宇治拾遺物語 5-1 四(し)の宮(みや)河原地蔵の事

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これも今は昔、山科(やましな)の道づらに、四(し)の宮(みや)河原といふ所にて、袖(そで)くらべといふ商人(あきびと)集る所あり。その辺(へん)の下種(げす)のありける、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)を一体造り奉りたりけるを、開眼(かいげん)もせで櫃(ひつ)にうち入れて奥の部屋など思(おぼ)しき所に納め置きて、世の営みに紛れて程経(へ)にければ、忘れにける程に、三四年ばかり過ぎにけり。

ある夜、夢に、大路を過ぐる者の声高(こわだか)に人呼ぶ声のしければ、「何事ぞ」と聞けば、「地蔵こそ」と、高くこの家の前にていふなれば、奥の方(かた)より「何事ぞ」といらふる声すなり。「明日(あす)、天帝釈(てんたいしやく)の地蔵(じざう)会(あ)し給ふには参らせ給はぬか」といへば、この小家のうちより、「参らんと思へど、まだ目のあかねば、え参るまじく」といへば、「構へて参り給へ」といへば、「目も見えねば、いかでか参らん」といふ声すなり。うち驚きて、何(なに)のかくは夢に見えつるにかと思ひ参らすに、あやしくて、夜明けて奥の方(かた)をよくよく見れば、この地蔵納めて置き奉りたりけるを思ひ出(いだ)して、見出(みいだ)したりけり。「これが見え給ふにこそ」と驚き思ひて、急ぎ開眼し奉りけりとなん。

現代語訳

これも今は昔、山科への道筋にある四の宮河原という所で、「袖くらべ」という商人の集まる所がある。その辺りに身分の低い者たちがいて、地蔵菩薩を一体お造り申し上げていたが、開眼供養もせずに櫃に入れて奥の部屋と思われる所に納め置いたが、生活のための仕事や交際に追われて時が経ち、その事を忘れてしまって三四年ほどが過ぎてしまった。

ある夜、夢の中で、大路を通り過ぎる者が声高に人を呼ぶ声が聞こえたので、「何事か」と思って聞いていると、「地蔵さん、地蔵さん」と大声でこの家の前で呼んでいる。すると、それに応えて、奥の方から「何ですか」と答える声がする。「明日、帝釈天の地蔵会が行われるので、おいでになりませんか」と誘うので、この小家の中から、「参りたいとは思いますが、いまだ目が開いておらず、参れそうもないのです」という。すると外から、「必ずおいでください」と言い、内から「目も見えないのでどうして参りましょうか」と言う声がする。ふと目が覚めて、どうしてこんなことを夢に見えたのかと思いめぐらし、不思議に思って、夜が明けてから奥の方をよくよく見ると、この地蔵を納めて置きっぱなしにしていた事を思い出し、見つけ出したのだった。「これが夢にお見えになったのだ」と驚いて、大急ぎで開眼の供養を営んだということである。

語句

■道づら-道筋。■四(し)の宮(みや)河原-京都市山科区四ノ宮。京都から東へ出る三条街道が四ノ宮川を渡るあたり。交通の要衝で市なども開かれた地。袖河原とも。地名は、仁明天皇の第四皇子人康親王の館跡があったため。一説には、近くにある諸羽神社の通称が四宮(しのみや)であることによるとも。『平家物語』巻十「海道下」には、延喜第四の皇子蝉丸が琵琶を弾きすました所と見える。■袖くらべ-品物の売買の際、売手と買手が袖の中に手を入れ、握り合った数で値段を決める取引法。ここはそれの行われる市場が地名化したもの。■下種-身分の低い者。■造り奉りたりけるを-お造り申し上げたのを。■開眼(かいげん)-開眼の供養。新造の仏像に眼を入れて霊魂を招じ入れ、安置する儀式。入眼(じゆがん)ともいう。■櫃-上に向って蓋を開ける大型の箱。■思(おぼ)しき-思われる。■世の営み-生活のための仕事や交際。■程経(へ)にければ-時がたったので。■忘れにける程に-忘れてしまっているうちに。■地蔵こそ-地蔵さん。「こそ」は相手に呼びかける際に、その人命に添えて用い、親しみや軽い敬意を表す接尾語。書陵部本は「地蔵こそ、地蔵こそ」と繰り返しになっている。ここはそのほうがふさわしい。■いらふる-答える。■天帝釈(てんたいしやく)-帝釈天の事。梵天と同じ仏教の守護神。■地蔵会(じざうあ)-地蔵菩薩を供養する法会。地蔵盆。京都では古くは七月二十二~二十四に行われた。しかし、ここは帝釈天が主催する特別の法会とも解される。■参らせ給はぬか-おいでになりませんか。■え参るまじく-参れそうもないのです。■構へて-必ず。■いかでか参らん-どうして参りましょうか。■すなり-するようである。■うち驚きて-目を覚まして。■かくは夢に見えつるにかと-このように夢に見えたのかと。■思ひ参らすに-思いめぐらすと。■あやしくて-不思議に思って。■置き奉りたりけるを-置きっぱなしにしておいたのを。■見え給ふにこそ-お見えになったのだと。

朗読・解説:左大臣光永

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