宇治拾遺物語 3-13 因幡国(いなばのくに)の別当(べつたう)、地蔵(ぢざう)造り差す事

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

これも今は昔、因幡国高草(いなばのくにたかくさ)の郡さかの里に伽藍(がらん)あり。国隆寺と名づく。この国の前(さき)の国司ちかなが造れるなり。そこに年老いたる者語り伝へて曰(いは)く、この寺に別当ありき。家に仏師(ぶつし)を呼びて地蔵を造らする程に、別当が妻、異男(ことをとこ)に語らはれて跡をくらうして失(う)せぬ。別当心を惑わして、仏の事をも仏師をも知らで、里村に手を分ちて尋ね求むる間、七八日を経ぬ。仏師ども壇那(だんな)を失ひて、空を仰ぎて手を徒(いたづ)らにしてゐたり。その寺の専当(せんだう)法師これを見て、善心を起こして、食物(くひもの)を求めて仏師に食はせて、わづかに地蔵の木作(きづくり)ばかりをし奉りて、彩色(さいしき)、瓔珞(やうらく)をばえせず。

その後(のち)、この専当法師病(やまひ)つきて命終りぬ。妻子悲しみ泣きて、棺(くわん)に入れながら捨てずして置きて、なほこれを見るに、死にて六日といふ日の未(ひつじ)の時ばかりに、にはかにこの棺はたらく。見る人おぢ恐れて逃げ去りぬ。妻泣き悲しみて、あけて見れば、法師よみがへりて、水を口に入れ、やうやう程経て、冥途(めいど)の物語す。「大(おほ)きなる鬼二人(ふたり)来たりて、我を捕へて追ひ立てて広き野を行くに、白き衣(きぬ)着たる僧出(い)で来(き)て、『鬼ども、この法師とく許せ。我は地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)なり。因幡の国隆寺にて我を造りし僧なり。仏師等食物なくて日比経(ひごろへ)しに、この法師信心をいたして、食物を求めて仏師等を供養(くやう)して、我(わ)が像を造らしめたり。こおの恩忘れがたし。必ず許すべき者なり』とのたまふ程に、鬼ども許しをはりぬ。ねんごろに道教へて帰しつと見て、生き返りたるなり」といふ。

その後(のち)、この地蔵菩薩を妻子ども彩色し、供養し奉りて、長く帰依(きえ)し奉りける。今この寺におはします。

現代語訳

因幡国の別当が地蔵を造りかけた事

これも今は昔、因幡国高草郡野坂郷にお寺があった。国隆寺と呼ばれた。この国の前の国司ちながが造った寺である。そこに年老いた者が語り伝えて言うには、「この寺に別当がいた。家に仏師を呼んで地蔵を造らせているうちに、別当の妻が、別の男に誘われて行方をくらましていなくなった。別当は驚きあわてて、仏の事も仏師の事をほったらかしにしたまま、村里に手分けして探し求めるうちに、七八日が経ってしまった。仏師たちは世話をしてくれる檀那を失って、空を仰ぎ、手をむなしくこまねいていた。その寺の下働きの僧がこれを見て、善心を起こし、食物を探して来て、仏師に食わせたので、かろうじて地蔵の形に材木を削る作業だけがなされたが、その後の彩色、瓔珞の工程まではできないでいた。

その後、この僧が病気にかかり死んでしまった。妻子は悲しんで泣き、遺体を棺には入れはしたが葬地までは送らず、そのままそこに置き、なおこの棺を見ていると死後六日目の午後二時ごろ急にこの棺が動き出した。見ていた人たちはこわがり恐れて逃げ去ってしまった。妻は泣き悲しみながら、蓋を開けてみると、法師が生き返って、水を飲み、ややしばらくしてから、地獄の世界の話を物語った。「大きな鬼が二人やってきて、自分を捕えて、追い立てながら広い野原を進んで行くと、途中、白い着物を着た僧が出て来て、『鬼どもよ、この法師を早く解き放て。自分は地蔵菩薩である。此の人は、因幡の国隆寺で自分を造ってくれた僧なのだ。仏師たちが何日も食物がなくて困っていたとき、この法師が信心心を起こし、食物を探してきて仏師たちに施し、自分の像が完成したのだ。この恩は忘れられないものだ。必ず許すべき人なのだ』と仰せられたので、鬼たちは放免してくれ、それから丁寧に道を教えて帰してくれたと思って気がつくと生き返っていたのだ」と言う。

その後、この地蔵菩薩を妻子たちが彩色し、供養をして長く信仰し申し上げている。その像は現在もこの寺に安置されている。                

語句

■別当-僧官の一つ。東大寺・法隆寺・興福寺などの大寺の長。■因幡-鳥取県東部。白うさぎの神話で知られる。■高草-高草郡は明治になって気多郡と合併して気高部となるが、現在は鳥取市の一部。■さかの里-野坂の郷。■伽藍-僧侶が住んで、仏道を修行する所。寺。■国隆寺-現在は廃寺だが、『因幡志』に「高島郡国隆寺之地蔵」の項があり、寺跡は小原村(鳥取県八頭郡佐治村小原)の後方の山上にあったこと、地蔵は小原村の辻堂に安置され、高さ二尺五寸余の木造であったことが見える。『大系』の注によると、鳥取市小原の小堂に、鎌倉期の地蔵の木造が現存するという。■前の国司ちかな-『今昔』巻十七~二五話は「前ノ介千包」。『権記』寛弘四年十月二十九条の条に因幡守千兼という者が、百姓の愁訴のために、国司橘行平に殺されたとあって、この人に当たるか。■仏師-仏像を彫刻する者。■異男(ことをとこ)に語らはれて-別の男に誘われて。■跡をくらうして-ゆくえをくらまして。■心を惑わして-驚きあわてて。■知らで-かまわないで。■手を分ちて-手分けして。■尋ね求むる-探し求める。■檀那-施主。ここでは地蔵の仏像の制作を依頼した別当をさす。■手を徒にして-手をむなしくこまねいて。■専当法師-寺に住み込んで雑務に従事した下級の僧で、妻帯が普通だった。■わずかに-かろうじて。■木作り-必要な形に材木を削る事。■瓔珞-仏像の頭・首・胸・腕などに掛け、垂らす装飾の細工物。■えせず-できないでいた。■捨てずして置きて-葬地に送らないでそのままに置いて。■なほこれを見るに-なおこの棺を見ていると。『今昔』では「朝暮ニ見ル間」と、棺の遺体の様子を注視続けたことを強調している。■六日-仮に死んでから蘇生するまでの日数としては三日目、七日目などという例が多い。■未の時-午後の二時ごろ。■はたらく-動く。■おぢ恐れて-こわがり恐れて。■泣き悲しみて-死体に突然、何か異変が生じたという戸惑い、また新たな厄介事を背負い込むのかという悪しき予感におののいての悲泣。■冥途の物語-地獄世界における体験談■白き衣着たる云々-まだ彩色を施されていない素彫の状態であることを物語っている装い。■とく-早く。■日比経しに-何日も過ごしたときに。■許しをはりぬ-許した。放免した。■ねんごろに-ていねいに。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル