宇治拾遺物語 3-18 平貞文(たひらのさだふん)、本院侍従(ほんゐんのじじゆう)の事

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今は昔、兵衛佐(ひやうゑのすけ)平貞文をば平中(へいちゆう)といふ。色好(いろごの)みにて、宮仕人(みやづかへびと)はさらなり、人の女(むすめ)など、忍びて見ぬはなかりけり。思ひかけて文やる程の人の、なびかぬはなかりけるに、本院侍従といふは村上の御母后(ははぎさき)の女房なり。世の色好みにてありけるに、文やるに、憎からず返事(かへりごと)はしながら、逢(あ)ふことはなかりけり。

「しばしこそあらめ、遂(つひ)にはさりとも」と思ひて、物のあはれなる夕暮の空、また月の明(あか)き夜など、艶(えん)に人の目とどめつべき程を計らひつつおとづれければ、女も見知りて、情(なさけ)は交しながら心をば許さず、つれなくて、はしたなからぬ程にいらへつつ、人ゐまじり、苦しかるまじき所にては物いひなどはしながら、めでたくのがれつつ心も許さぬを、男はさも知らで、かくのみ過ぐる心もとなくて、常よりも繁(しげ)くおとづれて、「参らん」といひおこせたりけるに、例のはしたなからずいらへたれば、四月の晦(つごもり)ごろに、雨おどろおどろしく降りて、物恐ろしげなるに、「かかる折に行きたらばこそあはれとも思はめ」と思ひて出でぬ。

道すがら堪へがたき雨を、「これに行きたらんに逢(あ)はで帰す事よも」と頼もしく思ひて、局(つぼね)に行きければ、人出(い)で来(き)て、「上(うへ)になれば案内(あんない)申さん」とて、端(はし)の方(かた)に入れて往(い)ぬ。見れば、物の後(うし)ろに火ほのかにともして、宿直物(とのゐもの)とおぼしき衣(きぬ)、伏籠(ふせご)にかけて薫物(たきもの)しめたる匂(にほ)ひ、なべてならず。いとど心にくくて、身にしみていみじと思ふに、人帰りて、「只今もおりさせ給ふ」といふ。うれしさ限りなし。則(すなは)ちおりたり。

「かかる雨にはいかに」などいへば、「これにさはらんは、むげに浅き事にこそ」など言ひ交して、近く寄りて髪を探れば、氷をのしかけたらんやうに冷やかにて、あたりめでたき事限りなし。なんやかやと、えもいはぬ事ども言ひ交して、疑ひなく思ふに、「あはれ遣戸(やりど)をあけながら、忘れて来にける。つとめて、『誰(たれ)かあけながら出でにけるぞ』など、煩(わずら)はしき事になりなんず。立てて帰らん。程もあるまじ」といへば、さる事と思ひて、かばかりうち解けにたれば心やすくて、衣(きぬ)をとどめて参らせぬ。

まことに遣戸(やりど)立つる音して、「こなたへ来(く)らん」と待つ程に、音もせで奥ざまへ入りぬ。それに心もとなくあさましく、現心(うつしごころ)も失(う)せ果てて、這(は)ひも入りぬべけれど、すべき方(かた)もなくて、やりつる 悔(くや)しさを思へど、かひなければ、泣く泣く暁近く出でぬ。家に行きて思ひ明かして、すかし置きつる心憂(こころう)さ書き続けてやりたれど、「何(なに)しにかすかさん。帰らんとせしに召ししかば、後にも」などいひて過(すご)しつ。

「大方(おほかた)目近(まぢか)き事はあるまじきなめり。今はさはこの人のわろく疎(うと)ましからん事を見て思ひ疎まばや。かくのみ心づくしに思はでありなん」と思ひて、随身(ずいじん)を呼びて、「その人の樋(ひ)すましの皮籠持(かはごも)ていかん、奪(ば)ひ取りて我に見せよ」といひければ、日比(ひごろ)添ひて窺(うかが)ひて、からうじて逃(に)げたるを追ひて奪(ば)ひ取りて、主(しゆう)に取らせつ。

