宇治拾遺物語 3-5 鳥羽僧正、国俊(くにとし)と戯(たはぶ)れの事

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

これも今は昔、法輪院(ほふりんゐん)大僧正覚猷(かくいう)という人おはしけり。その甥(おひ)に陸奥前司(むつのぜんじ)国俊、僧正のもとへ行きて、「参りてこそ候(さぶら)へ」といはせければ、「只今見参(げんざん)すべし。そなたにしばしおはせ」とありければ、待ちゐたるに、二時(ふたとき)ばかりまで出であはねば、生(なま)腹立たしう覚えて、「出でなん」と思ひて、供に具(ぐ)したる雑色(ざふしき)を呼びければ、出(い)で来(き)たるに、「沓持(くつも)て来(こ)」といひければ、持(も)て来たるをはきて、「出でなん」といふに、この雑色がいふやう、「僧正の御坊の、『陸奥殿に申したれば、疾(と)う乗れとあるぞ。その車率(ゐ)て来(こ)』とて、『小御門(こみかど)より出でん』と仰(おほ)せ事(ごと)候ひつれば、『やうぞ候ふらん』とて、牛飼(うしかひ)乗せ奉りて候へば、『待たせ給へと申せ。時の程ぞあらんずる。やがて帰り来(こ)んずるぞ』とて、早う奉りて出でさせ給ひ候ひつるにて候ふ。かうて一時(ひととき)には過ぎ候ひぬらん」といへば、「わ雑色は不覚(ふかく)のやつかな。『御車をかく召しの候ふは』と、我にいひてこそ貸し申さめ。不覚なり」といへば、「うちさし退(の)きたる人にもおはしまさず。やがて御尻切(しきり)奉りて、『きときとよく申したるぞ』と、仰せ事候へば、力及候はざりつる」といひければ、陸奥前司帰り上(のぼ)りて、いかにせんと思ひまはすに、僧正は定まりたる事にて、湯舟(ゆぶね)に藁(わら)をこまごまと切りて一はた入れて、それが上に筵(むしろ)を敷きて、歩(あり)きまはりては、左右(さう)なく湯殿へ行きて裸になりて、「えさい、かさい、とりふすま」といひて、湯舟にさくとのけざまに臥(ふ)す事をぞし給ひける。

陸奥前司、寄りて筵を引きあげて見れば、まことに藁をこまごまと切り入れたり。それを湯殿の垂布(たれぬの)を解きおろして、この藁をみな取り入れてよく包みて、その湯舟に湯桶を下に取り入れて、それが上に囲碁盤(ゐごばん)を裏返して置きて、筵を引き掩(おほ)ひて、さりげなくて、垂布に包みたる藁をば大門(だいもん)の脇(わき)に隠し置きて、待ちゐたる程に、二時(ふたとき)余りありて、僧正、小門(こもん)より帰る音しければ、ちがひて大門へ出でて、帰りたる車呼び寄せて、車の尻(しり)にこの包みたる藁を入れて、家へはやらかにやりて、おりて、「この藁を、牛のあちこち歩(あり)き困(こう)じたるに、食はせよ」とて、牛飼童(うしかひわらは)に取らせつ。

僧正は例の事なれば、衣(きぬ)脱ぐ程もなく、例の湯殿(ゆどの)へ入(い)りて、「えさい、かさい、とりふすま」といひて、湯舟(ゆぶね)へ踊(をど)り入りて、のけざまに、ゆくりもなく臥(ふ)したるに、碁盤(ごばん)の足のいかり差し上(あが)りたるに尻骨(しりぼね)を荒う突きて、年高うなりたる人の、死に入りて、さし反(そ)りて、臥したりけるが、その後音なかりければ、近う使ふ僧寄りて見れば、目を上に見つけて死に入りて寝たり。

「こはいかに」といへど、いらへもせず。寄りて顔に水吹きなどして、とばかりありてぞ息の下におろおろいはれける。この戯(たはぶ)れ、いとはしたなかりけるにや。

現代語訳

これも今は昔、法輪院(ほふりんゐん)大僧正覚猷(かくゆう)という人がおいでになった。その甥で陸奥前司の国俊という者がおり、僧正の所へ行き、「国俊が参上いたしました」と取次の者に言わせると、「只今お会いしましょう。そちらでしばらくお待ちください」という事だったので、待っていたが四時間近くも出ておいでにならない。そこで、国俊は何だかむかっ腹が立って来て、「これ以上待てない。帰ろう」と思って、供に連れて来た下男を呼ぶと、出て来たので、「沓(くつ)を持って来い」と言いつけ、持って来た沓を履いて、「帰ろう」と言うと、この下男が、「僧正様が、『陸奥殿に申したところ急いで乗ってくれと言っているぞ。その車を引いて来い』と言われ、『小門から出よう』と仰せられるので、『事情でもあるのだろう』と思い、牛飼いの童が僧正をお乗せいたしましたところ、『お待ちくださいと陸奥殿に申し上げよ。二時間ほどで戻れるであろう。すぐに帰って来ようぞ』と、とっくにお車にお乗りになって、お出かけになりました。かれこれ二時間ぐらいは経ったでしょう」と言う。

