平家物語 百六十九 能登殿最期(のとどのさいご)

平家物語巻第十一より「能登殿最期(のとどのさいご)」。能登守教経の壮絶な最期。

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前回「先帝身投」からのつづきです。
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あらすじ

二位の尼は安徳天皇を抱いて入水した(「先帝身投」)。

これを見た建礼門院徳子は、重りを抱いて入水しようとするが、源氏の武士にかきあげられる。

大納言の佐殿は、内侍所を納めた唐櫃を持って入水しようとするが、源氏武士にとり留めらた。

(注)「内侍所」とは三種の神器の一つ八咫鏡が置いてある宮中の温明殿(うんめいでん)もしくは八咫鏡そのもののこと。平家は八咫鏡を持ち去り、御座舟の中に臨時の内侍所を造っていた。ここで「内侍所」は八咫鏡そのものをさす。

源氏の武士どもが内侍所(八咫鏡)の納められた箱をこじ開けようとすると、たちまち目がくらみ、鼻血がたれる。

生捕りになっていた平大納言時忠卿は、「内侍所に凡人が近づくものではない」と咎める。後に義経は時忠と相談して内侍所をもとの通り、櫃に納めた。

平家の主だった人々とが次々と入水する中、宗盛父子は、ふなばたでぐずぐずしていた。侍たちが、あまりのはがゆさに、側を通るふりをして宗盛を海に突き落とした。

息子の右衛門督も飛び込んだ。父子沈みあぐねている間に源氏方の伊勢三郎義盛によって引き上げられた。

宗盛の乳母子、飛騨三郎左衛門景経(ひだのさぶろうざえもん かげつね)が、助けに入るが、 宗盛の目の前で討ち取られる。

能登守教経(のとのかみ のりつね)は、長刀で源氏の武士を片っ端から討ち取っていた。そこへ大将の知盛から「無益な殺生をするな」と使者が届く。

教経は敵の大将義経ひとりを狙おうと、舟から舟へ乗り移り、義経を探す。義経は味方の舟に乗り移り、難を逃れた。

追跡を諦めた教経は、武器も兜も海へ投げ捨て、向かって来た安芸太郎次郎兄弟を両脇に挟み、海へ飛び込むのだった。

原文

女院(にようゐん)はこの御有様(おんありさま)を御覧じて、御焼石(おんやきいし)、御硯(おんすずり)、左右(さう)の御ふところにいれて、海へいらせ給ひたりけるを、渡辺党(わたなべたう)に源五右馬允昵(げんごうまのじようむつる)誰(たれ)とは知り奉らねども、御(おん)ぐしを熊手(くまで)にかけてひきあげ奉る。女房達、「あなあさまし。あれは女院にてわたらせ給ふぞ」と、声々ロ々に申されければ、判官(はうぐわん)に申して、いそぎ御所(ごしよ)の御舟(おんふね)へわたし奉る。大納言(だいなごん)の佐(すけ)殿は、内侍所(ないしどころ)の御唐櫃(おんからうと)をもッて海へいらんとし給ひけるが、袴(はかま)の裾(すそ)をふなばたに射つけられ、けまとひて倒(たふ)れ給ひたりけるを、つはものどもとりとどめ奉る。さて武士ども内侍所の鎖(じやう)ねぢきッて、 すでに御蓋(おんふた)をひらかんとすれば、たちまちに目くれ鼻血(はなぢ)たる。 平大納言(へいだいなごん)いけどりにせられておはしけるが、「あれは内侍所のわたらせ給ふぞ。凡夫(ぼんぷ)は見奉らぬ事ぞ」と宣(のたま)へば、兵共(つはものども) みなのきにけり。其後(そののち)判官、平大納言に申しあはせて、もとのごとくからげをさめ奉る。

さる程に平中納言教盛(へいぢゆうなごんのりもり)、修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)兄弟、鎧(よろひ)のうへに碇(いかり)を負ひ、手をとりくんで、海へぞ入り給ひける。小松の新三位中将資盛(しんざんみのちゆうじやうすけもり)、同少将有盛(おなじきせうしやうありもり)、いとこの左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)、手に手をとりくんで、一所(いつしよ)に沈み給ひけり。人々はか様(やう)にし給へども、大臣殿親子(おほいとのおやこ)は海に入らんずるけしきもおはせず、ふなばたに立ちいでて、四方(しはう)見めぐらし、あきれたる様(さま)にておはしけるを、侍(さぶらひ)どもあまりの心憂(こころう)さに、とほるやうにて大臣殿を海へつき入れ奉る。右衛門督(うゑもんのかみ)これを見て、やがてとび入り給ひけり。みな人は重き鎧(よろひ)のうへに、重き物を負うたりいだいたりして入ればこそ沈め、この人親子(おやこ)はさもし給はぬうへ、なまじひにくッきやうの水練(すいれん)にておはしければ、沈みもやり給はず。大臣殿は、「右衛門督沈まば、われも沈まん、たすかり給はば、われもたすからむ」と思ひ給ふ。右衛門督も、「父沈み給はば、われも沈まん。たすかり給はば、我もたすからん」と思ひて、たがひに目を見かはしておよぎありき給ふ程に、伊勢三郎義盛、小舟をつッとこぎ寄せ、まづ右衛門督を熊手にかけて、ひきあげ奉る。大臣殿是(これ)を見て、いよいよ沈みもやり給はねば、同じうとり奉ッてンげり。大臣殿の御(おん)めのと子(ご)、飛騨三郎左衛門景経(ひだのさぶらうざゑもんかげつね)、小舟に乗ッて義盛が舟に乗りうつり、「我君とり奉るは何者ぞ」とて、太刀をぬいてはしりかかる。義盛すでにあぶなう見えけるを、義盛が童(わらは)、主(しゆう)をうたせじとなかにへだたる。景経がうつ太刀に甲(かぶと)のまッかううちわられ、二の太刀にくびうちおとされぬ。義盛なほあぶなう見えけるを、ならびの舟より堀弥太郎親経(ほりのやたらうちかつね)よッぴいてひやうど射る。景経内甲(うちかぶと)を射させてひるむところに、堀の弥太郎乗りうつッて、三郎左衛門にくんでふす。堀が郎等(らうどう)、主(しゆう)につづいて乗りうつり、景経が鎧(よろひ)の草摺(くさずり)ひきあげ、二(ふた)かたなさす。飛騨の三郎左衛門景経、きこゆる大力(だいぢから)の剛(かう)の者なれども、運やつきにけん、いた手は負うつ、敵(かたき)はあまたあり、そこにてつひにうたれにけり。大臣殿は生きながらとりあげられ、目の前でめのと子がうたるるを見給ふに、いかなる心地かせられけん。

現代語訳

女院(建礼門院)はこの有様を御覧になって、御焼石、御硯を左右の御懐に入れて、海へ入られたが、渡辺党の源吾右馬允昵(げんごうまのじょうむつる)がこの人が誰とは知り申さなかったが、御髪を熊手に掛けて引き揚げ申しあげる。女房達は、「ああ、情けない。あれは女院でございますよ」と、声々、口々に申されたので、判官義経に申して急いで御座所になっている御舟へお渡し申し上げる。大納言の佐殿(すけどの)は、内侍所の御唐櫃(からびつ)を持って海へ入ろうとなさったが、袴の裾を船端に射付けられ、足にまとわりついてお倒れになったのを、兵どもがおとめ申し上げる。それから武士どもが内侍所の錠を捩じ切って、すんでのことで御蓋を開こうとすると、たちまち目がくらみ鼻血が垂れてくる。平大納言(平時忠。二位の尼の兄)は生捕りにされておられたが、「それは内侍所がお渡りになられているのだ。凡夫は見てはならぬ事だ」と言われると、兵どもはみな離れ引き下がった。その後判官は、平大納言と相談して、元のように紐を結んでお納め申し上げた。

