宇治拾遺物語 3-7 虎(とら)の鰐(わに)取りたる事

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原文

これも今は昔、筑紫(つくし)の人商(あきな)ひしに新羅(しらぎ)に渡りけるが、商ひ果てて帰る道に、山の根に添ひて、舟に水汲み入れんとて、水の流れ出でたる所に船をとどめて水を汲む。

その程、舟に乗りたる者舟ばたにゐて、うつぶして海を見れば、山の影うつりたり。高き岸の三四十条ばかり余りたる上に、虎つづまりゐて、物を窺(うかが)ふ。その影水にうつりたり。その時に人々に告げて、水汲む者を急ぎ呼び乗せて、手ごとに櫓(ろ)を押して急ぎて舟を出(いだ)す。その時に虎躍りおりて舟に乗るに、舟はとく出づ。虎は落ち来る程のありければ、今一丈ばかりを、え躍りつかで、海に落ち入りぬ。

舟を漕ぎて急ぎて行くままに、この虎に目をかけて見る。しばしばかりありて、虎海より出で来(き)ぬ。泳ぎて陸(くが)ざまに上(のぼ)りて。汀(みぎは)に平(ひら)なる石の上に登るを見れば、左の前足を膝(ひざ)より噛み食ひ切られて血あゆ。「鰐に食ひ切られたるなりけり」と見る程に、その切れたる所を水に浸(ひた)して、ひらがりをるを、「いかにするか」と見る程に、沖の方(かた)より鰐(わに)、虎の方をさして来ると見る程に、虎、右の前足をもて鰐の頭に爪(つめ)を打ち立てて陸ざまに投げあぐれば、一丈ばかり浜に投げあげられぬ。のけざまになりてふためく。

頤(おとがひ)の下を躍りかかりて食ひて、二度三度ばかりうち振りてなよなよとなして、肩にうちかけて、手を立てたるやうなる岩の五六丈あるを、三つの足をもちて下(くだ)り坂を走るがごとく登りて行けば、舟の内なる者ども、これが仕業(しわざ)を見るに、半(なか)らは死に入りぬ。「舟に飛びかかりたらましかば、いみじき剣刀(つるぎかたな)を抜きてあふとも、かばかり力強く早からんには、何(なに)わざすべき」と思ふに、肝心失(きもごころう)せて、舟漕ぐ空もなくてなん筑紫(つくし)には帰りけるとかや。

現代語訳

これも今は昔、筑紫の人が商売をしに新羅に渡ったが、商売終わり日本への帰り道、海岸の山の麓に沿って進み、舟に水を汲み入れようとして、水が流れ出ている所に舟を止めて水を汲んでいた。

その間、舟に乗った者たちが舟べりにいて、うつぶせになって海を見ると、海面に山の影が写っていた。見ると高い岸で、三、四十丈以上はあるその上に虎がうずくまって何かを狙っている。その影が水に写っていた。その時に人々にそれを知らせて、水を汲んでいる者を急いで呼び返し、手に手に櫓を押して急いで舟を出した。その時、虎が躍り降りて舟に飛び乗ろうとしたが、舟はいち早く漕ぎ出た。虎は降りてくるまでに間があったので、あと一丈ほどの所で飛びつくことができずに、海にざんぶと落ち込んだ。

舟を漕いで急いで逃げてながら、この虎を注意して見ていると、この虎が少し経ってから、海から出て来た。泳いで陸の方に上って、水際にあった平らな石の上に登ったのを見ると、左の前足を膝から噛み切られて血を垂れ流している。「なんと鰐に食い千切られたのであったか」と見ていると、虎は、その切れたところを水に浸して、姿勢を低くして身構えているのを、「どうするつもりか」と見ていると、沖の方から鰐が、虎の方を目指して泳いで来るのだ。それを見ている間に、虎が、右の前足で鰐の頭に爪を立て陸の方へ投げ上げると、一丈ばかり浜に投げ上げられた。投げ上げられた鰐は仰向けにひっくり返り、ばたばたと、のたうち暴れている。

虎は飛びかかって顎の下に食いつき、ニ三回ほど振回してぐったりさせてから、爪を鰐の肩に食いこませて背負い、手を立てたような五六丈もある岩場を、三本の足で、まるで下り坂を走るように登って行く。舟の中にいた人たちは、このしわざを見て、半分は死んだように呆然としていた。「もし、あの虎が舟に飛びかかってきたなら、どんなにするどい刀剣で立ち向おうとも、こんなに力強く素早ければ、いったいどうすることができようか」と思い、気も遠くなって舟を漕ぐ方向もおぼつかないまま、筑紫に帰って来たということだ。
                            

語句

■筑紫-古くは筑前・筑後。ここでは九州をさす。「鎮西」と同義。■新羅-朝鮮半島南部にあった国。六世紀には百済・高句麗と覇を競い、七世紀に朝鮮を統一、九三五年、高麗に滅ぼされるまで存在。■山の根-後出の叙述から推せば、切り立った断崖のすその海岸線沿い。■とどめて-止めて。

■その程-その間。■舟ばた-舟べり。■三四十丈-一丈は約三メートル。従って、90から20メートルとなる。同文話の『今昔』巻29~31話では「三、四丈」とあり、この後の出来事との整合性が強い。■虎-朝鮮半島、中国、インド、スマトラと広くアジアに分布するネコ科最大の猛獣。大きな雄は体長約二メートル、体重約200~300キログラム、寿命は約25年とされる。朝鮮半島には多く棲息し、『日本書紀』は欽明朝の六年(545)十一月、百済に使いした膳臣巴提便(かしはでのおみはすび)が、虎を退治してその毛皮を持参したことを伝える。新羅の使者がもたらした貢物の中にも虎の皮は含まれていたという。■つづまりゐて-姿勢を低く伏せるように構えていて。今しも獲物に飛びかかろうという準備の構え。■物をうかがふ-何かをねらっている。■告げて-知らせて。■乗るに-乗ろうとするが。■とく出づ-いち早く漕ぎ出た。■落ち来る程の-崖の上から飛び降りて舟に達するまでに要する時間が。『今昔』では、「落来ル程ノ遅ケレバ」。「程の」は「間が」と同意。■え躍りつかで-躍りつくことが出来ないで。

■目をかけて-注視して。■陸ざまに-陸の方に。■あゆ-垂れ流れている。■鰐(わに)-現在の鮫(さめ)・鱶(ふか)の類。『古事記』や『出雲風土記』の用例によれば、鱶(わにざめ)をさしていう。■食ひ切られたるなりけり-なんと食いちぎられたのであったか。「・・・なりけり」はここでは同情的詠嘆を表す。■その切れたる所を水に浸(ひた)して-かみ切られた左足から流れ出る血を海の沖に流してやって憎いワニザメをおびき寄せようという復讐をかけた挑発的行為。■ひらがりをる-(猫が鼠を伺うように)体を平らにうつぶせて、いつでも飛びかかれる体勢でいる様。■いかにするかと-どうするのかと。■前足をもて-前足で。前足を使って。■のけざまになりてふためく-仰向けにひっくり返って、ばたばたのたうって暴れる。

■頤(おとがひ)の下-(獣でいえば)ワニザメの喉笛のあたり。「頤」とは「あご」と同意。■なよなよとなして-ぐったりとさせてから。■手を立てたるやうなる岩-ほぼ直角にそそり立っているような険しい岩山。■半(なか)らは死に入りぬ-あまりの衝撃に、舟にいた者の半分は失神してしまった。■いみじき-すばらしい。■あふとも-わたりあっても。■かばかり-これほど。■早からんには-すばやくては。■何わざをすべきぞと-どのようなことができようかと。■肝心失せて-気も遠くなって。■空もなくてなむ-方向もおぼつかないままに。■帰りけるとや-帰ったということだ。

備考・補足

■異国の海岸の断崖から自分たちの乗る舟に襲い掛かって来た猛虎の恐怖。すんでのところで虎口を逃れた人々の目に飛び込んできたのは、思いがけない猛虎の負傷とそれを逆手にとってのワニザメの巧妙への巧妙な復讐劇であった。

朗読・解説:左大臣光永