「お前という男は何たる間抜けな奴だ。『御車をこれこれで僧正様がお借りしたいということですが』と、自分にことわってからお貸しするものだ。うかつ者め」と言うと、「御坊は縁遠い人でもございません。すぐに草履を履いて、『しかと確かに申しつけたぞ』と仰せになられるのでどうしようもありませんでした」と言う。それを聞くと、陸奥前司は自分の部屋へ戻り、どうしようかと思案していたが、この僧正は決まった慣わしではあるが、湯舟に藁を細かく切っていっぱい入れて、その上に筵を敷き、外出から帰られるや、まっすぐに湯殿へ行き、裸になって、「えさい、かさい、とりふすま」と言って、湯舟にさっとあおむけに寝るという入り方をなされていた事を思い出した。

陸奥前司が浴槽に近寄って筵を引き上げて見ると、ほんとうに藁をこまごまと切りきざんで入れてある。そこで浴槽の垂れ布を解き下し、この藁をみな取り収めてしっかり包んで、その浴槽に湯桶を下に入れて、その上に碁盤を裏返しにして置き、筵(むしろ)を引きかぶせて、何もなかったような顔をして、垂れ布に包んだ藁を大門の脇に隠し置いて待っていると、四時間ほどで僧正が小門から帰って来る音がした。そこで、行き違いに大門へ出て、帰って来た車を呼び寄せて、車の下にこの包んだ藁を入れて、大急ぎで車を家へ走らせ、降りるや、「牛もあちこち歩きまわって疲れたであろうからこの藁を食わせよ」と牛飼いの童に与えた。

僧正は、いつもの事なので、着物を脱ぐのもそこそこに、例の湯殿に入り、「えさい、かさい、とりふすま」と言いながら、浴槽へ飛び込んで、、なにげなくあおむけに寝たところが、碁盤の足の突き出ている所に尻骨をこっぴどく打ち付けてしまい、何しろ年老いてもいたので、死んだようになって、反り返って倒れていたが、僧正が湯殿に入った後、何も言わなかったので、傍で使われていた僧が心配して寄って見ると、目を上の方につりあげて気絶している。

これは「どうなさいましたか」と声を掛けるが答えもしない。寄って顔に水を吹きかけたりして、しばらくしてから苦しい息の下で何かむにゃむにゃと言われたのであった。この悪戯(いたずら)はあまりにもたちが悪かったのではなかろうか。
                            

語句

■法輪院(ほふりんゐん)-覚猷の創建した園城寺(三井寺)内の僧院。そこに住んだ事からこの名がある。覚猷は、権大納言源隆国の子(1053~1140)。三井寺の覚円の弟子、三井の長吏。また第四十七代延暦寺座主 (ただし三日で辞任)。長く鳥羽の証金剛院に住んだので鳥羽僧正とも呼ばれ、「鳥羽絵」の祖。「鳥獣戯画」の作者とされる。■おはしけり-おいでになった。■国俊-覚猷の兄。「甥」は誤伝。従五位上、三河守。承徳二年(1098)八月、陸奥守となるが、赴任することなく、翌年三月没。行年は未詳であるが、彼の没時に弟の覚猷は五十五歳であったことから、五十歳前後かと推定。■参りてこそ候へ-参上いたしました。■見参すべし-対面しよう。■そなたにしばしおはせ-そちらにしばらくお待ちなさい。■二時ばかりまで-四時間ほども。■生(なま)腹立たしう覚えて-何となく腹が立って来て。■出でなんと-出ようと。■疾(と)う乗れとあるぞ-すぐに乗れということだ。■小御門(こみかど)-小門(裏門・わき門)の敬称。■やうぞ候ふらん-事情でもあるのだろうと思って。■乗せ奉りて候へば-お乗せ申したので。■待たせ給へ-お待ちください。■時の程ぞあらんずる-二時間ほどはかかるだろう。■やがて帰り来(こ)んずるぞ-すぐに帰って来ようぞ。■早う奉りて-とっくにお乗りになって。■出でさせ給ひ候ひつるにて候ふ-お出かけになったのでございます。■かうて-このようにして。■過ぎ候ひぬらん-過ぎましたでしょう。■不覚のやつかな-うかつ者め。まぬけなやつ。■うちさし退(の)きたる人-かかわりの疎遠な人。縁のないような人。親しい交際をしていない人。■尻切(しきり)-「しきれ」とも。足のかかとの部分のない、普通の草履の半分の長さの労役用の草履。■きときとよく申したるぞ-しかと確かに申しつけたぞ。■一はた-いっぱい。「はた」は「杯」の意。■左右(さう)なく-ためらわず。無造作に。■えさい、かさい-呪文、「えっさ、こらさ」に通じる掛声。「一切合財」という意味の掛声など諸説がある。■とりふすま-呪文または掛け声で、「鳥衾」の意。「敷いた床」の意、など諸説あり。

■垂布-垂れ下げた布。帳(とばり)。■さりげなくて-何もなかったようにして。■大門-正門。「小御門」「小門」に対して言う。■違ひ-行き違いに。■はやらかに-すみやかに。■ありき困ひたるに-動き回って疲れたのに。■取らせつ-与えた。■ゆくりもなく-なにげなく。■いかく差しあがりたるに-突き出ている所に。■死に入りて-気を失って。失神して。■音なかりければ-湯殿の中から何の物音も聞こえないので、心配になって。■さしそりて-反り返って。■上に見つけて-上の方に吊り上げて■いらへもせず-答えもしない。■とばかりありて-しばらくたって。■息の下に-苦しい息の下で。■おろおろ-むにゃむにゃ。■いとはしたなかりけるにや-ずいぶん度を超していたのではなかろうか。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル