平家物語 百七十一 剣(けん)

本日は平家物語巻第十一より「剣(けん)」。三種の神器のひとつ、草薙の剣の由来が語られる。

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前回「内侍所都入」からのつづきです。
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あらすじ

二位の尼は草薙の剣、八尺瓊勾玉を抱いて安徳天皇と共に入水した(「先帝身投」)。

この草薙の剣は、天叢雲剣(あまのむらくものけん)とも呼ばれ、その起源は神代の昔にさかのぼる。

昔、スサノオノミコトが出雲国を訪れたとき、その地の国つ神の夫婦が泣き悲しんでた。

きくと、八人の娘をみな大蛇に呑まれ、残る一人稲田姫も狙われているという。

その大蛇、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は、頭と尾が八つずつある怪物である。

スサノオノミコトは稲田姫を櫛の形に変えて髪の中に隠し、八つの樽に酒を満たし、ヤマタノオロチに呑ませた。

そしてヤマタノオロチが酔っ払ったところを、十握の剣で切り殺した。

その時ヤマタノオロチの尾の一つから、剣が出てきた。
スサノオノミコトはその剣を天照大神に献上した。

大蛇の尾の中にあった時いつも叢雲が覆っていたので、その剣を天叢雲剣(あまのむらくものけん)と呼ぶことにした。

第十代崇神天皇の時、今まで内裏に置いていたのを伊勢神宮に移す。

第十二代景行天皇の時、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が賊徒を討ちに向かうに際し、この天叢雲剣を授けられた。

駿河国で日本武尊は賊徒に騙され焼き討ちにされそうになったが、天叢雲剣を抜き草をなぎ払うと火は逆に賊徒らを焼き殺し、尊は難を逃れた。

これによって以後、「草薙の剣」と呼ばれるようになった。

日本武尊はその後も各地の賊徒を討伐したが、病にかかり、尾張の熱田付近で亡くなった。

その魂は白き鳥となって天に昇ったということである。

日本武尊の死後、草薙の剣は熱田の社に納められた。

第38代天智天皇の時、新羅の僧道慶が草薙の剣を盗み出すが、途中嵐にあい、船が沈みかける。

これは草薙の剣の祟りに違いないと、日本国に返還したということである。

第40代天武天皇の時、熱田の社から再び内裏へ戻す。

陽成院(第57代天皇)が物狂いして宮中で草薙の剣を抜いた時、ぴかぴかと光り、それに驚いて取り落としたところを、自ら元の鞘に収まったという逸話もある。

このような貴重な霊宝が海の底に沈んでしまったのである。
多くの海女に捜索させ、さかんに祈りを捧げたが、草薙の剣はついに戻らなかった。

ヤマタノオロチが草薙の剣への執着心から安徳天皇となって生まれ変わり、剣を奪い返したのだと言う人もあった。

原文

吾朝には神代(じんだい)よりつたはれる霊剣(れいけん)三つあり。十(と)つかの剣(けん)、あまのはやきりの剣(けん)、草薙(くさなぎ)の剣(けん)これなり。十つかの剣は、大和国石上布留(やまとのくにいそのかみふる)の社(やしろ)にをさめらる。あまの羽(は)やきりの剣は、 尾張国熱田(おはりのくにあつた)の宮(みや)にありとかや。草薙の剣は内裏(だいり)にあり。今の宝剣これなり。

この剣の由来を申せば、昔素戔烏(そさのを)の尊(みこと)、出雲国曾我(いづものくにそが)のさとに宮づくりし給ひしに、その所に八いろの雲常(つね)にたちければ、尊(みこと)これを御覧(ごらん)じて、かくぞ詠じ給ひける。

八雲(やくも)たつ出雲八重垣(いづもやへがき)つまごめに八重垣つくるその八重垣を
これを三十一字のはじめとす。国を出雲となづくる事も、すなはちこのゆゑとぞ承(うけたまは)る。

