平家物語 百七十三 鏡(かがみ)

原文

同廿八日(おなじきにじふはちにち)、鎌倉の前兵衛佐頼朝朝臣(さきのひやうゑのすけよりとものあつそん)、従二位(じゆにゐ)し給ふ。 越階(をつかい)とて二階(にかい)をするこそありがたき朝恩なるに、これはすでに三階(さんかい)なり。三位(さんみ)をこそし給ふべかりしかども、平家のし給ひたりしを忌(いま)うてなり。

其夜の子剋(ねのこく)に内侍所(ないしどころ)、太政官(だいじやうぐわん)の庁より温明殿(うんめいでん)へいらせ給ふ。主上行幸(しゆじやうぎやうがう)なッて、三(さん)が夜(よ)臨時の御神楽(みかぐら)あり。右近将監多好方(うこんのしやうげんおほのよしかた)、別勅(べつちよく)を承ッて、家につたはれる弓立(ゆだち)、宮人(みやびと)といふ神楽の秘曲を仕(つかま)ッて、勘賞(かんじやう)かうぶりけるこそ目出たけれ。この歌は祖父八条判官資忠(そぶはちでうのはうぐわんすけただ)といッし伶人(れいじん)の外(ほか)は知れる者なし。あまりに秘して子の近方(ちかかた)にはをしへずして、堀河天皇(ほりかはてんわう)御在位の時つたへ参らせて死去したりしを、君(きみ)近方にをしへさせ給ひけり。道をうしなはじとおぼしめす御心ざし、感涙おさへ難し。

抑(そもそも)内侍所と申すは、昔天照太神(てんせうだいじん)、天の岩戸に閉ぢこもらむとせさせ給ひし時、いかにもして我御(わがおん)かたちをうつしおきて、御子孫(ごしそん)に見せ奉らんとて、御鏡(おんかがみ)を鋳(い)給へり。これなほ御心(おんこころ)にあはずとて又鋳かへさせ給ひけり。さきの御鏡(おんかがみ)は紀伊国日前国懸(きのくににちぜんこくけん)の社(やしろ)是なり。後(のち)の御鏡は御子天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)にさづけ参らせさせ給ひて、「殿(てん)を同じうして住み給へ」とぞ仰せける。さて天照太神、天の岩戸に閉ぢこもらせ給ひて、天下くらやみとなッたりしに、八百万代(やほよろづよ)の神たち神(かみ)あつまりにあつまッて、岩戸の口にて御神楽(みかぐら)を奏し給ひければ、天照大神感(かん)にたへさせ給はず、岩戸をほそめにひらき見給ふに、互(たがひ)にかほの白く見えけるより面白(おもしろ)といふ詞(ことば)ははじまりけるとぞ承る。其時児屋根手力雄(こやねたぢからを)といふ大力(だいぢから)の神寄ッて、ゑいといひてあけ給ひしよりしてたてられずといへり。さて内侍所は、第九代(くだい)御門開化天皇(みかどかいくわてんわう)の御時(おんとき)までは一(ひと)つ殿(てん)におはしましけるを、第十代の御門崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及ンで、霊威におそれて、別(べつ)の殿(てん)へうつし奉らせ給ふ。ちかごろは温明殿(うんめいでん)におはします。遷都(せんと)、遷幸(せんかう)の後百六十年をへて、村上天皇(むらかみてんわう)の御宇、天徳四年九月廿三日の子剋(ねのこく)に、内裏(だいり)なかのへにはじめて焼亡(ぜうまう)ありき。火は左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)よりいできたりければ、内侍所のおはします温明殿もほどちかし。如法夜半(によほふやはん)の事なれば、内侍も女官(によくわん)も参りあはずして、賢所(かしこどころ)をいだし奉るにも及ばず。小野宮殿(をののみやどの)いそぎ参らせ給ひて、「内侍所すでに焼けさせ給ひぬ。世は今はかうごさんなれ」とて御涙(おんなみだ)をながさせ給ふ処(ところ)に、内侍所はみづから炎のなかをとびいでさせ給ひ、南殿(なんでん)の桜の梢(こずゑ)にかからせおはしまし、光明かくやくとして、朝(あした)の日の山の端(は)を出づるにことならず。其時小野宮殿、「世はいまだうせざりけり」とおぼしめすに、よろこびの御涙せきあへさせ給はず。 右の御膝(おんひざ)をつき、左の御袖(おんそで)をひろげて、泣く泣く申させ給ひけるは、「昔天照太神百王(はくわう)をまぼらんと御(おん)ちかひありける、其御誓(おんちかひ)いまだあらたまらずは、神鏡実頼(しんきやうさねより)が袖に宿らせ給へ」と申させ給ふ御詞(おんことば)のいまだ終らざるさきに、飛びうつらせ給ひけり。すなはち御袖につつんで、太政官の朝所(あいたんどころ)へわたし奉らせ給ふ。ちかごろは温明殿におはします。この世にはうけとり奉らんと思ひよる人も誰(たれ)かはあるべき。神鏡も又宿らせ給ふべからず。上代(じやうだい)こそ猶(なほ)も目出たけれ。

