平家物語 百七十ニ 一門大路渡(いちもんおほちわたし)

本日は平家物語巻第十一より「一門大路渡(いちもんおほちわたし)」。 壇ノ浦の戦いで生捕りになった平家の人々が都に入り、大路を引き回されます。

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あらすじ

平家が連れ去った二の宮(高倉天皇の第二皇子守貞親王。「山門御幸」で平家に連れ去られる)が都へ帰還し、人々は喜ぶ。

元暦二年三月二十六日、大臣殿(宗盛)、その子右衛門督を始め壇ノ浦で生捕りになった平家の人々が都へ入る。宗盛はすっかり痩せ衰え華やかりし頃の面影もない。

大勢の見物人が押し寄せる。時勢におもねって源氏についた者が多かったが、それでも長年平家の恩を受けてきた人も多く、涙を流す。

長年宗盛に仕えてきた牛飼の三郎丸は最後の奉公をさせてほしいと義経に願い出て許され、宗盛の車を引く。

法皇は六条東の洞院に車を立ててご覧になっていた。朝敵とはいえかつては側近く仕えていた平家一門がこのようなことになり、法皇や供の人々は哀れに思う。

宗盛父子は京中を引かれた後、義経の宿所に連行される。右衛門督を労わる宗盛の姿を見て、守護の武士たちも涙を流すのだった。

原文

さる程に、二の宮かへりいらせ給ふとて、法皇より御(おん)むかへに御車(おんくるま)を参らせらる。御心(おんこころ)ならず平家にとられさせ給ひて、西海(さいかい)の浪(なみ)の上にただよはせ給ひ、三年(みとせ)をすごさせ給ひしかば、 御母儀(おぼぎ)も御(おん)めのと持明院(ぢみやうゐん)の宰相(さいしやう)も御心苦しき事に思はれけるに、別の御事なくかへりのぽらせ給ひたりしかば、さしつどひてみな悦泣(よろこびなき)どもせられける。

同(おなじき)廿六日、平氏のいけどりども京へいる。みな八葉(はちえふ)の車にてぞありける。前後の簾(すだれ)をあげ、左右(さう)の物見をひらく。大臣殿(おほいとの)は浄衣(じやうえ)を着給へり。右衛門督(うゑもんのかみ)は白き直垂(ひたたれ)にて車のしりにぞ乗られたる。平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)の車同じくやりつづく。子息讃岐(さぬき)の中将時実(ちゆうじやうときざね)も同車(どうしや)にてわたさるべかりしが、現所労(げんじよらう)とてわたされず。内蔵頭信基(くらのかみのぶもと)は疵(きず)をかうぶッたりしかば、閑道(かんだう)より入りにけり。大臣殿、さしも花やかにきよげにおはせし人の、あらぬ様(さま)にやせ衰へ給へり。されども四方見めぐらして、いと思ひ沈めるけしきもおはせず。右衛門督はうつぶして目も見あげ給はず、誠に思ひいれたるけしきなり。土肥次郎実平(とひのじらうさねひら)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)ばかりして、随兵卅余騎(ずいびやうさんじふよき)、 車の先後(ぜんご)にうちかこンで守護し奉る。見る人、都のうちにもかぎらず、凡(およ)そ遠国近国(ゑんごくきんごく)、山々寺々より、老いたるも若きも来(きた)りあつまれり。鳥羽(とば)の南の門、つくり道、四塚(よつづか)までひしとつづいて、幾千万といふかずを知らず。人は顧(かへりみ)る事をえず、車は輪(わ)をめぐらす事あたはず。治承(ぢしよう)、養和(やうわ)の飢饉(ききん)、東国(とうごく)、西国(さいこく)のいくさに、人だねほろびうせたりといへども、猶(なほ)のこりはおほかりけりとぞ見えし。都を出でてなか一年、無下(むげ)にまぢかき程なれば、めでたかりし事も忘られず。さしもおそれをののきし人の今日(けふ)の有様、夢うつつともわきかねたり。心なきあやしの賤(しづ)のを、賤のめにいたるまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけり。ましてなれちかづきける人々の、いかばかりの事をか思ひけん。年来重恩(ねんらいぢゆうおん)をかうむり、父祖(ふそ)のときより祗候(しこう)したりし輩(ともがら)の、さすが身のすてがたさに、おほくは源氏についたりしかども、昔のよしみたちまちに忘るべきにもあらねば、さこそはかなしう思ひけめ。されば袖をかほにおしあてて、目を見あげぬ者もおほかりけり。