そのうちに、平中納言教盛(のりもり)、修理大夫経盛(しゅうりのだいぶつねもり)兄弟は鎧の上から碇(いかり)を背負い、手に手を組んで、海へお入りになった。小松の新三位中将資盛(しんざんみのちゅうじょうすけもり)、同じく少将有盛(ありもり)、いとこの左馬守行盛(さまのかみゆきもり)は、手に手を組んで一緒に海へお沈みになった。人々はこのようになさったが、大臣殿親子は海に入ろうとする様子もなく、船端に立って四方を見回し、呆然とした様子でおられたのを見て、侍共はあまりの情けなさに、通り過ぎるようにして大臣殿を海へ突き落し申した。右衛門督はこれを見て、すぐに同じように飛び込まれた。誰でもみんな重い鎧の上に、重い物を背負ったり抱いたりして海に入ったので沈んだが、この親子はそれもなさらないうえに、なまじっか泳ぎが得意だったので、沈んでおしまいにもならない。大臣殿は、「右衛門が沈んだら、私も沈もう、お助かりになったら私も助かろう」と思って、互いに目を見かわして泳ぎ回ってられるうちに、伊勢三郎義盛が小舟をつっと漕ぎ寄せ、先ず右衛門督を熊手に引っ掛けて、引き揚げ申しあげる。大臣殿はこれを見て、ますます沈むこともできずにおられたので、同じように引き揚げて捕え申した。大臣殿の御乳母子(めのとご)、飛騨三郎左衛門景常(ひだのさぶろうざえもんかげつね)が小舟に乗って義盛の舟に乗り移り、「我君をお取りあげ申し上げるのは誰だ」と言って、太刀を抜いて走って打ち掛かる。義盛はすでに危なく見えたのだが、義盛の童が、主人を討たせまいとして中に割り込む。この童は、景常が打ち下した太刀に甲の真ん中を打ち割られ、二の太刀で首を打ち落とされた。義盛は猶も危なく見えたのを、横に並んだ舟から堀弥太郎親経(ほりのやたろうちかつね)が十分に引き絞った矢をひょうと射た。景経が内甲を射させてひるんだところへ、堀の弥太郎が乗り移って、三郎左衛門を組み伏せた。堀の郎等は主人に続いて乗り移り、景経の鎧の草摺りを引き上げ、刀を二回差ず。飛騨の三郎左衛門景経は、名の知れた大力の剛の者だったが、運が尽きたのであろうが、痛手は負うし、敵は大勢であり、そこでついに討たれたのだった。大臣殿は、生きたまま引き上げられ、目の前で乳母子が討たれるのを御覧になって、どんな心地をなさったのであろうか。

原文

凡(およ)そ能登守教経(のとのかみのりつね)の矢さきにまはる者こそなかりけれ。矢だねのある程射つくして、今日(けふ)を最後とや思はれけむ、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧着て、いかものづくりの大太刀(おほだち)ぬき、しら柄(え)の大長刀(おほなぎなた)の鞘(さや)をはづし、左右(さう)にもッてなぎまはり給ふに、おもてをあはする者ぞなき。おほくの者どもうたれにけり。新中納言(しんぢゆうなごん)使者をたてて、「能登殿、いたう罪なつくり給ひそ、さりとてよきかたきか」と宣(のたま)ひければ、さては大将軍(たいしやうぐん)にくめごさんなれと心えて、打物(うちもの)くきみじかにとッて、源氏の舟に乗りうつり乗りうつり、をめきさけんでせめたたかふ。判官を見知り給はねば、物具(もののぐ)のよき武者をば判官かとめをかけて、はせまはる。判官もさきに心えて、おもてにたつ様(やう)にはしけれども、とかくちがひて能登殿にはくまれず。されどもいかがしたりけむ、判官の舟に乗りあたッて、あはやと目をかけてとんでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀(なぎなた)脇(わき)にかいはさみ、みかたの舟の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗り給ひぬ。能登殿ははやわざやおとられたりけん、やがてつづいてもとび給はず。いまはかうと思はれければ、太刀、長刀(なぎなた)海へ投げいれ、甲(かぶと)もぬいですてられけり。鎧(よろひ)の草摺(くさずり)かなぐりすて、胴(どう)ばかり着て大童(おほわらは)になり、大手(おほで)をひろげてたたれたり。凡(およ)そあたりをはらッてぞ見えたりける。おそろしなンどもおろかなり。能登殿大音声(だいおんじやう)をあげて、「われと思はん者どもは、寄ッて教経にくんでいけどりにせよ。鎌倉へくだッて、頼朝(よりとも)にあうて、物一詞(ひとことば)いはんと思ふぞ。寄れや寄れ」と宣(のたま)へども、寄る者一人(いちにん)もなかりけり。

