宇治拾遺物語 2-14 柿の木に仏(ほとけ)現ずる事

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昔、延喜(えんぎ)の御門(みかど)の御時、五条の天神のあたりに、大(おほ)きなる柿の木の実ならぬあり。その木の上に仏現れておはします。京中の人こぞりて参りけり。馬、車も立てあへず、人もせきあへず、拝みののしりけり。

かくする程に、五六日あるに、右大臣殿心得ず思(おぼ)し給ひける間(あひだ)、「まことの仏の、世の末に出で給ふべきにあらず。我行きて試しみん」と思して、日(ひ)の装束(さうぞく)うるはしくして檳榔(びりやう)の車に乗りて、御先(おんさき)多く具(ぐ)して、集りつどひたる者ども退(の)けさせて、車かけはづして榻(しぢ)を立てて、梢(こずゑ)を目もたたかず、あからめもせずしてまもりて、一時ばかりおはするに、この仏、しばしこそ花も降らせ、光を放ち給ひけれ、あまりにあまりにまもられて、しわびて、大きなる糞鳶(くそとび)の羽折れたる、土に落ちて惑ひふためくを、童部(わらはべ)ども寄りて打ち殺してけり。大臣(おとど)は「さればこそ」とて帰り給ひぬ。

さて、時の人、この大臣をいみじくかしこき人にておはしますとぞののしりける。

現代語訳

昔、醍醐(だいご)帝の時代に、五条の天神のあたりに大きな実のならない柿の木があった。その木の上には仏が現れておいでになる。京中の人は一人残らず参拝をした。馬、車は立ち止まる隙間もなく、人もせき止められないほどで大騒ぎして拝むのであった。

こうしているうちに五六日過ぎたが、右大臣殿が「どうにも合点がいかぬ」ということで、「本物の仏が世の末に出てこられることがあろうか。自分が行って調べてみよう」と思われ、その日の装束はきちんとした正装を召され檳榔の車に乗って、ご前駆の者を大勢引き連れて、柿の木の周りに集まっていた者どもを退散させ、車から牛を外し、榻(しぢ)を立て、柿の木の梢を瞬きもせず、脇目もふらず見守って、2時間ほどそのままでいらっしゃった。この仏は、しばらくの間花を降らせ、光をも放っておられたが、あまりにも長い間じっと見詰められ、堪えきれなくなって正体を現し、大きな羽の折れた糞鳶となって地上に落下した。それから、糞鳶があわてふためいてバタバタしているのを、子どもたちが寄り集まって打ち殺してしまった。大臣は「やはりにせものだった」ということでお帰りになった。

そこで、当時の人たちが、「まことにかしこい人でおいでになる」この大臣の事を評判し合ったのだ。

語句

■延喜の御門-醍醐天皇(885~930)の治世。寛平九年(897)~延長八年(930)在位。■五条の天神-京都市下京区天神前町(五条の南、西洞院の西)に鎮座する神社。祭神は大己貴神と少彦名神。■実ならぬあり-実のならぬ木には神が宿るとされた。集成は、その例証として「玉島実成らぬ木にはちはやぶる神そつくといふ成らぬ木ごとに(万葉・101)を引く。■あへず-…しきれない。…しようとしてできない。 ■右大臣-『今昔』の同文話によれば、源光(845~913)。菅原道真左遷の後、延喜元年(901)正月に右大臣となっている。■心得ず思し給ひける間-合点がゆかずお思いになったので。■試しみん-調べてみよう。■うるはしくして-きちんと調えて。■檳榔(びりやう)-現代ではビンロウと呼び、太平洋・アジアおよび東アフリカの一部で見られるヤシ科の植物。 中国語では檳榔と書く。種子は嗜好品として、噛みタバコに似た使われ方をされ、ビンロウジという場合は通常この種子を指す。ペナン島の名の由来となった植物である。■檳榔(びりやう)の車-漂泊して細かく裂いた檳榔の葉で屋根をふいた牛車。四位以上の貴族、高僧、女房などが用いた。■御先多く具して-ご前駆の人々を多く連れて。■車かけはずして-車から牛をはずして。■榻(しぢ)-牛を車から外した時、車の轅(ながえ)を乗せる台。昇降時の踏み台にも利用した。■轅-「長柄」。馬車・牛車(ぎっしゃ)などの前方に長く突き出ている2本の棒。先端に軛(くびき)をつけて牛や馬にひかせる。■目をたたかず-まばたきもせず。■あからめもせず-よそ見もしないで。■まもりて-見守って。■おはするに-おいでになると。■しばしこそ-しばらくの間は。■しわびて-堪えきれなくて。■惑ひふためくを-とまどいばたばたするのを。■さればこそとて-やはりにせものだったというので。■ののしける-評判した。

朗読・解説:左大臣光永

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