平家物語 百六十九 内侍所都入(ないしところのみやこいり)

原文

新中納言(しんぢゆうなごん)、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長(いがのへいないざゑもんいへなが)を召して、「いかに、約束はたがふまじきか」と宣へば、「子細にや及び候」と、中納言に鎧二領着せ奉り、我身(わがみ)も鎧二領着て、手をとりくンで海へぞ入りにける。是(これ)を見て、侍共(さぶらひども)廿余人おくれ奉らじと、手に手をとりくんで、一所(いつしよ)に沈みけり。其中(そのなか)に越中次郎兵衛(ゑっちゆうのじらうびやうゑ)、上総五郎兵衛(かづさのごらうびやうゑ)、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)、飛騨四郎兵衛(ひだのしらうびやうゑ)はなにとしてかのがれたりけん、そこをも又落ちにけり。海上(かいしやう)には赤旗、赤印(あかじるし)、投げすてかなぐりすてたりければ、竜田河(たつたかは)の紅葉葉(もみぢば)を嵐の吹きちらしたるがごとし。みぎはに寄する白浪(しろなみ)も薄紅(うすぐれなゐ)にぞなりにける。主(ぬし)もなきむなしき舟は、塩にひかれ、風にしたがッて、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生(いけ)どりには、前(さき)の内大臣宗盛公(ないだいじんむねもりこう)、平大納言時忠(へいだいなごんときただ)、右衛門督清宗(うゑもんのかみきよむね)、内蔵頭信基(くらのかみのぶもと)、讃岐中将時実(さぬきのちゆうじやうときざね)、兵部少輔尹明(ひやうぶのせうまさあきら)、大臣殿(おほいとの)の八歳 になり給ふ若公(わかぎみ)、僧には二位僧都全真(にゐのそうづぜんしん)、法勝寺執行能円(ほつしやうじのしゆぎやうのうゑん)、中納言律師忠快(ちゆうなごんのりつしちゆうくわい)、経誦房阿闍梨融円(きやうじゆぼうのあじやりゆうゑん)、侍(さぶらひ)には源大夫判官季貞(げんたいふのはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、橘内左衛門季康(きちないざゑもんすゑやす)、藤内左衛門信康(とうないざゑもんのぶやす)、阿波民部重能父子(あはのみんぶしげよしふし)、以上卅八人なり。 菊池次郎高直(きくちのじらうたかなお)、原田大夫種直(はらだのたいふたねなほ)は、いくさ以前より郎等ども相具(あひぐ)して降人(かうにん)に参る。女房には、女院(にようゐん)、北(きた)の政所(まんどころ)、廊(らう)の御方(おんかた)、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、帥(そつ)のすけ殿、治部卿局已下(ぢぶきやうのつぼねいげ)四十三人とぞきこえし。元暦(げんりやく)二年の春の暮(くれ)、いかなる年月にて、一人(いちじん)海底に沈み、百官波上(はしやう)にうかぶらん。国母官女(こくもくわんじよ)は東夷西戎(とういせいじゆ)の手にしたがひ、臣下卿相(しんかけいしやう)は数万(すまん)の軍旅(ぐんりよ)にとらはれて、旧里(きうり)にかへり給ひしに、或(あるい)は朱買臣(しゆばいしん)が錦(にしき)を着ざる事をなげき、或(あるい)は王昭君(わうぜうくん)が胡国(ここく)におもむきし恨(うらみ)もかくやとぞかなしみ給ひける。

同(おなじき)四月三日(みつかのひ)、九郎大夫判官義経(くらうたいふのはうぐわんよしつね)、源八広綱(げんぱちひろつな)をもッて院(ゐん)の御所(ごしゆ)へ奏聞(そうもん)せられけるは、「去(さんぬる)三月廿四日(にじふしにち)、豊前国田(ぶぜんのくにた)の浦(うら)、門司(もじ)が関(せき)、長門国(ながとのくに)壇の浦、赤間(あかま)が関(せき)にて平家をせめおとし、三種神器(さんじゆのじんぎ)事ゆゑなくかへし入れ奉る」よし申されたりければ、 院中の上下騒動(じやうげさうどう)す。広綱を御坪(おつぼ)のうちへ召し、合戦の次第をくはしう御尋(おんたづ)ねありて、御感(ぎよかん)のあまりに左兵衛尉(さひやうゑのじやう)になされけり。「一定(いちぢやう)かへりいらせ給ふか見て参れ」とて、五日(いつか)の日北面に候ひける藤判官信盛(とうのはうぐわんのぶもり)を西国(さいごく)へさしつかはさる。宿所へもかへらず、やがて院の御馬(おんうま)を給はって、鞭(むち)をあげ、西をさいてはせくだる。

現代語訳

新中納言知盛は、「見届けるべきことは皆見届けた。今は自害しよう」と言って、乳母子(めのとご)の伊賀平内左衛門家長を召して、「どうだ、約束どおりするつもりか」とおっしゃると、「とやかく言い立てるまでもありません」と、中納言に鎧(よろい)二両をお着せ申しあげ、自分も鎧を二両着て、手を取り組んで海へ入ったのであった。これを見て、侍共二十余人が遅れ申してはならんと、手に手を取り組んで、一緒に海に沈んだ。その中に越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛はどうやって逃げたのか、そこからも又逃げ落ちた。海上には平氏の赤旗や赤印を投げ捨て、かなぐり捨てたので、竜田川の紅葉の葉を嵐が吹き散らした様であった。水際に打ち寄せる白波も薄紅になっていた。主もいない空(から)の舟が、潮に流され、風に吹かれて、何処を目指すともなく揺られて行くのは悲しい事であった。生捕りされた武将には、前の内大臣宗盛公(ないだいじんむねもりこう)、平大納言時忠(へいだいなごんときただ)、右衛門督清宗(うえもんのかみきよむね)、内蔵守信基(くらのかみのぶもと)、讃岐中将時実(さぬきのちゅうじょうときざね)、兵部少輔尹明(ひょうぶのしょううまさあきら)、大臣殿(おおいどの)の子で八歳におなりになる若君、僧には仁位僧都全真(にいのそうずぜんしん)、法勝寺執行能円(ほっしょうじのしゅぎょうのうえん)、中納言律師忠快(ちゅうなごんのりっしちゅうかい)、経誦房阿闍梨融円(きょうじゅぼうのあじゃりゆうゑん)、侍には源大夫判官季貞(げんたいふのはんがんすえさだ)、摂津判官盛澄(つのはんがんもりずみ)、橘内左衛門季康(きちないざえもんすえやす)、藤内左衛門信康(とうないざえもんのぶやす)、阿波民部重能父子(あわのみんぶしげよしふし)以上三十八人である。菊池次郎高直(きくちのじろうたかなお)、原田大夫種直(はらだのたいふたねなほ)は、いくさ以前より郎等どもを引き連れて降参し源氏方に参った。女房には、女院(にょういん)、北(きた)の政所(まんどころ)、廊(ろう)の御方(おんかた)、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、帥(そつ)のすけ殿、治部卿局以下(ぢぶきょうのつぼねいか)四十三人という事であった。元暦(げんりやく)二年の春の暮(くれ)、どのような年どのような月に、天子は海底に沈み、百官は波の上に浮んだのであろうか。国母(こくも)や官女(かんにょ)は関東・鎮西の荒暮れ武士の手にゆだねられ、臣下・公卿は数万(すうまん)の軍隊(ぐんたい)に捕らわれて、故郷の京都へお帰りになったが、或(あるい)は朱買臣(しゅばいしん)のように錦(にしき)を着ないで恥をさらしみすぼらしい姿で帰った事を歎き、或(あるい)は漢の王昭君(おうしょうくん)が不本意にも胡国(ここく)に赴いた時の悲嘆もこんなだったろうかとお悲しみになった。

原文

同十四日(おなじきじふしにち)、九郎大夫判官義経、平氏男女(へいじなんによ)のいけどりども、 相具してのぼりけるが、播磨国明石浦(はりまのくにあかしのうら)にぞつきにける。名をえたる浦なれば、ふけゆくままに月さえのぼり、秋の空にもおとらず。女房達さしつどひて、「一年(ひととせ)これをとほりしには、 かかるべしとは思はざりき」なンどいひて、しのびねに泣きあはれけり。帥(そつ)のすけ殿、つくづく月をながめ給ひ、いと思ひのこす事もおはせざりければ、涙に床(とこ)もうくばかりにて、 かうぞ思ひつづけ給ふ。

ながむればぬるるたもとにやどりけり月よ雲井のものがたりせよ
雲のうへに見しにかはらぬ月かげのすむにつけてもものぞかなしき

大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、
我身(わがみ)こそあかしの浦にたびねせめおなじ浪(なみ)にもやどる月かな

「さこそ物がなしう、昔恋しうもおはしけめ」と、判官もののふなれどもなさけある男(をのこ)なれば、身にしみてあはれにぞ思はれける。

同(おなじき) 廿五日、内侍所(ないしどころ)、璽(しるし)の御箱(おんばこ)、鳥羽(とば)につかせ給ふときこえしかば、内裏(だいり)より御(おん)むかへに参らせ給ふ人々、勘解由小路中納言経房卿(かでのこうぢのちゆうなごんつねふさのきやう)、高倉宰相中将泰通(たかくらのさいしやうのちゆうじやうやすみち)、権右中弁兼忠(ごんのうちゆうべんかねただ)、左衛門権佐親雅(さゑもんのごんすけちかまさ)、複並中将公時(えなみのちゆうじやうきんとき)、但馬少将範能(たじまのせうしやうのりよし)、武士には伊豆蔵人大夫頼兼(いづのくらんどのたいふよりかね)、石川判官代義兼(いしかはのはうぐわんだいよしかね)、左衛門尉有綱(さゑもんのじやうありつな)とぞきこえし。其夜(そのよ)の子剋(ねのこく)に、内侍所、璽の御箱、太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)へいらせ給ふ。宝剣はうせにけり。神璽(しんし)は海上(かいしやう)にうかびたりけるを、片岡太郎経春(かたおかのたらうつねはる)がとりあげ奉(たてま)ッたりけるとぞきこえし。

現代語訳

同年四月三日、九郎大夫判官義経は、源八広綱をたて後白河院の御所へ奏聞されたのは、「去年の三月二十四日、豊前国田の浦、門司の関、長門国の壇の浦、赤間が関で平家を攻め落とし、三種の神器を無事にお返し申し上げます」ということを申されたところ、院中の誰も彼もが大騒ぎをした。後白河院は広綱を御所の庭に召して、合戦の様子を詳しくお尋ねになって、感激のあまり左兵衛尉になさった。「確かに神器がお帰りになるか見て参れ」と言われて、五日の日に北面に仕えていた藤判官信盛を西国へ遣わせられる。信盛は、宿所へも帰らず、すぐに院の御馬を頂いて、鞭をあげ、西を指して馳せ下った。同月十四日、九郎判官義経は、生け捕った平家の男女を引き連れて上ったが、播磨国明石浦に到着した。有名な浦なので、更けていくに従って月は冴えて空に上り、秋の空にも負けはしない。女房達は集って、「先年ここを通った時は、このようになるとは思ってもいなかったのに」なとと言って、忍び声で泣き合われた。帥(そつ)のすけ殿は、つくづくと月を眺められ、何も言い残す事もなかったので、涙に床も浮くほどでこのように思い続けられる。

ながむればぬるるたもとにやどりけり月よ雲井のものがたりせよ
(物思いにふけって月を眺めると涙で濡れた袂に月の光が映っている。月よ宮中の語をしてくれ)
雲のうへに見しにかはらぬ月かげのすむにつけてもものぞかなしき
(かって宮中で見た月影が以前と変わらず澄んでいるのを見るにつけても物悲しい)

大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、
我身(わがみ)こそあかしの浦にたびねせめおなじ浪(なみ)にもやどる月かな
(私の身は明石の浦で旅寝することになるが、同じ明石の浦の白波の上にも月は宿るのだなぁ)

「さぞかし物悲しく昔恋しくもいらっしゃったことだろう」と、判官は武士ではあるが情けある男だったので、身に染みて哀れに思われた。

同月二十五日、内侍所・璽(しるし)の御箱(おんばこ)が鳥羽に到着したという話が伝わってきたので、内裏から御迎えに参られる人々は、勘解由小路中納言経房卿(かげゆのこうじのちゅうなごんつねふさのきょう)、高倉宰相中将泰通(たかくらのさいしょうのちゅうじょうやすみち)、権右中弁兼忠(ごんのうちゅうべんかねただ)、左衛門権佐親雅(さえもんのごんすけちかまさ)、複並中将公時(えなみのちゅうじょうきんとき)、但馬少将範能(たじまのしょうしょうのりよし)、武士には伊豆蔵人大夫頼兼(いづのくらんどのたいふよりかね)、石川判官代義兼(いしかわのはんがんだいよしかね)、左衛門尉有綱(さゑもんのじょうありつな)ということであった。その夜の午前零時ごろに、内侍所・璽(しるし)の御箱(おんばこ)が太政官(だじょうかん)の庁舎へお入りになる。宝剣はなくなってしまった。神璽(しんし)は海上に浮かんでいたのを、片岡太郎経春(かたおかのたろうつねはる)がお取り上げ申したという事であった。

朗読・解説:左大臣光永

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