の御所に捕縛の使いを送った(「鼬之沙汰」)。

それを察知した高倉宮の侍、長谷部信連(はせべ のぶつら)は以仁王を女装させて逃がす。

信連は屋敷に残り、見苦しいものがあれば片付けようとしていると以仁王の秘蔵する「小枝」という笛が置きっぱなしだったので、それを持って高倉宮にとどける。

高倉宮は感激し、信連に共に加われとすすめるが、信連は役人たちが来たとき誰もいないでは武士の面目が立たないと、また屋敷に戻る。

高倉宮の御所に、源大夫判官兼綱・出羽判官光長ら三百余騎が押し寄せた。

信連はこれらを相手どって奮戦、十四五人を切り伏せた後、捕縛されて六波羅へ引っ立てられる。

宗盛の糾問に堂々と答えた信連の態度に平家一門の人々は感心し、清盛もどう思ったのか、伯耆の日野へ流すにとどめた。

源氏の世になってから、頼朝は信連のこの時の行いに感心し、能登国に領土を取らせた。

原文

宮は五月(さつき)十五夜(や)の雲間(くもま)の月をながめさせ給ひ、なんのゆくゑもおぼしめしよらざりけるに、源三位入道の使者(ししや)とて、ふみもツていそがしげにいできたり。宮の御(おん)めのと子(ご)、六条(ろくじやう)の佐(すけ)の大夫宗信(たいふむねのぶ)、これをとツて、御前(ごぜん)へ参り、ひらいてみるに、「君の御謀反すでにあらはされ給ひて、土佐(とさ)の畑(はた)へながし参らすべしとて、官人共御(くわんにんどもおん)むかへに参り候(さふらふ)。いそぎ御所をいでさせ給ひて、三井寺(みゐでら)へいらせおはしませ。入道もやがて参り候べし」とぞ書いたりける。「こはいかがせん」とて、さわがせおはしますところに、宮の侍(さぶらひ)、長兵衛尉信連(ちやうひやうゑのじようのぶつら)といふ者あり。「ただ別(べち)の様(やう)候まじ。女房装束(しやうぞく)にていでさせ給へ」と申しければ、しかるべしとて御(おん)ぐしを乱し、かさねたる御衣(ぎよい)に、市女笠(いちめがさ)をぞ召されける。六条(ろくでう)の佐大夫宗信(すけのたいふむねのぶ)、唐笠(からかさ)もツて御供仕る。鶴丸(つるまる)といふ童(わらは)、袋(ふくろ)にものいれていただいたり。譬(たと)へば青侍(せいし)の女(ぢよ)をむかへてゆくやうに、いでたたせ給ひて、高倉を北へおちさせ給ふに、大きなる溝(みぞ)のありけるを、いともの軽(がる)うこえさせ給へば、みちゆき人(びと)たちどまツて、「はしたなの女房の溝のこえやうや」とて、あやしげにみ参らせければ、いとどあしばやに過ぎさせ給ふ。

長兵衛尉信連(ちやうひやうゑのじようのぶつら)は、御所の留守(るす)にぞおかれたる。女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしのばせて、見苦しき物あらば、とりしたためむとて、みるほどに、宮のさしも御秘蔵(ごひさう)ありける、小枝(こえだ)ときこえし御笛を(おんふえ)を、只今しも、常の御所の御枕にとり忘れさせ給ひたりけるぞ、立ちかへツてもとらまほしうおぼしめす、信連これをみつけて、「あなあさまし。君(きみ)のさしも御秘蔵ある御笛を」と申して、五町(ちやう)がうちにオツついて参らせたり。宮なのめならず御感(ぎよかん)あツて、「われ死なば、此笛(このふえ)をば御棺(ごくわん)にいれよ」とぞ仰せける。「やがて御供に候へ」と仰せければ、信連申しけるは、「只今御所へ官人共が御むかへに参り候なるに、御前(ごぜん)に人一人(ひとり)も候はざらんが、無下(むげ)にうたてしう候。信連が此御所に候とは、上下(かみしも)みな知られたる事にて候に、今夜(こんや)候はざらんは、それも其(その)夜はにげたりけりなンどいはれん事、弓矢をとる身はかりにも名こそ惜しう候へ。官人どもしばらくあひしらひ候うて、打破(うちやぶ)ツてやがて参り候はん」とて、はしりかへる。

