宇治拾遺物語 4-9 業遠朝臣(なりとほのあそん)、蘇生(そせい)の事

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これも今は昔、業遠朝臣死ぬる時、御堂(みだう)の入道仰せられけるは、「言ひ置くべし事あらんかし。不便(ふびん)の事なり」とて、解脱寺観修(げだつじくわんじゆ)僧正を召し、業遠が家にむかひ給ひて加持(かぢ)する間、死人たちまちに蘇生して用事をいひて後(のち)、また目を閉じてけりとか。

現代語訳

これも今では昔の事になるが、業遠朝臣が死んだ時に、御堂(みだう)の入道が仰せられて、「言い残すべき事があろうに、可哀想な事だ」と言って、解脱寺の観修僧正をお呼びになり、業遠の家に同道して祈祷をおさせになった。すると、たちまち死人が生き返り必要な事どもを言い終わってから、また目を閉じたという。

語句

■業遠朝臣-高階氏。左衛門佐俊忠(としただ)の子(975~1010)。寛弘七年(1010)に三六歳で没。美濃・丹波・越中の国守を歴任した。東宮亮(東宮職の次官)。東宮は藤原道長の娘彰子の産んだ、後の後一条天皇。■御堂(みだう)の入道-藤原道長。時に四十四歳。■あらんかし-あるだろうよ。■不便(ふびん)の事なり-可哀想なことだ。■解脱寺観修(げだつじくわんじゆ)僧正-道長の姉詮子が国家鎮護のために創建した寺で、京都市左京区岩倉長谷町にあった。観修は一時園城寺の僧三十余人とそこに住んでいたこともあり、解脱寺大僧正とも呼ばれ、園城寺の長吏も勤め、道長の信認が厚かった。ただし彼は業遠の死より二年前(寛弘五年)に没しており、ここに登場するのは疑問。■加持-真言宗の密教で、印を結んで陀羅尼を唱え、観念をこらして仏心を念ずること。■蘇生して-生き返って。

朗読・解説:左大臣光永

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