大臣殿(おほいとの)の御牛飼(おんうしかひ)は、木曾(きそ)が院参(ゐんざん)の時、車やり損じてきられにける次郎丸がおとと三郎丸なり。西国にてはかり男になッたりしが、今一度大臣殿の御車(おんくるま)を仕(つかまつ)らんと思ふ心ざしふかかりければ、鳥羽にて判官(はうぐわん)に申しけるは、「舎人(とねり)、牛飼なンど申す者は、いふかひなき下臈(げらふ)のはてにて候(さうら)へば、心あるべきでは候はねども、年ごろ召しつかはれ参らせて候御心(さうらふおんこころ)ざしあさからず。しかるべう候はば、御(おん)ゆるされをかうぶッて、大臣殿の最後の御車を仕り候はばや」とあながちに申しければ、判官、「子細あるまじ。とうとう」とてゆるされける。なのめならず悦びて、尋常(じんじやう)にしやうぞき、ふところより遣縄(やりなは)とりいだしつけかへ、涙にくれてゆくさきも見えねども、袖をかほにおしあてて、牛のゆくにまかせつつ、泣く泣くやッてぞまかりける。

現代語訳

さて二の宮がお帰りになられるということで、法皇から御迎えの御車を差し向けられる。御心ならずも平家に捕われの身となられて、西海の波の上に漂われて、三年をお過ごしになられたので、御母君(七条院殖子)も御乳母持明院(じみょういん)の宰相も御心苦しく思われていたが、特別変った事も無く都へお帰りになったので、皆集まって喜び泣きなどなされた。

同月二十六日、平家の生け捕られた者共が都へ入る。みな小八葉(こばちよう)の車に乗せられていた。前後の簾(すだれ)を上げ、左右の物見を開く。大臣殿は浄衣を着ておられる。右衛門督(うえもんのかみ)は白い直垂を着て車の後ろに乗られていた。平大納言時忠卿の車は同じように続いている。子息讃岐(さぬき)の中将時実(ちゅうじょうときざね)も同じように車で引き回されるべきであったが、現在病気中だという事で引き回されはしなかった。内蔵頭信基(くらのかみのぶもと)は傷を負っていたので、裏道から入った。大臣殿は、あれほど華やかで清潔にしておられたのに、別人のように痩せ衰えておられた。それでも四方を見回して、それほど物思いに沈んでおられるようでもない。右衛門督はうつ伏せになって目も上げようともなさらない。真に物思いに沈んだ様子である。土肥次郎実平は、木蘭地の直垂を植えに籠手や脛当てなどの小さい武具を着けただけで付従う軍兵(ぐんぴやう)三十余騎を連れ、車の前後を囲んでお守り申し上げる。見物する人は都人だけにとどまらず、およそ遠国・近国、山々や寺々より、老人も若者も集まって来ている。群集は鳥羽離宮の南門や作り道、四塚の辺りまでひしめきあって続いており、その数は幾千万かもわからない。人は後ろを振り返ることもできず、車は車輪を回して進む事もできない。治承、養和の飢饉や東国や西国での戦で、大勢の人が亡くなりいなくなったが、それでも生き残った者は多かったのだと見えた。平氏は都を出てなか一年、つい近頃のことなので、繁栄していた時のすばらしい有様が忘れらない。あれほど恐れ慄いて接していた平家の人達の今日の有様は夢か現実か区別もできないほどであった。人情を解せぬ卑しい身分の男女に至るまで、涙を流し袖を絞らぬ者はいなかった。まして平家と親交を結んで近付きとなっていた人々は、どれほど悲しく思われたのだろうか。長年平家の重恩を蒙り、父祖の時から謹んでお仕えした連中が、さすがに自分の身を捨てる事もできないので、多くの者は源氏についたが、昔からの平家とのよしみは急に忘れられるものでもないので、さぞかし悲しく思われたのであろう。それで袖を顔に押し当てて、目を上げない者も多かった。

大臣殿の御牛飼童は、木曽義仲が院参したとき、牛車(ぎっしゃ)を走らせ損なって斬られた次郎丸の弟三郎丸である。西国では童姿を改め、仮に元服して成人の男の姿になっていたが、もう一度大臣殿の御車の牛飼いを勤めたいという思いが深かったので、鳥羽で判官に申すには、「舎人、牛飼いなどと申す者は、言ってもしかたのない下臈の果てでございますので、心ある者ではございませんが、長年召し使われ申した主人への思いは浅くはありません。さしつかえないなら、お許しを頂いて、大臣殿の最後の御車のお供をしとうございます」といちずに申したので、判官は、「問題はなかろう。さあさあ」と言ってお許しになった。三郎丸はひとかたならず喜んで、立派に装束を着て、懐から遣縄(やりなわ)を取り出して牛に付け替え、涙に暮れて行く先も見えなかったが、袖を顔に押し当てて牛のゆくままにまかせて、泣く泣く車を進めて行った。