長兵衛(ちやうひやうゑ)が其日の装束には、うすあをの狩衣(かりぎぬ)のしたに、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)を着て、衛府(ゑふ)の太刀(たち)をぞはいたりける。三条面(さんでうおもて)の惣門(そうもん)をも、高倉面の小門(こもん)をも共にひらいて待ちかけたり。

源大夫判官兼綱(げんだいふのほうぐわんかねつな)、出羽判官光長(ではのほうぐわんみつなが)、都合(つがふ)其勢三百余騎、十五日の夜の子(ね)の剋(こく)に、宮の御所へぞ押し寄せたる。源大夫判官は、存ずる旨(むね)ありとおぼえて、はるかの門前(もんぜん)にひかへたり。出羽判官光長は、馬に乗りながら、門(もん)のうちに打入(うちい)り、庭にひかへて大音声(だいおんじやう)をあげて申しけるは、「御謀反のきこえ候によツて、官人共別当宣(べつたうせん)を承り、御むかへに参ツて候。いそぎ御出(おんい)で候へ」と申しければ、長兵衛尉大床(おほゆか)に立ツて、「是(これ)は当時(たうじ)は御所でも候はず。御物(もの)まうでで候ぞ。何事ぞ、ことの子細を申されよ」といひければ、「何条(なんでう)、此(この)御所ならでは、いづくへかわたらせ給ふべかんなる。さないはせそ。下部(しもべ)ども参ツてさがし奉れ」とぞ申しける。

現代語訳

高倉宮は五月十五夜の雲間の月を眺められ、ゆく末がどうなるのかもご想像もつかないでいらっしゃったところ、源三位入道の使者として、手紙をもっていそがしげに出てきた。

宮の乳母子(めのとご)である六条の佐(すけ)の大夫(たいふ)宗信(むねのぶ)が、これを取って、高倉宮の御前に参り、開いてみると、

「君のご謀反はすでに発覚なさって、土佐の畑(はた)へ流し申し上げよといって、官人らが御むかえに向かっております。急いで御所をお出になり、三井寺へお入りください。入道(頼政)もすぐに参ります」

と書いてあった。

「これはどうしたものか」

といって、騒がれているところに、宮の侍、長兵衛尉(ちょうひょうえのじょう)信連(のぶつら)という者がある。

「ただ別のやりようもございませんでしょう。女房装束で御所をお出になってください」

と申したところ、

それがよいといって御髪(みぐし=髪の毛)を見出し、重ねた御衣に、市女笠をおかぶりになった。

六条の佐(すけ)の大夫宗信が、唐笠をもって御供もうしあげる。鶴丸という童が、袋にもの入れて頭の上に乗せていく。

たとえて言えば身分の低い侍が、女を迎えて行くように、お出になられて、高倉小路を北へ落ち行きなさったところ、大きな溝があったのを、たいそう軽く飛び越えなさると、みちゆく人が立ち止まって、

「みっともない女房の溝のこえようだなあ」

といって、あやしげにみ申し上げたので、たいそう足早にお過ぎになった。

長兵衛尉(ちょうひょうえのじょう)信連(のぶつら)は、御所の留守番に置かれた。女房たちが少々いらしたのを、あちこちへ忍ばせて、見苦しい物があれば、片付けようといって、みるうちに、宮のたいそう御秘蔵なさっていた、小枝とう御笛を、ちょうどその時、高倉宮は常の御所の御枕にお忘れになられたのを、立ち返って取り戻したく思われていたのだが、信連がこれをみつけて、

「さあ大変だ。君がたいそう御秘蔵なさっていた御笛を」と申して、五町のうちに追いついて参上した。

高倉宮はなみなみならずご感心されて、「我が死ねば、この笛を御棺に入れよ」と仰せになった。

「すぐに御供にまいれ」

と仰せになると、信連が申したのは、

「ただいま御所に官人どもが御迎えに向かっていますのに、御前に人一人もございませんのは、まったく残念でございます。信連がこの御所にございますことは、上下みな知られた事でございますに、今夜ございませんことは、信連もその夜は逃げてしまったなどいわれることは、弓矢取る身にはかりそめにも名前の惜しいことでございます。官人どもをしばらくあしらいまして、打ち破ってすぐに参上いたします」

といって、走り帰る。

長兵衛(ちょうひょうえ)のその日の装束は、薄青の狩衣の下に、萌黄縅のはらまきを着て、衛府の太刀をはいていた。三条大路に面した惣門をも、高倉小路に面した顧問をも、ともに開いて待ち受けた。

源大夫判官(げんたいふのはうぐわん)兼綱(かねつな)、出羽判官(ではのはうぐわん)光長(みつなが)、総勢三百余騎、十五日の夜の子の刻(午前0時頃)に、宮の御所へ押し寄せた。

源大夫判官は、思うところがあると思われて、はるかの門前に控えていた。出羽判官光長は、馬に乗ったまま、門のうちにうち入り、庭にひかえて大声を上げて申したのは、

「御謀反との噂が立ってございますので、官人どもが検非違使別当(けびいしのべっとう)の命令を承り、御むかえに参ってございます。いそいで御出でくだされ」

と申したところ、長兵衛尉は大床の上に立って、

「高倉宮は今は御所にはございません。神社に参詣してございます。何事か。詳しい事情を申されよ」

と言うと、

「何を言うか。この御所でなくては、どこへいらっしゃるというのか。そのようなことを言わせるな。下僕ども参ってさがし申し上げよ」

と申した。

語句

■佐の大夫 左衛門佐で大夫。左衛門佐は左衛門府のニ等官。左衛門府は宮中警護に当たる役所のひとつ。大夫は五位の者。 ■長兵衛尉信連 長谷部信連。源経基の子孫。長谷部為連の子。左兵衛尉。尉は三等官(督→佐→尉)。長は長谷部の略。 ■別の様 ほかのやりかた。 ■女房装束 女房が外出するときの服装。衣を頭からかずき、市女笠をかぶる。 ■唐笠 長い柄のついた傘。 ■青侍 公家に仕えた六位の侍。六位の衣(袍ほう)が青いため。 ■高倉を北へ 高倉通を北へ。 ■大きなる溝 現京都文化博物館東入り口地面に側溝の跡。 ■はしたなの みっともない。 ■とりしたためむ 片付けよう。 ■只今しも ちょうどその時。 ■あなあさまし さあ大変だ。 ■御前に 高倉宮の御座所に。 ■無下に まったく。ひどく。 ■うたてし 情けない。残念だ。 ■かりにも かりそめにも。ちょっとでも。 ■あひしらひ 相手して。あしらって。 ■うすあをの狩衣の下に… 「殿上闇討」の左兵衛尉家貞と同じ服装。 ■衛府の太刀 六衛府の官人が身につける儀礼用の太刀。 ■三条表の 三条大路(南側)に面した。 ■高倉面の 高倉小路(東)に面した。 ■存ずる旨あり 思うところがある。 ■別当宣 検非違使庁の別当(長官)の命令。 ■是は 高倉宮は。 ■御物まうでで候ぞ 神社に参詣に行かれておりますぞ。 ■何条 何を言うか。 ■さないはせそ そのようなこと(不在ですなどとは)は言わせるな。 

