宇治拾遺物語 4-7 三河(みかは)入道、遁世(とんせい)の事

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三河入道いまだ俗にてありける折、もとの妻をば去りつつ、若くかたちよき女に思ひつきて、それを妻にて三河へ率(ゐ)て下(くだ)りける程に、その女久しく煩(わづら)ひて、よかりけるかたちも衰へて失(う)せにけるを、悲しさの余りに、とかくもせで夜も昼も語らひ臥(ふ)して口を吸ひたりけるに、あさましき香の口より出(い)で来(き)たりけるにぞ疎(うと)む心出で来て、泣く泣く葬(はぶ)りてける。

それより世は憂(う)き物にこそありけれと思ひなりけるに、三河国(みかはのくに)に風祭(かざまつり)といふ事をしけるに、生贄(いけにへ)といふ事に猪を生(い)けながらおろしけるを見て、「この国退(の)きなん」と思ふ心つきてけり。

雉子(きじ)を生けながら作りて捕へて人の出で来たりけるを、「いざこの雉子、生けながら作りて食はん。今少し味はひやよきと試みん」といひければ、「いかでか心に入らん」と思ひたる郎等(らうだう)の物も覚えぬが、「いみじく侍りなん。いかでか味はひまさらぬやうはあらん」などはやしいひける。少し物の心知りたる者は、「あさましき事をもいふ」など思ひける。

かくて前にて生けながら毛をむしらせければ、しばしはふたふたとするを、抑えてただむしりにむしりければ、鳥の、目より血の涙をたれて目をしばたたきて、これかれに見合わせけるを見て、え堪へずして立ちて退(の)く者もありけり。「これが鳴く事」と興じ笑ひて、いとど情(なさけ)なげにむしる者もあり。むしり果てておろさせければ、刀に随(したが)ひて血のつぶつぶと出(い)で来(き)けるを、のごひのごひおろしければ、あさましく堪へがたげなる声を出(いだ)して死に果てければ、おろし果てて、「炒焼(いりやき)などして試みよ」とて人々試みさせければ、「殊(こと)の外(ほか)に侍りけり。死したるおろして炒焼したるには、これはまさりたり」などいひけるを、つくづくと見聞きて、涙を流して声を立ててをめきけるに、「うましき」といひける者ども、したく違(たが)ひにけり。さて、やがてその日、国府(こふ)を出でて、京に上りて法師になりにける。道心の起りければ、よく心を固めんとて、かかる稀有(けう)の事をして見けるなり。

乞食(こつじき)といふ事しけるに、ある家に食物(くひもの)えもいはずして、庭に畳を敷きて物を食はせければ、この畳にゐて食はんとしける程に、簾(すだれ)を巻き上げたりける内によき装束(しやうぞく)着たる女のゐたるを見ければ、我(わ)が去りにし古き妻なりけり。「あの乞食(かたゐ)かくてあらんを見んと思ひしぞ」といひて見合わせたりけるを、恥(はづ)かしとも苦しとも思ひたる気色(けしき)もなくて、「あな、たふと」といひて、物よくうち食ひて帰りにけり。ありがたき心なりかし。道心を固く起してければ、さる事にあひたるも、苦しとも思はざりけるなり。

現代語訳

三河入道(大江定基)がまだ俗人でいたころ、本妻を離縁して、若く美貌の女に思いを寄せて、それを妻にして三河へ連れて下ったが、その女は長い間煩って、美貌も衰えて死んでしまった。定基は悲しさのあまり葬式もせず、夜も昼も語りかけ、添い寝して口を吸ったりしていたが、そのうちに何とも興ざめなひどい悪臭が女の口の中から出て来たので忌み嫌う気持になり、泣く泣く葬った。

それからは、この世はつらいものであると思い込むようになったが、三河の国で風神祭ということをした時に、生贄として猪を生きたまま切り分けたのを見て、「この国から出て行こう」と思う気になった。

折しも雉を生きたまま捕まえて持ってきた人がいたので、定基が、「さあ、この雉を生きたまま料理して食おう。いくらか味はいいと思うが試してみよう」と言うと、「どうにかして気に入られたい」と願っていた家来たちの薄情な者が、「結構でしょう。どうして味が優れない事がありましょうか」などとはやし立てた。これを聞いて少し分別のある者は、「ひどいことを言うものだ」などと思った。