現代語訳

同月二十八日、鎌倉の前兵衛佐頼朝朝臣(さきのひょうえのすけよりともあっそん)を従二位になさる。越階(えっかい)といって二階級の昇進をするのは有り難い朝廷の御恩であるのに、これはすでに三階級の昇進である。三位になられるはずであったが、平家が正四位から正三位になられた事を忌み嫌ってのことである。

その夜の午前零時ごろに内侍所が太政官の庁舎から温明殿(うんめいでん)へお入りになる。天皇が行幸なさって、三日の間、臨時の夜御神楽があった。右近将監多好方(うこんのしょうげんおおのよしかた)が天皇の特別の命を受けて、伝家の「弓立(ゆだち)」、「宮人(みやびと)」という神楽の秘曲を奏して、お誉めの賞品を授与されたのは目出たいことであった。この歌は祖父の八条判官資忠(すけただ)という楽人以外知っている者はいない。あまりにも秘密にしており子供の近方には教えないで、堀河天皇御在位の時にお伝え申して死去したので、それを堀河天皇が近方に教えられた。音楽の道を絶えさせまいとお思いになる天皇の御心ざしには、感激の涙をおさえることができない。

そもそも内侍所と申すのは、昔天照大神が天の岩戸に閉じ籠ろうとなさった時、どうあっても自分の御顔かたち写しておいて、御子孫に見せ申そうと、御鏡を鋳造なさった。ところがこの御鏡は御心に会わないと言って又作り直された。最初の御鏡は紀伊国の日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)の社の神体がこれである。後の御鏡は御子天忍穂耳尊(おんこあまのおしほみみのみこと)にお授けになられて、「この鏡と同じ御殿にお住みなさい」と仰せられた。そして天照大神は天の岩戸に閉じ籠られて、天下が暗闇になったので、八百万代(やおよろずよ)の神たちが集まって、岩戸の入り口で御神楽を奏されたので、天照大神は感激に堪える事がおできにならず、岩戸を細目に開いて御覧になると、互いに顔がほの白く見えたことから面白(おもしろ)という言葉は始まったという事である。その時児屋根手力雄(こやねたじからお)という大力の神が岩戸に近付いて、「えいっ」と言って開けられたが、その時からこの岩戸は閉じられないということである。さて内侍所は、第九代の御門開花天皇(かいかてんのう)の御時までは天皇と同じ御殿に住まわれていたが、第十代の御門崇神天皇(すじんてんのう)の時代になって、神鏡の霊威を怖れて、別の御殿へお移し申し上げる。近頃は温明殿(うんめいでん)に安置されていらっしゃいます。桓武天皇の平安遷都から百六十年を経て、村上天皇の時代、天徳四年九月二十三日の午前零時頃に、大内裏の中の皇居で初めて火事があった。火は左衛門府の武官の詰所から出たので内侍所が鎮座される温明殿にも近い。全くの夜半の事なので、内侍も女官も皇居に來ることができず賢所(神鏡)を外へお出し申し上げることもできない。小野宮殿が急いで参内なさって、「内侍所はもう焼けてしまわれました。世の中は今はもうこれまでだな」と言って、御涙をお流しになっていると、内侍所は自分から炎の中から飛び出され、南殿(紫宸殿)の桜の梢にかかっておられて、きらきらと光輝き、朝日が山の端から上ってくるのと違いがない。その時小野宮殿は、「世はまだなくならなかったのだ」と思われ、悦びの御涙をお止になることができない。右の恩膝を突き、左の御袖をを広げて、泣く泣く申しあげられたのは、「昔天照大神は歴代の天皇を守ろうとお誓いになった。その御誓がいまだにあらたまらないなら、神鏡よ、実頼の袖にお宿りください」とお申しになられた御詞がまだ終わらないうちに、内侍所は実頼の袖の中に飛び移られた。それから御袖に包んで、太政官の朝所(あいたんどころ)へお移し申し上げる。最近は温明殿に鎮座されております。今の世では、神鏡をお受け取り申しあげようと考える人も誰もいないだろう。神鏡もまたそういう人の所へは宿ろうとはなさらないだろう。上代はやはりめでたい世に中であった。

朗読・解説:左大臣光永