むかし尊(みこと)、出雲国簸河上(ひのかはかみ)にくだり給ひしとき、国津(くにづ)の神に 「足なづち手(て)なづちとて夫神婦神(をがみのめがみ)おはします。其子に端正(たんじやう)の娘(むすめ)あり、稲田姫(いなだひめ)と号(かう)す。親子三人(おやこさんにん)泣きゐたり。尊(みこと)、「いかに」 と問ひ給へば、こたへ申していはく、「われに娘八人(はちにん)ありき。 みな大蛇(だいじや)のためにのまれぬ。いま一人(いちにん)のこるところの少女(せうじよ)、 又のまれんとす。件(くだん)の大蛇(だいじや)は尾頭共(をかしらとも)に八(や)つあり。おのおの八つのみね、八つの谷にはひはびこれり。霊樹異木(れいじゆいぼく)せなかにおひたり。幾千年(いくせんねん)をへたりといふ事を知らず。まなこは日月(にちぐわつ)の光のごとし。年々(としどし)に人をのむ。親のまるる者は子かなしみ、子のまるる者は親かなしみ、村南村北(そんなんそんぼく)に哭(こく)する声たえず」とぞ申しける。尊あはれにおぼしめし、この少女をゆつのつまぐしにとりなし、御(おん)ぐしにさしかくさせ給ひ、八つの舟に酒をいれ、美女のすがたをつくッて、たかき岡にたつ。そのかげ酒にうつれり。大蛇、人と思って、其かげをあくまでのンで酔(ゑ)ひふしたりけるを、尊、はき給へる十つかの剣をぬいて、大蛇をづだづだにきり給ふ。其なかに一つの尾にいたッてきれず。尊あやしとおぼしめし、たてさまにわッて御覧ずれば、一つの霊剣(れいけん)あり。これをとって天照太神(てんせうだいじん)に奉り給ふ。「これはむかし高間(たかま)の原にてわがおとしたりし剣なり」とぞ宣(のたま)ひける。大蛇の尾のなかにありける時は、村雲(むらくも)常におほひければ、あまの村雲の剣とぞ申しける。御神是(おほんがみこれ)をえて、あめの御門(みかど)の御宝(おんたから)とし給ふ。豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)の主(あるじ)として、天孫(てんそん)をくだし奉り給ひしとき、この剣をも御鏡にそへて奉らせ給ひけり。第九代(だいくだい)の御門(みかど)、開化天皇(かいくわてんわう)の御時までは、一(ひと)つの殿(てん)におはしましけるを、第十代の御門崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及ンで、霊威(れいゐ)におそれて、天照大神(てんせうだいじん)を大和国笠縫(やまとのくにかさぬい)の里磯(いそ)がきのひろきにうつし奉り給ひし時、この剣をも天照大神の社壇にこめ奉らせ給ひけり。其時剣を作りかへて御(おん)まもりとし給ふ。御霊威(ごれいゐ)もとの剣にあひおとらず。

現代語訳

わが国には神代から伝わって来た霊剣が三つある。十握(とつか)の剣(つるぎ)・天蠅斫(あまのはえきり)の剣(つるぎ)・草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)がこれである。十握の剣は、大和国石上布留(やまとのくにいそのかみふる)の社(やしろ)に納められた。天蠅斫(あまのはえきり)の剣は、尾張国(おわりのくに)熱田神宮(あつたじんぐう)にあるということだ。草薙の剣は内裏にある。今の宝剣がこれである。

この件の由来を申すと、昔素戔烏尊(すさのおのみこと)が、出雲国曽我(いずものくにそが)の里に宮を御造りになった際に、その場所に幾重にも重なった雲が常にたっていたので、尊はこれを御覧になって、次のように歌を詠まれたのだった。

八雲(やくも)たつ出雲八重垣(いずもやえがき)つまごめに八重垣つくるその八重垣を
(幾重にも盛んに雲が重なる出雲の八重垣よ、妻を籠らせるために八重垣を作る。その八重垣よ)
これを三十一字の和歌の始めとする。国名を出雲と名付けられた事も、すなわちこれが由縁と承っている。

昔尊が、出雲国簸河上(ひのかわかみ)にお下りになった時、国の神として足なづち手なづちといって夫婦の神がおられた。その子に容姿端麗な娘がいて、稲田姫(いなだひめ)と号した。その親子三人が泣いていた。これを見て尊が、「どうしたのだ」とお尋ねになると、お答え申していうには、「私には八人の娘がおりましたが、皆大蛇に飲まれてしまいました。もう一人残っている少女も大蛇に飲まれようとしております。その大蛇は尻尾、頭共に八つあり、それぞれが八つの峰、八つの谷に這いはびこっております。霊木や霊樹が背中に生えております。何千年経っているのかもわかりません。眼は太陽や月の光のようにらんらんと輝き、毎年人を飲み込んでおります。親を飲まれた者はその子が悲しみ、子を飲まれた者はその親が悲しみ、村の南北で泣く声が絶えません」と申した。尊はこれを哀れとお思いになり、この少女を湯津の爪櫛(ゆつのつまぐし)となして、御櫛にお隠しになられ、八つの酒樽に酒を入れ、美女の姿の人形をお作りになって、高い岡に立てた。その影が酒に映っている。大蛇はそれを人と思って、その人影を飽きるまで飲んで酔いつぶれて伏したので、尊は、差しておられた十握の剣を抜いて大蛇をずたずたにお斬りになる。その中に一つの尾になってそれが斬れない。尊は不思議に思われ、縦に割って御覧になると、一つの霊剣が現れる。これを取って天照大神に献上なさる。「これは昔高天原で私が落とした剣だ」と言われた。大蛇の尾の中にあった時は、群がり立つ雲がいつもその上を覆ったので、天村雲剣(あまのむらくものつるぎ)と申した。天照大神はこれを得て、天の帝の御宝になさった。天照大神は豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)の主として、天孫を地上にお下し申し上げられた時、この剣を御鏡に添えてさしあげられたのだった。第九代の御門、開花天皇の御代にまでは、ひとつの館におられたのを、第十代の御門崇神天皇(しゅじんてんのう)の御代になって、霊威を怖れて、天照大神を大和国笠縫(かさぬい)の里磯城(いそしき)に移された時、この剣も天照大神の社壇に中にお納め申し上げられた。その時に剣を作り替えて御守刀となさった。その剣のご霊威も元の剣に劣らなかった。

原文

あまの村雲の剣は、崇神天皇より景行天皇(けいかうてんわう)まで三代は天照大神の社壇にあがめおかれたりけるを、景行天皇の御宇(ぎよう)四十年六月に東夷反逆(はんぎやく)のあひだ、 御子日本武(おんこやまとだけ)の尊(みこと)、御心(おんこころ)も剛(かう)に御力(おんちから)も人にすぐれておはしければ、精撰(せいせん)にあたッてあづまへくだり給ひし時、天照太神(てんせうだいじん)へ参ッて御暇(おんいとま)申させ給ひけるに、御妹(おんいもうと)いつきの尊(みこと)をもッて、「謹(つつし)ンでおこたる事なかれ」とて、霊剣を尊(みこと)にさづけ申し給ふ。さて駿河国(するがのくに)に下り給ひたりしか ば、其所(そのところ)の賊徒等(ぞくとら)、「この国には鹿おほう候。狩してあそばせ給へ」とて、たばかりいだし奉り、野に火をはなッて既(すで)に焼きころし奉らんとしけるに、尊はき給へる霊剣をぬいて草をなぎ給へば、はむけ一里がうちは草みなながれぬ。尊又火をいだされたりければ、風たちまちに異賊(いぞく)の方へ吹きおほひ、 凶徒(きようと)ことぐく焼け死にぬ。それよりしてこそあまの村雲の剣をば草薙(くさなぎ)の剣(けん)とも名づけられけれ。尊猶(なほ)おくへせめいッて、 三箇年(さんがねん)が間(あひだ)、所々(ところどころ)の賊徒(ぞくと)をうちたひらげ、国々の凶党(きやうたう)をせめしたがへて、のぼらせ給ひけるが、道より御悩(ごなう)つかせ給ひて、 御とし卅(さんじふ)と申す七月に、尾張国熱田(おはりくにあつた)のへんにてつひにかくれさせ給ひぬ。其(その)たましひは白き鳥となって天にあがりけるこそふしぎなれ。いけどりのえびす共をば、御子(おんこ)たけひこの尊をもって御門(みかど)へ奉らせ給ふ。草薙の剣をば熱田の社(やしろ)にをさめらる。あめの御門の御宇(ぎよう)七年に、新羅(しんら)の沙門道行(しやもんだうぎやう)、この剣をぬすんで吾国(わがくに)の宝とせむと思って、ひそかに舟にかくしてゆく程に、波風巨動(こどう)して忽(たちま)ちに海底に沈まんとす。すなはち霊剣のたたりなりとして、罪を謝(しや)して先途(せんど)をとげず、もとのごとくかへしをさめ奉る。しかるを天武天皇朱鳥元年(しゆてうぐわんねん)に、これを召して内裏におかる。いまの宝剣是なり。御霊威(ごれいゐ)いちはやうまします。陽成院狂病(やうぜいゐんきやうびやう)にをかされさせましまして、霊剣をぬかせ給ひければ、夜のおとどひらひらとして、電光にことならず。恐怖(きやうふ)のあまりに投げすてさせ給ひければ、みづからはたとなッて鞘(さや)にさされにけり。上古(しやうこ)にはかうこそめでたかりしか。「たとひ二位殿(にゐどの)腰にさして海に沈み給ふとも、たやすううすべからず」とて、すぐれたるあまうどどもを召して、かづきもとめられけるうへ、霊仏霊社にたッとき僧をこめ、種々の神宝(じんぽう)をささげて、いのり申されけれども、つひにうせにけり。其時の有識(いうしよく)の人々申しあはれけるは、「昔天照太神(てんせうだいじん)、百王(はくわう)をまもらむと御(おん)ちかひありける。其御ちかひいまだあらたまらずして、石清水(いはしみづ)の御流(おんながれ)いまだつきせざるがゆゑに、天照太神の日輪の光いまだ地におちさせ給はず。末代澆季(まつだいげうき)なりとも、帝運(ていうん)のきはまる程の御事はあらじかし」と申されければ、其なかにある博士(はかせ)のかんがへ申しけるは、「むかし出雲国簸河上(ひのかはかみ)にて、素戔鳥(そさのを)の尊(みこと)にきりころされたてまつし大蛇(だいじや)、霊剣を惜しむ心ざしふかくして、八(や)つの頭、八(や)つの尾(を)を表事(へうじ)として、人王(にんわう)八十代の後(のち)、八歳の帝(みかど)となッて霊剣をとりかへして、海底に沈み給ふにこそ」と申す。千尋(ちひろ)の海の底、神竜(しんりやう)の宝(たから)となりしかば、ふたたび人間(にんげん)にかへらざるも理(ことわり)とそおぼえけれ。