平中悦(へいちゆうよろこ)びて、かくれに持(も)て行きて見れば、香(かう)なる薄物(うすもの)の、三重(みへ)がさねなるに包みたり。香ばしき事類(たぐひ)なし。引き解きてあくるに、香ばしさたとへん方(かた)なし。見れば、沈(ちん)、丁字(ちやうじ)を濃く煎(せん)じて入れたり。また薫物(たきもの)をば多くまろがしつつ、あまた入れたり。さるままに香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし。「ゆゆしげにし置きたらば、それに見飽きて心もや慰むとこそ思ひつれ。こはいかなる事ぞ。かく心ある人やはある。ただ人とも覚えぬ有様ども」と、いとど死ぬばかり思へど、かひなし。「我が見んとしもやは思ふべきに」と、かかる心ばせを見て後(のち)は、いよいよほけほけしく思ひけれど、遂(つひ)に逢(あ)はで止みにけり。

「我が身ながらも、かれに世に恥(はぢ)がましく、妬(ねた)く覚えし」と、平中(へいちゆう)みそかに人に忍びて語りけるとぞ。

現代語訳

今は昔、兵衛佐(ひょうえのすけ)平貞文を平中(へいちゅう)といった。色好みで、宮仕えの女はいうまでもなく、宮仕えの女でなくても、密かに通わない娘はなかった。思いを寄せて手紙を出す程の女でその意に従わない者はなかった。そのころ、村上天皇の御母后に仕える本院侍従という女房がいた。この女も又たいへんな色好みであったが、手紙をやると、憎からず、思わせぶりな返事をしながらも逢う事はなかった。

「しばらくはそうしているだろうが、ついにはそれでも何とかなるだろう」と思って、しみじみと趣の深い夕暮れの空とか、また月の明るい夜など、女が心をひかれそうな優美で、人が目をとめそうな頃合いを見計らっては訪ねたので、女もその気持ちを知って、情のこもったつきあいはしながらも、心から打ち解けようとはしない。何気なく、あたりさわりのない程度に返事をして、人も居合わせて、差支えのないような所では、言葉は交わしながらも、上手に言い逃れながらも心を開こうとはしない。男はそうとも知らず、このように過ぎて行くのが気がかりで、いつもより頻繁に便りをして、「お逢いしたい」と言って手紙をよこした。しかし、いつものようにあたりさわりのない返事が帰って来たので、四月の月末ごろ、雨がはげしく降って何とも恐ろしい空模様の日に、「こんな時に行ったなら、身に染みて私の気持ちを感じとるであろう」と思って女のもとへ出かけて行った。

途中で、どしゃぶりの雨の中を、「この中を行ったならよもや逢わずに返す事もあるまい」と心強く思って、女の部屋に行くと、童女が出て来て、「今、奥に居られるのでお取り次ぎいたしましょう」と言って、隅の部屋に平中を通して、出て行く。見ると、物陰に火をほのかに点して、夜着と思われる衣類を伏籠(ふせご)にかけて香料をたきしめている匂いがなんともすばらしい。いよいよ奥ゆかしくて、身にしみてすばらしいと思っていると、童女が戻って来て、「もうすぐにもおさがりになられます」と言う。嬉しい事この上もない。すぐに下がって来た。

女が、「こんなひどい雨の中をどうして」などと言うと、平中は、「この程度の雨に妨げられて来られないようでは、いい加減な愛情というしかありませんよ」などと言葉を交わし、近寄って女の髪をまさぐると、氷を広げてかけたようにひんやりして手ざわりの素晴らしさは言いようもない。なにやかやと言葉に尽くせぬことなどを語らって、もはや間違いなく女が自分の意に従うだろうと思っていると、「あら、引き戸を開けたまま閉め忘れて来ました。朝早くに、『誰かが開けたまま出て行ったぞ』などと、面倒なことになりそうです。閉めて来ます。そんなに時間はかからないでしょう。すぐに戻ってきますから」と言うと、「それももっともだ」と思い、これほどまでに打ち解けたことでもあるからと、平中は心を許し、女は平中のもとに上衣(うわぎ)を残して立ち去った。

ほんとうに引き戸を閉める音がして、「こちらへ戻って来るだろう」と待っていると、近づく音もせずに奥の方へ入ってしまった。それで、気がかりであきれて、正気も無くなってしまって、女の行った方へ、そっと入って行きたい気もしたが、どうしようもなくて、引き戸を閉めに行かせた事を悔んだが、どうしようもなく、泣く泣く明け方近くに部屋を退出した。家に帰って思い明かして、自分を置き去りにした恨み言を連綿としたためてやると、「どうして騙したりしましょうか。帰ろうとした時に上のお呼びがあったので、またいづれ」などと返事があって過ぎてしまった。

