宇治拾遺物語 4-17 慈恵僧正(じあそうじやう)、戒壇(かいだん)築(つ)きたる事

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これも今は昔、慈恵僧正は、近江国浅井郡(あふみのくにあさゐごほり)の人なり。叡山の戒壇を、人夫(にんぷ)かなはざりければ、え築(つ)かざりける比(ころ)、浅井の郡司(ぐんじ)は親しき上に、師壇(しだん)にて仏事を修(しゆ)する間、この僧正を請(しやう)じ奉りて、僧膳(そうぜん)の料(れう)に前にて大豆を炒りて酢をかけけるを、「何(なに)しに酢をばかくるぞ」と問はれければ、郡司曰(いは)く、「暖かなる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、にがみてよく挟まるるなり。然(しか)らざれば、すべりて挟まれぬなり」といふ。僧正の曰く、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも挟み食ひてん」とありければ、「いかである事あるべき」とあらがひけり。僧正、「勝ち申しなば、異事(ことごと)あるべからず、戒壇を築(つ)きて給へ」とありければ、「やすき事」とて炒大豆(いりまめ)を投げやるに、一間ばかり退(の)きてゐ給ひて、「一度も落さず挟まれけり。見る者あさまずといふ事なし。柚(ゆ)の実(さね)の只今しぼり出(いだ)したるをまぜて投げてやりたるをぞ、挟みすべらかし給ひたりけれど、落としも立てず、またやがて挟みとどめ給ひける。郡司、一家(いつけ)広き者なれば、人数をおこしてふ不日(ふじつ)に戒壇を築(つ)きてけりとぞ。

現代語訳

これも今は昔、慈恵僧正は、近江の国浅井郡生れの人である。比叡山の戒壇を、人夫をそろえられなくて、築くことができなかった頃、浅井の郡司は慈恵僧正と親しい上に法事の師匠と檀家の関係であり、仏事をいとなむとき、この僧正をお招きした。郡司が、僧に供するご馳走として僧正の前で大豆を炒って酢をかけたので、「何の為に酢をかけられたのか」と聞かれたので、郡司が言うには、「豆が暖かいうちに酢をかけると、皺が寄って箸でよく挟み易くなるのです。そうでないと、滑って挟めないのです」と言う。これを聞いて、僧正が言うには「豆に皺が寄っていようといまいとなんで挟めぬことがありましょうぞ。投げてよこしたら挟んで食べてみせましょう」と言ったので、「そんなことはできますまい」と互いに譲らず言い争いになった。僧正が、「もし私が勝ちましたら、他の事ではいけません。必ず戒壇を築いて下さい」と言う。郡司は「お安い事」と言って炒大豆(いりまめ)を投げてやると、僧正は、一間程、後退して座り、一度も落とさず挟まれた。これを見て驚嘆しない者はいない。柚の実のたった今絞り出したばかりのものを混ぜて投げてやったのを、一旦は滑らせて挟み損なったものの、下まで落としてしまう事もなく、またすぐに挟み止められた。この郡司には一族の親類縁者が大勢いたので、必要な人員を動員して、何日もかけずに戒壇を築き上げてしまったという。

語句

■慈恵僧正-良源(912~985)。木津氏。近江国浅井郡(滋賀県東浅井郡)の出身。理仙大徳の弟子。康保三年(966)、第十八代天台座主となり、焼失した叡山諸堂の再建を成し遂げて、中興の祖と言われた。天元四年(981)、大僧正。■戒壇-僧戒を授けるための壇。それを含む建物が戒壇院。延暦時の戒壇院は天長四年(827)五月に建立されたもの。本話はその再建話。■人夫(にんぷ)かなはざりければ-人夫をそろえられなかったので。■え築(つ)かざりける比(ころ)-築く事ができなかった頃。■修する間-いとなむときに。■請(しやう)じ奉りて-お招きして。■僧膳(そうぜん)の料(れう)に-僧に供するご馳走として。■何しに-何のために。■かけつれば-かけてしまうと。■にがみて-皺がよって。■しからざれば-そうでないと。■師壇-法事の師匠と檀家の関係。■すむつかり-表皮が酢を吸収して伸びてしわが生ずる効果をいうか。■いかなりとも-大豆にしわが寄っていようといまいと。■なじかは挟まぬやうはあるべき-なんで挟めぬことなどありましょうぞ(簡単な事ですよ)。■あらがひけり-(互いに譲らず)言い争った。■異事あるべからず-ほかの事ではいけません。■落しも立てず-(下まで)落してしまうことはなく(途中で)。『古事談』の類話は「オトシモハテズニ」。■一家広き者-一族の親戚演者の多い者。■人数をおこして-(必要な)人数を動員して。■不日に-何日もかけずに。

朗読・解説:左大臣光永

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