宇治拾遺物語 2-3 同僧正、大嶽の岩祈り失ふ事

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原文

今は昔、静観僧正(じやうくわんぞうじやう)は西塔(さいたふ)の千手院といふ所に住み給へり。

その所は南に向ひて大嶽(おほたけ)をまもる所にてありけり。大嶽の乾(いぬゐ)の方(かた)のそひに大きなる巌あり。その岩の有様、竜の口をあきたるに似たりけり。その岩の筋に向ひて住みける僧ども、命もろくして多く死にけり。しばらくは、「いかにして死ぬるやらん」と心も得ざりける程に、「この岩のある故ぞ」と言ひ立ちにけり。この岩を毒竜の巌とぞ名でけたりする。これによりて西塔の有様ただ荒れにのみ荒れまさりけり。この千手院にも人多く死にければ、住み煩ひけり。この巌を見るに、まことに竜の大口をあきたるに似たり。「人の言ふことはげにもさありけり」と僧正思ひ給ひて、この岩の方に向ひて七日七夜加持し給ひければ、七日といふ夜半(よは)ばかりに、空曇り、震動することおびただし。大嶽に黒雲かかりて見えず、しばらくありて空晴れぬ。夜明け、大嶽を見れば、毒竜巌砕けて散り失せにけり。それより後、西塔に人住みけれども、祟(たた)りなかりけり。

西塔の僧どもは、件(くだん)の座主(ざす)をぞ今にいたるまで貴(たふと)み拝みけるとぞ伝えたる。不思議の事なり。

現代語訳

今では昔のことになるが、静観僧正は比叡山西塔の千光院という所にお住まいであった。その場所は南に大比叡の峰を臨む場所にあった。大比叡の峰の西北の険しい斜面に大きな岩がある。その岩の姿は、さながら竜が口をあけた様子に似ていた。その岩の筋向いに住んでいた僧たちは、寿命が短く多くの者たちが死んだ。しばらくの間は、「どうして死ぬのだろううか」と理解できないでいると、「この岩があるためだぞ」と僧たちが言い出した。それで、この岩を毒竜の岩と名づけたのだそうだ。これによって西塔のあたりは荒れ放題に荒れていくばかりであった。この千手院でも多くの人が死んだので、住む者は思い悩んでいた。この岩を見ると、本当に竜が大口を開けた姿に似ている。「世間の人がいう事はいかにもその通りであった」と僧正は思われて、この岩の方に向かって七日七夜の加持祈祷をなされると七日目の夜半頃に、空がかき曇り、おびただしく大地が震動した。大比叡の峰には黒雲がかかって見えない。しばらくすると空が晴れた。夜が明けて大比叡を見ると、毒竜岩は砕け散って跡形もなかった。それから後は、西塔に人が住んでも何の祟(たた)りもなかった。

西塔の僧どもは、この天台の座主を今に至るまで尊び、拝んだと語り伝えている。不思議なことだ。

語句

■千手院-最澄の本願による千手堂か。『諸門跡譜』『僧官補任』などは、増命が千手院に住んだとする。しかし、斉衡(さいぎょう)二年(855)、十三歳で比叡山に登った増命は、最初、西塔の千光院の延最に師事、得度しているので、ここも『天台座主記』所見のように千光院と見る事もできなくはない。

■大嶽-比叡連山の最高峰である大比叡(海抜848メートル)。■乾の方のそひ-西北の険しい斜面。「そひ」はきわ、ほとり。■人のいふ事はげにもさありけり-僧たちの死因は「この岩のある故ぞ」というひ評判は、実際そのとおりだったのだ。、との納得。■七日七夜-『日本往生極楽記』増命伝では、祈念の期間を「三日」とする。■加持-真言密教の加持祈祷。印を結び、金剛杵(こんごうしょ)などを用い、陀羅尼(呪文)を唱えて、厄災・病魔を除くために仏力の加護を祈ること。■散り-『日本往生極楽記』増命伝では、この岩の片石が路傍に現存している事実性を強調する。

■件(くだん)の座主を云々-静観僧正を指す。彼が第十代の天台座主に就任したことになる。

備考・補足

■得度-仏教における僧侶となるための出家の儀式。■出家-家を出て仏道の生活にはいること。また、その人。僧。

■前話が竜神の助力によってはげしい雨を降らせた不思議の事であるのに対し、本話は雷神の助力によって毒竜の巌を粉砕した不思議の事として連絡し、増命の法験示現話として共通している。なお本話と同じ出来事は諸書に取り上げられているが、『扶桑略記』は、寛平三年(891)夏月の事(宇多天皇の治世)としている。

朗読・解説:左大臣光永