こうして、目の前で生きたまま雉の毛をむしらせることになった。しばらくの間は雉が羽根をばたばたさせて暴れるのを押さえつけてひたすら毛をむしり取ると、雉は目から涙を流し、しきりにあちこちに命乞いのまたたきをする。それを見て堪えられずそこから立ち退く者もいた。郎等どもは、「こいつがこんなに鳴くぞ」と面白がって笑い、ますます情容赦なく毛をむしる者もいる。むしり終わって切り分けさせると、包丁を使うにつれて、血がどくどくと出て来たが、それを拭きながら切り分けたので、雉はひどく悲痛な声を出して死んでしまった。切り分け終わって、定基が、「炒焼きなどにして味をみよ」と、人々に試させると、「格別においしゅうございます。死んだものを料理して炒焼にしたものより、このほうが上です」、「これはうまい」などと言うのを、定基はじっと見聞して、涙を流してわめきたてたてたので、「うまい」と言った者たちは国守に気に入られようとした当てがはずれてしまった。そこで、その日のうちに、定基は国府を出て、京に上って法師になった。道心が起こったので、しっかりその気持ちを固めようと、こういう残酷な事をしてみたのであった。

乞食という事をしていた時のこと、ある家で食物を見事に調え、庭に筵を敷いて食わせたので、この筵に坐って食べようとしたときに、簾(すだれ)を巻き上げた奥に立派な衣装を身に着けた女が座っているのを見ると、それは自分の離縁した元の妻であった。元妻が、「あの乞食め、こういうざまになるのを見たいと思っていたよ」と言ってじっと目を見合せたが、入道は恥かしいとも苦しいとも思うような様子もなく、「ああ、ありがたいこと」と言って、出ていた物をよく食べて帰って行った。まことに尊い心というものである。道心を固く起こしていたので、そんな目にあっても、苦しいとも何とも思わなかったのである。

語句

■遁世-俗世間を逃れること。仏門に入ること。■三河入道-大江定基(962~1034)。式部大輔斉光の子。蔵人、図書頭を経て三河守、従五位下。寛和二年(986)出家、法名寂照。源信に天台宗、仁海に密教を学び、長保五年(1003)渡宋、翌年真宗皇帝より円通大師の号を与えられた。蘇州の法恩寺内の普門院にはその影像があったという。長元七年(1034)七三歳で杭州に没した。■俗にて-俗人で。■もとの妻をば去りつつ-本妻を離縁して。■かたちよい-容貌の美しい。■女-本話では都から新妻を同行したように読めるが、『三国伝記』巻一一第ニ四話などは、赴任途中の赤坂の遊女力寿とする。■思ひつきて-思いをよせて。■三河-現在の愛知県東部。■率て-連れて。■失せにけるを-死んでしまったのを。■とかくもせで-葬式もしないで。■口を吸ひたり-接吻をしたところ。わが国では「口づけをする」という言い方はしなかった。後の戦国時代の豊臣秀吉なども茶々への私信に「口を吸ひ申したく候」と書いている。■あさましき香-興ざめなひどい悪臭。■疎む-忌み嫌う。

■憂きものにこそありけれ-つらいものであったと。■思ひなりけるに-思うようになったが。■風祭(かざまつり)-風の神を祭って五穀の豊作を祈る行事。大和の龍田の風神祭は、古くから知られるが、民間の行事としても、広く行われている。■おろしけるを-切り分けたのを。■退きなむ-去ろうと。■生けながら-生きたまま。■作りて-料理して。■味はひやよきと-味はどうかと。■いかでか-何とかして。■心に入らん-気にいられようと。■郎等-従者。家来。■物も覚えぬが-わけの分からない者が。■いみじく侍りなん-結構でしょう。■まさらぬやうはあらん-すぐれないはずがありましょうか。■あさましき-ひどい。

■ふたふたとするを-羽根をばたばたさせて暴れるのを。■たれて-流して。■目をしばたたきて-しきりにまたたきをして。■これかれに-あちらこちらに。■見合せける-命乞いのまたたきをする。■え堪へず-堪えられないで。■いとど-ますます。■刀に随ひて-包丁を使うにつれて。■つぶつぶと-どくどくと。■のごひのごひ-ふきながら。■あさましく堪へがたげなる-ひどく堪えられそうもない。■試みよ-味をみよ。■殊の外に侍りけり-格別によい味です。■したく違(たが)ひにけり-当てがはずれた。目算が狂った。■やがて-すぐに。■国府-国守の役所の所在地。三河の国府は、当時の宝飯(ほい)郡内(現在の豊川市白鳥町付近)にあって、京都へは上り十一日(下りは六日)を要した。■法師になりにける-比叡山の横川に居た慶滋保胤(寂心)を師として出家した。■道心-仏道に帰依する心。■稀有-珍しい。

■乞食-食物をもらい歩く事。僧の托鉢に当たる。■えもいはずして-まことにみごとに調えて。■畳-現在の薄縁(うすべり)、筵(むしろ)の類。■ゐて-坐って。■よき装束着たる-立派な衣装を着けた。■我が去りにし-自分の離縁した。■かくてあらんを-こういうざまになるのを。■見んと思ひしぞ-見たいと思っていたよ。■見合せたりけるを-目を見合せたが。■気色-様子。■あな、たふと-ああ、ありがたいこと。■ありがたき心なりかし-まことに尊い心というものである。■おこしてければ-起こしていたので。

朗読・解説:左大臣光永

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