「およそ近いうちにこの女と結ばれる見込みはないようだ。今となっては、この女のきたなく嫌になる物を見て、あきらめてしまいたい。こんなに気をもんでつらい目に遭うのはもう御免だ」と思い、随身を呼んで、「樋すましの下女がその人の便器を入れた箱を持って行くのを奪い取って私に見せよ」と言う。随身は毎日、樋すましの下女をつけまわして様子を窺い、逃げたのを追って、やっとのことで、奪い取り主人に渡した。

平中は喜んで、物陰に持って行って見ると、黄みがかった薄赤色の薄布を三つ重ねした物に包んである。比べようもない香ばしさである。解いて開いてみると、沈と丁子を濃く煮詰めた香木が入れてある。また練香をいっぱい丸めて入れてある。そういうことでその香ばしさは推量されるであろう。平中はそれを見て唖然とする。「もしこの女が汚い状態で大小便をし散らかして置いてくれたら、それを見て嫌気がさして自分の心も慰められるかと思ったのに。これはどうしたことだ。このように深い気配りのできる人がいるのか。ただの人とは思われないふるまいだ」と、ますます死ぬほどに思ったが、どうしようもない。「自分が見ようとはまさか思うはずもないのに」と、このような気配りを見た後は、ますます心がぼけてしまうほどに女を思ったが、遂に逢わずに終わってしまった。

「自分の事とはいえ、あの人に対してまことに恥ずかしく、いまいましく思われた」と、平中は秘かに人に隠れて語ったとかいう。
                              

語句

■平貞文-平定文とも。桓武平氏。右中将好風の子。生年未詳。没年は一説に延長元年(923)。佐兵衛佐(佐は次官)、三河権介。右中将の在原業平と並称される色好み。中古三十六歌仙の一人。『平中物語』の主人公。通称の平中(平仲とも)は父の好風の官職名に由来するもの。■さらなり-いうまでもなく。■人の女-宮仕えしていない、あまり人に知られることのない在家の娘。■忍びて見ぬはなかりけり-ひそかに逢わない者はなかった。■文やる程の人の-手紙をやる程の人で。■なびかぬはなかりけるに-その意に従わない者はなかったが。■本院-本院は藤原時平、侍従は女房名。とすれば左少将滋幹と権中納言敦忠を産んだ筑前守藤原棟梁(むねやな)の娘をいうか。『本院侍従集』の作者の歌人とは別時代の人。■村上の御母后-藤原基経の娘、隠子(885~954)醍醐天皇の皇后で、朱雀、村上両天皇の生母。

■しばしこそあらめ-しばらくはそうしているだろうが。■遂(つひ)にはさりとも-ついにはそれでも何とかなるだろう。■物のあはれなる-しみじみと趣の深い。■明(あか)き夜-明るい夜。■艶(えん)に-優美で。■人の目とどめつべき程を計らひつつ-人が目をとめそうな頃合いを見計らって。■情(なさけ)は交しながら-情をこめてつきあいながら。■心をば許さず-心から打ち解けないで。■つれなくて-何気ない様子で。■はしたなからぬ程にいらへつつ-あたりさわりのない程度に返事をしては。■人ゐまじり-人がいあわせ。■苦しかるまじき所にては-差支えのないような所では。■めでたくのがれつつ-上手にかわしながら。■さも知らで-そうとも知らないで。■心もとなくて-気がかりで。■繁くおとづれて-繁雑に便りをして。■いひおこせたりけるに-言ってよこしたが。■例の-いつものように。■はしたなからず-あたりさわりなく。■いらへたれば-返事をしていたので。■晦-下旬、末日。■おどろおどろしく-すさまじく。■物恐ろしげなるに-なんとなく恐ろしそうなときに。■あはれとも思はめ-身にしみて感じるであろう。

■道すがら-途中で。■これに行きたらんに-この中を行ったならば。■よもと-よもやあるまいと。■頼もしく-心強く。■局-本院侍従がお仕えしている村上天皇の生母、隠子の居宅の中に与えられ、住んでいた仕切り部屋。隠子の居宅は、父の基径の旧宅(堀河殿)ではなく、兄の時平の住む本院であった。侍従はそこで時平に見初められ、後に敦忠を産むことになったと思われる。■人出で来て-「人」は本院侍従に仕えている女の童。■上-屋敷の北の奥の方にある部屋、すなわち隠子の住んでいる場所。■上になれば-上にあがっているので。■案内申さん-お取次ぎいたしましょう。■往ぬ-出てゆく。■宿直物-夜具として着用する衣服。■伏籠-半球型の大きな竹かごで、伏せて中に香炉を置き、衣服に香をたきしめたり、中に火桶を入れて衣服を乾かしたりするのに用いた。■薫物しめたる匂ひ-香をしみこませた匂い。■なべてならず-なみなみでなく。■いとど心にくくて-いよいよ奥ゆかしくて。■いみじ-すばらしい。■只今も-もうすぐにも。まもなくすぐ。■おりさせ給ふ-おさがりなさいます。■則(すなは)ちおりたり-すぐにさがってきた。