原文

長兵衛尉これを聞いて、「物もおぼえぬ官人どもが申様(まうしやう)かな。馬に乗りながら門(もん)のうちへ参るだにも奇怪(きツくわい)なるに、『下部共(しもべども)参ツてさがし参らせよ』とはいかで申すぞ。左兵衛尉長谷部信連(さひやうゑのじようはせべののぶつら)が候ぞ。ちかう寄ツてあやまちすな」とぞ申しける。庁(ちよう)の下部(しもべ)のなかに、金武(かなたけ)といふ大力(だいぢから)の剛(かう)の者、長兵衛に目をかけて、大床(おほゆか)のうへへとびのぼる。これをみて同隷(どうれい)ども十四五人ぞつづいたる。長兵衛は狩衣(かりぎぬ)の帯紐(おびひも)ひツきツてすつるままに、衛府(ゑふ)の太刀(たち)なれども、身をば心えてつくらせたるをぬきあはせて、さんざんにこそきツたりけれ。かたきは大太刀(おほだち)、大長刀(おほなぎなた)でふるまへども、信連が衛府の太刀に切りたてられて、嵐に木(こ)の葉(は)の散るやうに、庭へさツとぞおりたりける。

五月(さつき)十五夜の雲間(くもま)の月のあらはれいでて、あかかりけるに、かたきは舞案内(ぶあんない)なり、信連は案内者(あないしや)なり。あそこの面廊(めんらう)におツかけてははたときり、ここのつまりにおツつめてはちやうどきる。「いかに宣旨8せんじ)の御使をばかうはするぞ」といひければ、「宣旨とはなんぞ」とて、太刀ゆがめばをどりのき、おしなほし、ふみなほし、たちどころによき者ども、十四五人こそきりふせたれ。太刀のさき三寸ばかりうち折ツて、腹をきらんと腰(こし)をさぐれば、鞘巻(さやまき)おちてなかりけり。力およばず、大手(おほで)をひろげて、高倉面(たかくらおもて)の小門(こもん)より、はしりいでんとするところに、大長刀もツたる男、一人(いちにん)寄りあひたり。信連長刀に乗らんととんでかかるが、乗りそんじて、ももをぬひさまにつらぬかれて、心はたけく思へども、大勢(おほぜい)の中にとりこめられて、いけどりにこそせられけれ。其後(そののち)御所をさがせども、宮わたらせ給はず。信連ばかりからめて、六波羅(ろくはら)へゐて参る。

入道相国は、簾中(れんちゆう)にゐ給へり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、大床にたツて、信連を大庭に(おほには)にひツすゑさせ、「まことにわ男は、『宣旨とはなんぞ』とてきツたりけるか。おほくの庁の下部(しもべ)を、刃傷殺害(にんじやうさつがい)したんなり。せむずるところ、糺問(きうもん)して、よくよく事の子細をたづね問ひ、其後河原(かはら)にひきいだいて、かうべをはね候へ」とぞ宣ひける。信連すこしもさわがず、あざわらツて申しけるは、「このほどよなよなあの御所を者がうかがひ候時に、何事のあるべきと存じて、用意も仕り候はぬところに、よろうたる者共が、うち入ツて候を、『何者ぞ』と問ひ候へば、『宣旨の御使』となのり候。山賊(さんぞく)、海賊(かいぞく)、強盗(がうたう)なンど申すやつ原(ばら)は、或(あるい)は、『公達(きんだち)のいらせ給ふぞ』、或は、『宣旨の御使』なンどなのり候と、かねがね承ツて候へば、『宣旨とはなんぞ』とて、きツたる候(ざうらふ)。凡(およ)そは物具(もののぐ)をも思ふ様(さま)に仕り、かねよき太刀をももツて、候はば、官人共を、よも一人(いちにん)も安穏(あんのん)ではかへし候はじ。又宮の御在所(ございしよ)はいづくにかわたらせ給ふらん、知り参らせ候はず。たとひ知り参らせて候とも、さぶらひほんの者の、申さじと思ひきツてん事、糺問(きうもん)におよンで申すべしや」とて、其後(そののち)は物も申さず。いくらもなみゐたりける平家のさぶらひども「あツぱれ剛(かう)の者かな。あツたらをのこを、きられむずらんむざんさよ」と申しあへり。其中にある人の申しけるは、「あれは先年(せんねん)ところにありし時も、大番衆(おほばんしゆ)がとどめかねたりし強盗(がうたう)六人、只一人おツかかツて、四人(しにん)きりふせ、二人(ににん)いけどりにして、其時なされたる左兵衛尉ぞかし。これをこそ一人当千(いちにんたうぜん)の兵者(つはもの)ともいふべけれ」とて、口々に惜しみあへりければ、入道相国、いかが思はれけん、伯耆(ほうき)の日野(ひの)へぞながされける。
源氏の世になツて、東国へくだり、梶原平三景時(かぢはらへいぞうかげとき)について、事(こと)の根元(こんげん)一々(いちいち)次第に申しければ、鎌倉殿神妙(しんべう)なりと感じおぼしめして、能登国(のとのくに)に御恩かうべりけるとぞきこえし。

現代語訳

長兵衛尉はこれを聞いて、

「物の道理もわきまえぬ官人どもの申しようであるな。馬に乗ったまま門のうちに入るだけでもけしからぬことであるのに、『下僕ども参ってさがし申し上げよ」とはどうして申すのか。左兵衛尉(さひょうえのじょう)長谷部信連(はせべのぶつら)がござるぞ。ちかく寄って怪我するな」

と申した。

検非違使庁の下僕の中に、金武(かなたけ)という力の強い剛の者がいたが、長兵衛に目をかけて、大床の上に飛びのぼる。

これを見て同僚たち十四五人つづいた。長兵衛は狩衣の帯と紐を切って捨てるとすぐに、衛府の太刀ではあるが刀身を念を入れて鍛えたのを抜き合わせて、さんざんに斬った。

敵は大太刀、大長刀で切りかかったが、信連の衛府の太刀に切りたてられて、嵐の木の葉が散るように、庭へさっとおりてしまった。

五月十五夜の雲間の月のあらわれ出でて、明るい中を、敵はこの御所の勝手を知らない。信連はよく知っている。あっちの回廊に追いかけてははたと斬り、こっちの隅に追い詰めてはちようと斬る。

「どうして宣旨の御使にこのようなことをするのか」

といったところ、

「宣旨とは何だ」

といって、太刀がゆがめば躍りのき、おし直し、踏みなおし、あっという間に強い者ども、十四五人斬り伏せてしまった。

太刀の先三寸ばかり折って、腹を斬ろうと腰をさぐれば、鞘巻が落ちて無かった。

どうしようもない。両手を大きく広げて、高倉小路に面した小門から、走り出そうとするところに、大長刀もった男が、一人寄り合った。

信連は長刀に乗ろうと飛んでかかるが、乗り損なって、ももを縫うように貫かれて、心は猛々しく思っていたが、大勢の中にとりこめられて、生け捕りにされた。

その後、御所をさがしたが、高倉宮はいらっしゃらない。信連だけをからめとって、六波羅へつれて参る。

入道相国は、御簾の中にいらっしゃる。前右大将宗盛卿が、大床に立って、信連を大庭に座らせ、

「まことにお前は、『宣旨とは何だ』といって斬ったのか。多くの検非違使庁の下僕を、刃傷殺害したそうだな。つまるところ、問いただして、よくよく細かい事情を尋ね問い、その後河原に引き出して、首をはねなさい」

とおっしゃった。

信連は少しもさわがず、大笑いし申したのは、

「このほど、夜な夜なあの御所を誰かがうかがっています時に、何事かあるだろうと思って、用心もしないでおりましたところ、鎧を着た者どもが、うち入りましたのを、『何者だ』と尋ねますと、『宣旨の御使』と名乗ります。山賊、海賊、強盗など申す連中は、あるいは『公達がおいでである」、あるいは『宣旨の御使』など名乗りますと、常常伺ってございましたので、『宣旨とは何だ」といって、斬ったのです。だいたい、鎧をも思うように着て、よく斬れる太刀を持ってございましたなら、官人どもを、まさか一人も無事では返しません。また高倉宮の御在所は、どこに行かれたのか、存じ上げません。たとえ存じ上げていましても、侍の身分の者が、申さないと決めたことは、尋問されたからといって申すでしょうか」