ここに土佐国(とさのくに)の住人、安芸郷(あきのがう)を知行しける安芸大領実康(あきのだいりやうさねやす)が子に、安芸太郎実光(あきのたらうさねみつ)とて、卅人(さんじふにん)が力(ちから)もッたる大力(だいぢから)の剛(かう)の者あり。われにちッともおとらぬ郎等一人(いちにん)、おととの次郎も普通にはすぐれたるしたたか者なり。安芸の太郎、能登殿を見奉(たてま)ッて申しけるは、「いかに猛(たけ)うましますとも、我等三人とりついたらんに、たとひたけ十丈の鬼なりとも、などかしたがヘざるべき」とて、主従(しゆうじゆう)三人少舟(こぶね)に乗って、能登殿の舟におしならべ、「ゑい」といひて乗りうつり、甲の錣(しころ)をかたぶけ、太刀をぬいて一面(いちめん)にうッてかかる。能登殿ちッともさわぎ給はず、まッさきにすすんだる安芸太郎が郎等を、裾(すそ)をあはせて、海へどうどけいれ給ふ。つづいて寄る安芸太郎を、弓手(ゆんで)の脇にとッてはさみ、弟の次郎をば馬手(めて)の脇にかいはさみ、一(ひと)しめしめて、「いざうれ、さらばおのれら死途(しで)の山のともせよ」とて、生年廿六にて海へつッとぞいり給ふ。

現代語訳

すべて能登守教経の矢先に立ちまわる者はなかった。矢種があるだけ射尽くして、今日が最後と思われたのであろうか、赤地の錦の直垂に唐綾威(からあやおどし)の鎧を着て、いかめしく見えるように作った大太刀を抜き、白柄の大長刀の鞘を払って左右に持って薙ぎまわりなさると、顔を合せ敵対する者もなかった。多くの者共が討たれた。新中納言は使者をたてて、「能登殿、そんなに罪作りな事なされるな、そんな事をしたとて、それほどたいした敵でもあるまいに」と言われると、さては大将軍と組めと言われるのだなと心得て、刀の柄を短かめに握って、源氏の舟に次から次へと乗り移り、おめき叫んで攻め戦った。判官を見知っておられなかったので、立派な鎧、甲の武者を判官かと目掛けて、掛け回る。判官も前もって心得ており、表に立つようにはしていたが、あれこれかけ違って能登殿とはお組みにはならない。だけどもどうしたのか、判官の舟に乗り当てて、やあと目掛けて飛びかかると、判官は敵わんと思われたのだろうか、長刀を脇に挟み、味方の舟が二丈ばかり、離れていたので、そこへゆらりと飛び乗られた。能登殿は早業は不得手であったのかすぐに続いてお飛びにならない。今はこれまでと思われたので、太刀、長刀を海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられた。鎧の草摺りをかなぐり捨て、胴だけを着て、髻(もとどり)がはずれてざんばら髪になり、大手を広げて立たれたのだった。まったく威厳に満ちて辺りを圧倒するようであった。恐ろしいなどという言葉ではとても言い表せないほどであった。能登殿は大声を挙げて、「我こそはと思う者共は、寄って教経と組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下って、頼朝に会うて、一言(ひとこと)物申そうと思うぞ。かかって来いかかって来い」と言われるが、近寄る者は一人もいなかった。

ここに土佐国の住人で、安芸郷を知行していた安芸大領実康(あきのだいりょうさねやす)の子で、安芸太郎実光(あきのたろうさねみつ)という、三十人力の力持ちの剛の者がいた。自分と少しも劣らぬ郎等が一人おり、弟の次郎も普通以上の優れた剛の者である。安芸太郎が能登殿を拝見して申すには、「どれほど勇敢でおられましょうとも、我等三人が取り付いたら例え丈十丈の鬼であっても、どうして従えられないことがあろうか」と、主従三人は小舟に乗って、能登殿の舟に並べて、「えぃ」と言って乗り移り、甲の錣を傾け、太刀を抜いていっせいに打ってかかった。能登殿は少しも騒がれず、真っ先に進んだ安芸太郎の郎等を、裾と裾を合せて、海へどっと蹴り入れなさる。続いて近寄る安芸太郎を、左手の脇に捕まえて挟み、弟の次郎をも右手の脇に挟み、一締め握り締めて、「さあ、貴様等、それではお前ら死出の山の供をせよ」と言って、生年二十六歳にして海へつっとお入りになる。

朗読・解説:左大臣光永

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