■これにさはらんは、むげに浅き事にこそ-この程度の雨に妨げられて来られないようでは、いい加減な愛情というしかありませんよ。外はどしゃぶりの雨。平中の強がり。■氷をのしかけたらんやうに冷やかにて-氷をひろげてかけでもしたかのようにひんやりとして。■あたりめでたきこと-手ざわりの素晴らしい事は。■疑ひなく思ふに-(今夜こそは女が身を許すであろうと)確信していると。■遣戸(やりど)-奥の部屋部屋の引戸。■程もあるまじ-時間はかからないでしょう。すぐに戻ってきます、の意。■さる事-面倒なことになるという可能性は確かにあり得ることだ。■かばかりうち解けにたれば心やすくて-(平中は)もうこれほどまでに打ち解けた状態になっているのだから気を許して、戸を閉めに出かけることを承知して。■衣(きぬ)をとどめて参らせぬ-(侍従は侍従で、平中を安心させるために)着ていた上衣を残し置いた。『今昔』は「女起テ上ニ着タル衣ヲバ脱置テ、単衣袴許ヲ着テ行ヌ」と明快。

■立つる-閉める。■こなたへ来らん-こちらへ来るだろう。■奥ざまへ-奥のほうへ。■心もとなく-気がかりで。■あさましく-あきれて。■うつし心も失せはてて-正気も無くなってしまって。■這(は)ひも入りぬべけれど-這い入りもしたいが。■やりつる悔(くや)しさを思へど-戸を閉めに女を行かせたことを後悔したのであったが。■かひなければ-しかたがないので。■すかし置きつる心憂(こころう)さ-自分をだまして置去りにした女のやり方への文句を。■何にしてか-どうして。■すかさん-だましましょうか。■召ししかば-お呼びがあったので。

■大方-およそ。■目近(まじか)き事-そばに近づく事。■あるまじきなめり-見込みがないようだ。■今はさは-今となっては。■うとまし-嫌だ。いとわしい。■思ひ疎まばや-忌み嫌いたいものだ。あきらめてしまいたい。■かくのみ心づくしに思はでありなん-こんなに気をもんでつらい目に遭うのはもう御免だ。■随身-護衛役の近衛の舎人。■樋すまし-便所や便器の掃除をする女。■皮籠-便器を入れた革張りの箱。■持ていかん-持って行くのを。■日比(ひごろ)添ひて-毎日つけまわして。■からうじて-やっとのことで。■取らせつ-渡した。

■隠れ-物陰。■香(かう)なる薄物(うすもの)-黄みがかった薄赤色の薄布。■香ばしき事類(たぐひ)なし-よい匂いのすることは並ぶものもない。■たとへん方なし-たとえようもない。■沈(ちん)、丁字(ちやうじ)-伽羅や丁子香といった香料。■煎じて-煮詰めて。■薫物-種々の香を練り合わせた香料。単に練香ともいった。■まろがしつつ-丸めては。■さるままに-そういうわけで。■推し量るべし-推量されるであろう。■いとあさまし-まったくあきれたことだ。■ゆゆしげに-ひどいさまに。■置きたらば-大小便をしておいたならば。■それに見飽きて-それを見て嫌気がさして。■心もや慰むとこそ-心も慰められるかもしれないと。■思ひつれ-思ったのに。■かく心ある人やはある-これほど心用意の深い人がいるものだろうか。■いとど-ますます。■かひなし-どうしようもない。■我が見んとしもやは思ふべきに-自分が見ようとはまさか思うはずもないのに。■心ばせ-心遣い。■ほけほけしく-心がぼけてしまうほどに。■遂(つひ)に逢(あ)はで止みにけり-『今昔』は平中は「然テ悩ケル程ニ死ニケリ」としている。

■かれ-かの人(本院侍従)に対して。■世に恥(はぢ)がましく-まことに恥ずかしく。■ねたく覚えし-いまいましく思われた。■みそかに-ひそかに。■忍びて-隠れて。■語りけるとぞ-語ったとかいう。

朗読・解説:左大臣光永

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