宇治拾遺物語 4-15 永超僧都(やふてうそうづ)、魚(うを)食ふ事

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原文

これも今は昔、南京の永超僧都は、魚なき限りは、斎(とき)、非時(ひじ)もすべて食はざりける人なり。公請(くじやう)勤めて在京(ざいきやう)の間久しくなりて、魚を食はで、くづほれて下(くだ)る間(あひだ)、奈島(なしま)の丈六堂の辺(へん)にて昼破子(ひるわりご)食ふに、弟子一人近辺の在家(ざいけ)にて魚を乞(こ)ひて勧めたりけり。

件(くだん)の魚の主(ぬし)、後に夢に見るやう、恐ろしげなる者ども、その辺の在家をしるしけるに、我が家しるし除きければ、尋ねぬる所に、使ひの曰(いは)く、「永超僧都に魚を奉る所なり。さてしるし除く」といふ。

その年、この村の在家、ことごとく疫(えやみ)をして死ぬる者多かりけり。その魚の主(ぬし)が家、ただ一宇(いちう)、その事をまぬかるによりて僧都のもとへ参り向ひてこの由(よし)を申す。僧都この由を聞きて、被物一重賜(かづけものひとかさねた)びてぞ帰されける。

現代語訳

これも今は昔、奈良の永超僧都は、魚が無い限りは、斎(とき)、非時(ひじ)のいつの食事も食べなかった人である。朝廷の法会を勤めて、京都滞在の期間が長引いて、魚を食べずに衰弱して奈良へ帰る途中、奈島の丈六堂の辺りで折詰の昼食をとった時、弟子の一人が近辺の民家で魚をもらって食べさせた。

その魚をさしあげた家の人が後でこんな夢を見た。恐ろしそうな者どもが、その辺りの民家にしるしをつけて歩いたが、自分の家だけしるしをつけなかったので、尋ねると、使いの者が、「ここは永超僧都に魚をさしあげた所である。それでしるしをつけないのだ」と言う。

その年、この村一帯のことごとくの民家で疫病が流行し、死ぬ人が大勢でた。しかし、その魚を奉った人の家ただ一軒が、その災難から免(まぬ)れたので、僧都の所へ伺ってこの事を申しあげた。すると、僧都はこの話を聞いて、褒美として一揃いの衣服をお与えになり帰された。 

語句

■南京-奈良。■永超僧都-出羽守橘俊孝の子(1014~95)。法隆寺別当、大僧都。大和の斉恩寺の開祖。法相宗・倶舎相など諸宗に通じ、『東域伝燈目録』三巻の著書がある。■斎(とき)・非時(ひじ)-僧侶の二度の食事のうち。午前の食事を「斎(とき)」、それ以外の食事を「非時(ひじ)」と読んだ。■公請(くじやう)-勅命によって法会や講に参勤すること。ここは京都の内裏での法会からの帰途。■くづほれて-衰え弱って。■奈島-山城国綴木郡の菜島(梨間)。現在の京都府城陽市奈島。その地の南の街道沿いに丈六の御堂があった。■昼破子(ひるわりご)-蓋物(ふたもの)の折詰の昼食。■在家(ざいけ)-民家。■乞(こ)ひて勧めたりけり-もらって食べさせた。■件(くだん)の魚の主(ぬし)-魚をさしあげた家の主人。■しるしける-書きつけた。■しるし除きければ-書きつけるのを止めたので。■魚-書陵部本などは「贄(にえ)(神に供えるささげ物。また、天子に献上する魚や鳥などの食物。その年の新穀などを奉るのにもいう。)」とする。■奉る所なり-さし上げた所です。■疫(えやみ)をして-流行の病気にかかって。■ただ一宇(いちう)-ただ一軒。■その事をまぬかる-その災難を免れた。■参りむかひて-うかがって。■被物一重-褒美としての一揃いの衣服。■賜びてぞ-お与えになって。

備考・補足

■高僧の魚食が容認されるのは、『日本霊異記』下第六話の「法の為にすれば身を助くるといふことを。・・・・魚宍(ぎよにく)食ふと雖(いへど)も犯罪に非ず」というあたりに共通の根拠が認められる。なお、疫病神が過ぎ越していく話柄は『備後国風土記』逸文にも見えている。

朗読・解説:左大臣光永