現代語訳

天村雲剣は、崇神天皇から景行天皇までの三代の間は、天照大神の社壇に崇め置かれていたが、景行天皇の御代四十年六月に東国の蝦夷(えぞ)が反乱を起したので、皇子の日本武(やまとたける)の尊(みこと)が精神力・御力ともに優れておられたので、反乱を治めるため特別に選ばれて東国へお下りになった時、天照大神へ参拝されて御暇(おいとま)申し上げられたが、景行天皇の御妹いつきの尊をもって、「謹んで任務を全うし怠ってはならぬ」と言って、霊剣を尊にお授けになる。それから駿河国にお下りになったが、そこの賊徒等が、「この国には鹿がたくさんおりますので。狩りをして遊んでください」と言って、騙してお誘い申し上げ、野に火を放ってすんでのところで焼き殺し申しあげようとしたが、尊が差しておられた霊剣を抜いて草を薙がれると、剣の刃の向いた一里以内の所は草がみんな薙ぎ倒された。帝が又こちらから火を出されたところ、風がたちまち異賊の方へ吹いて、覆い被さり、凶徒はことごとく焼け死んだ。それ以来天村雲の剣を草薙ぎの剣と名付けられた。尊はさらに奥地へ攻め入って、三年の間、いろんな所の賊徒を討ち平らげ、国々の凶徒等を攻め従えて、京都へお上りになられたが、途中から病気にかかられ、御歳三十になられた七月に、尾張国の熱田の辺りで遂にお隠れになった。その魂が白い鳥になって天にあがっていったのは不思議な事であった。生け捕りにした蝦夷の者共を、御子武彦尊(たけひこのみこと)を通して帝へ献上なさる。草薙ぎの剣は熱田の社に納められる。天智天皇の御代の七年に、新羅の僧道行が、この剣を盗んで我が国の宝にしようと思って、秘かに舟に隠していく新羅へ帰る途中、波や風が激しく打ち寄せ、吹き荒れたので、たちまち海底に沈もうとする。これはすなわち霊剣の祟りだという事で、罪を誤り、目的を果たさず、元のように返し納め申し上げる。ところが天武天皇の朱鳥(しゅちょう)元年に、これを召して内裏に置かれる。陽成院が精神病に冒されなさって霊剣を抜かれると、夜の内裏の内がぴかぴかとひらめいて、雷光と違わない。恐ろしさのあまり剣を投げ棄てられたところ、剣が自分からはたと鳴って鞘にささったのだった。上古にはこのようにすばらしかったのだ。「たとえ二位殿が腰に差して海にお沈みになられても、簡単に無くなることはなかろう」と言って、健康な海女共を召して潜って探すように求められたうえ、霊仏霊社に高貴な僧を閉じ籠め、種々の神宝を供えて、祈り申されたが、ついに草薙剣は見つからなかった。その頃の物知りの人々が申し合われたのは、「昔天照大神が代々の天皇を守ろうと御誓をたてられた。その御誓はまだあらたまらずに、石清水(応神天皇)の御血統がいまだ尽きない上に、天照大神の御威光はいまだお衰えにもならない。末代に仏法が衰え、道徳の行われない世であったとしても、御門の運が尽きるという事は無いであろう」と申されたので、その中にいたある博士が考えを申すには、「昔、出雲国簸河上(いずものくにひのかわかみ)で、素戔鳥尊(すさのおのみこと)に斬り殺されもうした大蛇の、霊剣を惜しむ志が強く、八つの頭、八つの尾を表すしるしとして、人王八十代の後、八歳の帝となって霊剣を取り返して、海底にお沈みになられたのに違いない」と申した。千尋の海の底で神竜の宝になったので、再び人間界に返らないのも道理と思われた。

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朗読・解説:左大臣光永