原文

法皇は六条東洞院(ろくでうひんがしのとうゐん)に御車をたてて叡覧(えいらん)あり。公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)の車ども、同じうたてならべたり。さしも御身(おんみ)ちかう召しつかはれしかば、法皇もさすが御心よわう、あはれにぞおぼしめされける。供奉(ぐぶ)の人々はただ夢とのみこそ思はれけれ。「いかにもしてあの人にめをもかけられ、詞(ことば)の末にもかからばやとこそ思ひしかば、かかるべしとは誰(たれ)か思ひし」とて、上下涙をながしけり。一年内大臣(ひととせないだいじん)になッてよろこび申(まうし)し給ひし時は、公卿には花山院(くわさんのゐん)の大納言をはじめとして十二人扈従(こしよう) してやりつづけ給へり。 殿上人には蔵人頭親宗以下(くらんどのとうちかむねいげ)十六人前駆(せんぐ)す。公卿も殿上人も今日(けふ)を晴(はれ)ときらめいてこそありしか。 中納言四人(しにん)、三位中将(さんみのちゆうじやう)も三人までおはしき。やがてこの平大納言(へいだいなごん)も其時は左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしき。御前(ごぜん)へ召され参らせて、御引出物(おんひきでもの)給はッて、もてなされ給ひし有様(ありさま)、めでたかりし儀式ぞかし。今日(けふ)は月卿雲客一人(げつけいうんかくいちにん)もしたがはず。同じく壇の浦にていけどりにせられたりし侍共廿余人、白き直垂(ひたたれ)着て馬の上(うへ)にしめつけてぞわたされける。

河原(かはら)までわたされて、かヘッて、大臣殿父子(おほいとのふし)は九郎判官(くらうはうぐわん)の宿所、六条堀河(ろくでうほりかは)にぞおはしける。御物(おんもの)参らせたりしかども、 むねせきふさがッて、御箸(おはし)をだにもたてられず。たがひに物は宣(のたま)はねども、目を見あはせてひまなく涙をながされけり。よるになれども装束(しやうぞく)もくつろげ給はず、袖をかたしいてふし給ひたりけるが、御子右衛門督(おんこうゑもんのかみ)に御袖(おんそで)をうち着せ給ふを、まぼり奉る源八兵衛(げんぱちびやうゑ)、江田源三(えだのげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)これを見て、「あはれたかきもいやしきも、恩愛の道程かなしかりける事はなし。御袖を着せ奉りたらば、いく程の事あるべきぞ。せめての御心ざしのふかさかな」とて、たけきもののふどもも、みな涙をぞながしける。

現代語訳

法皇は六条東洞院に御車を停めて御覧になる。公卿や殿上人の車どもも、同じように並べて停めている。(宗盛らは)あれほど近臣として御身近くに召し使われていた者たちであったから、法皇もさすがに御心が痛み、哀れに思われた。お伴の人々はただ夢ではないかと思われた。「どうにかしてあの人に目をかけられ、言葉の端にもかかりたいものだと思っていたところ、こんな事になるとは誰が思ったことだろう」と言って、身分の上下を問わず涙を流された。先年宗盛が内大臣になって喜ばれていた時は、公卿では花山院の大納言を始めとして十二人がお供をして車を続けて進まれた。殿上人では蔵人頭親宗以下十六人がその前を進まれる。公卿も殿上人も今日こそはと晴れやかに着飾っていたのである。このとき参内したのは、中納言では四人、三位中将も三人までおられた。やがてこの平大納言もその時は左衛門督(さえもんのかみ)でおられたが御前へ召され申して、御引出物を頂いて、もてなしをお受けになった有様など、おめでたい儀式であった。今日は公卿、殿上人一人も従わない。同じように壇の浦で生捕りにされた侍共が二十余人、白い直垂を着せられ、馬の上に縛り付けられて引き回された。

大臣殿父子は加茂の河原迄引き回され、そこから引き返して、九郎判官の宿所、六条堀河におられた。お食事をさしあげたが、胸が詰まって御箸さえお取りにならない、互いに物はおっしゃらないのだが、目を見合せて、とめどなく涙を流された。夜になっても装束をおくつろぎにもならず、片袖を敷いて伏されたが、御子右衛門督に御袖をお着せになるのを、お守り申している源八兵衛、江田源三、熊井太郎がこれを見て、「ああ、身分の高い者も卑しい者も、親子の愛情程悲しいものはない。御袖をお着せしたからといって、どれほどの事があろうか。せめてもの親の愛情の深さの表れだな」と言って、勇猛な武士どもも、みな涙を流したのだった。

朗読・解説:左大臣光永