といつて、その後は何も申さない。

いくらも並んでいた平家の侍たちは、

「ああすばらしい剛の者だなあ。惜しい男が、斬られてしまうだろうことの、酷いことよ」

と申しあった。

その中にある人の申したのは、

「あの男は先年、武者所に勤務していた時も、大番役(御所警備の役人)が捕まえられなかった強盗六人をただ一人で追いかけて襲いかかって、四人を斬り伏せ、二人生け捕りにして、その恩賞によって左兵衛尉とされたのであるぞ。これをこそ一人当千のつわ者とも言うのだろう」

といって、口々に惜しみあわれたところ、入道相国は、どう思われたのだろう、伯耆の日野に流された。

源氏の世になって、東国へ下り、梶原平三景時について、そもそもの事の起こりから一々順を追って申したので、鎌倉殿(頼朝)は殊勝であると感心されて、能登国に御恩を受けたという話である。

語句

■物もおぼえぬ 物の道理もわきまえぬ。 ■奇怪 けしからんこと。 ■あやまちすな 怪我をするな。 ■同隷 同僚。 ■狩衣の帯紐 狩衣の帯と襟のところを結ぶ紐。 ■身をば心えてつくらせたるを 刀身をよく斬れるように念をこめて作らせたのを。 ■無案内 勝手がわからない。 ■案内者 勝手を知っている。 ■面廊 馬道(めどう)の転。建物の間をつなぐ渡し廊下。 ■よき者ども 強い者ども。 ■大手をひろげて 大きく両手をひろげて。 ■ぬひさまに 縫ったように。 ■わ男は お前は。目下の者にいう。 ■したんなり 「したるなり」の音便。したそうだな。 ■せむずるところ 結局。 ■あざわらッて 大笑いして。 ■よろうたる 鎧を着た。 ■凡そは だいたいは。 ■かねよき刀身のよい、よく斬れる。 ■さぶらひほんの者 侍品(ほん)。品は身分。侍という身分の者。 ■思ひきッてん 「思ひきりたる」の音便。決心した。 ■あッたらをのこ 惜しい男。 ■ところ 武者所。院御所を警護する武士の詰所。 ■大番衆 おほばんしゆ。諸国から交代で上洛し御所の警護に当たった役人。大番役。 ■其時なされたる その時の恩賞によって任命された。 ■一人当千の兵者 一人で千人にも対抗しうる勇者。 ■伯耆の日野 鳥取県日野郡日野町の辺。 ■梶原平三景時 奥州後三年合戦で活躍した鎌倉権五郎景正の子孫。 ■事の根源 事の起こり。 ■次第に 順々に。 ■鎌倉殿 源頼朝。 ■御恩かうぶりける 領地を与えられたこと。石川県穴水町(あなみずまち)では長谷部信連を記念して長谷部祭りが行われている。

……

長谷部信連、大活躍の回でした。平家物語でここまで直接的な剣戟というか、殺陣がえがかれるのは、この「信連」が最初になります。

信連の立ち回りもよいんですが、女装した高倉宮が溝を飛び越えて、見ていた人が「なんとはしたないおなごじゃ」というのも、にやりとさせられる、いいいい場面です。

ゆかりの地

高倉宮址

高倉宮御所の碑

三条高倉の高倉宮の御所跡。京都文化博物館裏手、「京都市こども相談センター パトナ」の前(東洞院通り沿い)に碑が立つ。

三条高倉 側溝跡

三条高倉 側溝跡

三条高倉 側溝跡

そして同じブロックのちょうど反対側(高倉通沿い)、

京都文化博物館の東側に、高倉宮がとびこえたとおぼしき、側溝の発掘跡のしるし。

どのガイドブックにものっていない、知る人ぞ知る京都の歴史スポットです。このへん歩いたときはぜひ見ていってください。

朗読・解説:左大臣光永

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