宇治拾遺物語 1-9 宇治殿倒れさせ給ひて、実相房僧正(じつそうばうそうじやう)、験者(げんざ)に召さるる事

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原文

これも今は昔、高陽院(かやのゐん)造らるる間、宇治殿御騎馬(おんのりうま)にて渡らせ給ふ間(あひだ)、倒れさせ給ひて心地 違(たが)はせ給ふ。心誉僧正(しんよそうじやう)に祈られんとて召しに遣はす程に、いまだ参らざる先に、女房の局(つぼね)なる女に物憑(ものつ)きて申して曰(いは)く、「別(べち)の事にあらず。きと目見入れ奉るによりてかくおはしますなり。僧正参られざる先に、護法(ごほふ)先だちて参りて追ひ払ひ候(さぶら)へば、逃げをはりぬ」とこそ申しけれ。即(すなは)ち、よくならせ給ひにけり。心誉僧正いみじかりけるとか。

現代語訳

これも今では昔の事になりますが、高陽院(かやのゐん)が造られる時、宇治殿が御騎馬でお通りになったところ、お倒れになって、気分がひどく悪くなられた。病気平癒のため、心誉僧正(しんよそうじやう)に加持祈祷を願おうと、お召しの使いをお出しになったところ、僧正がまだ参上しないうちに女房の部屋住みの童女に霊が乗り移って言うには「ほかでもない。ちょっと見つめ申し上げたためにこのように良くなられたのです。僧正が参られる前に護法童子が先にきて悪霊を追い払いましたので、逃げてしまいました」と申された。お加減はすぐに良くなられた。心誉僧正はまことにたいした験者であったとかいう。

語句

■験者-加持祈祷(きとう)を行い,すぐれた功徳を引き出せる僧。また,加持祈祷を行う僧。 修験道の行者。山伏。修験者。■高陽院(かやのゐん)-桓武天皇の皇子賀陽親王の旧邸。京都市上京区。中御門南、堀川の東、南北方二町の地にあった。ここは、治安元年(1021)の藤原頼通による大改築の折を指す。その新邸は壮麗をきわめたといわれる。■宇治殿-藤原頼通(992~1074)。道長の長子。後一条・後朱雀・後冷泉天皇三代の摂政・関白を歴任。■心地違わせ-意識を失うような状態。■心誉僧正(しんよそうじやう)-左衛門佐藤原重輔の子、天台の穆算僧正・扶公僧都らに師事した。実相房僧正(971~1029)とも呼ばれた。道長の招請により、この翌年の治安二年、法成寺の執務に就任する。■女房の局-頼通に仕える女官の部屋付きの女童をさすものと思われる。■局-建物の中をいくつかに仕切って設けた部屋。■物-ある物の怪。■護法-仏法や仏法に仕える者を守護するために験者に使役される童子。ここは心誉の験力で派遣された。

備考・補足

■加持祈祷-密教の行法に始まり、民間にも広まった祈祷の形態。神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること。

■病気は何かの霊によって引き起こされるものと考えられていた当時、仏法の験力による加持祈祷こそは最高の治療法とされた。前話では易占いの力の不思議が語られたのに続き、本話では心誉の験力の不思議が語られる。

■この説話における心誉は、自らその場面に臨まなくとも、ただ、護法童子を遣わしただけで、みごとに貴人の病気を治したというのである。本書に先立って、『富家語(ふけご)』一三六や『古事談』三には、ほぼ同じように記されている。『宝物集』の諸本によると、頼通が具平親王の霊にとりつかれた時に、心誉などの験者や陰陽師は、どうしてもこれを助けることができないで、父の道長が『法華経』を読んで、ようやくその霊を退ける事ができたという。

朗読・解説:左大臣光永