宇治拾遺物語 5-6 同清仲(きよなか)の事

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これも今は昔、二条の大宮と申しけるは、白河院(しらかはのゐん)の宮、鳥羽院(とばのゐん)の御母代(ははしろ)におはしましける。二条の大宮とぞ申しける。二条よりは北、堀川よりは東におはしましけり。その御所破(やぶ)れにければ、有堅(ありかた)大蔵卿、備後国(びんごのくに)を知られける重任(ぢゆうにん)の功(こう)に修理(しゅり)しければ、宮も外(ほか)へおはしましにけり。

それに陪従(べいじゆう)清仲(きよなか)とふ者、常に侍(さぶら)ひけるが、宮おはしまさねども、なほ、御車宿(くるまやどり)の妻戸にゐて、古き物はいはじ、新しうしたる束柱(つかはしら)、蔀(しとみ)などをさへ破(やぶ)り炊(た)きけり。この事を、有堅、鳥羽院に訴(うた)へ申しければ、清仲を召して、「宮渡らせおはしまさぬに、なほとまりゐて、古物(ふるきもの)、新物(あたらしきもの)こぼち焚くなるは、いかなる事ぞ。修理する者訴(うた)へ申すなり。まづ宮もおはしまさぬに、なほ籠(こも)りゐたるは、何事に寄りて候ふぞ。子細(しさい)を申せ」と仰(おほ)せられければ、清仲申すやう、「別に事に候はず。薪(たきぎ)につきて候ふなり」と申しければ、大方(おほかた)これ程の事、とかく仰せらるるに及ばず、「すみやかに追ひ出(いだ)せ」とて、笑はせおはしましけるとかや。

この清仲は法性寺殿の御時、春日の祭乗尻(のりじり)に立ちけるに、神馬(じんめ)づかひ、おのおのさはりありて事欠けたりけるに、清仲ばかりかう勤めたりしものなれども、「事欠けにたり。相構へて勤めよ。せめて京ばかりをまれ、事なきさまに計らひ勤めよ」と仰せられけるに、「かしこまりて承(うけたまは)りぬ」と申して、やがて社頭に(しやとう)に参りたりければ、返す返す感じ思(おぼ)し召す。「いみじう勤めて候ふ」とて御馬を賜(た)びたりければ、ふし転(まろ)び悦(よろこ)びて、「この定に候はば、定使(ぢやうづかひ)を仕(つかまつ)り候はばや」と申しけるを、仰せつぐ者も、候ひ合ふ者どもも、ゑつぼに入りて笑ひののしりけるを、「何事ぞ」と御尋ねありければ、しかじかと申しけるに、「いみじう申したり」とぞ仰せ事ありける。           

現代語訳

同じく清仲の事

これも今は昔、二条の大宮と申した方は、白河院の皇女で、鳥羽院の准母であった。二条の大宮と申しあげた。二条よりは北、堀川よりは東にお住いになっておられた。その御所が壊れてしまったので、有堅(ありかた)大蔵卿が備後の国を治めておられた重任の功に、その御所の修理をなされたので、宮も他へお移りになられた。

そこに陪従清仲という者がいつも宮の傍に仕えていたが、宮がおられなくなっても、やはり、御車宿の妻戸に居て、古い物はもちろん、新しくした束柱、蔀なども壊して燃やしてしまうのであった。この事を有堅が鳥羽院に訴え出たので、鳥羽院は清仲を召し出し、「宮がお出でにもならないのに、まだここに留まり、古い物、新しい物にかかわらず壊して焚くというのはどういう事か。修理する者が訴え申すのだ。まづ、宮もおいでにならないのに、なおも籠っているのは、どういうことか。訳を申せ」と仰せられたので、清仲は、「格別の事もございません。薪が無くなったからでございます」と申し上げたので、およそこれ程の事をとやかく仰せられるまでもなく、「早く追い出せ」といって、笑っていらっしゃったとかいうことだ。

この清仲は法性寺殿の御時に、春日神社の祭りでの競馬の騎手に立ったが、神馬を使う者が、それぞれさしつかえがあって勤めを休んだ時、清仲だけがよく勤めを果たしたのだが、「神馬使いが欠けている。よくよく慎重に勤めよ。せめて行列が京の町中を通る間だけでも無事に通るように勤めよ」と仰せられたので、「慎んで承りました」と申して、そのまま神社の入口に到着したので、重ね重ねご感嘆なされた。「みごとに勤めを果たしたものだ」といって、御馬を賜ったので、清仲は転げまわって喜び、「このように褒美に馬がいただけるのでありましたら、常任の神馬使いになりたいものです」と申したので、仰せを伝える者も、その場に居合わせた者も、みな面白がり笑い転げて喜んだが、それを殿が「何事か」とお尋ねになったので、これこれと申し上げると、「面白い事を申したものだ」と仰せ言があった。

語句

■二条の大宮-白河天皇の皇女、令子(1078~1144)。賀茂斎院、鳥羽天皇の准母(母代わりの後見者)、太皇太后。■鳥羽院-第七十四代天皇(1103~56)。堀河天皇の皇子。在位十六年。保安四年以降は院政を執る。■おはしましける-おありになった。■有堅(ありかた)大蔵卿-源有堅(1070~1139)。刑部卿政長の子、宮内卿、従三位。郢曲(えいきょく)、笛、筝(そう)等管弦の名手、父と同様に堀河天皇の管弦の師。■備後国(びんごのくに)-現在の広島県東部。■知られける-治めておられた。■重任の功-平安時代後期から、任期の果てようとする国司が、内裏や神社仏閣などの造営費・修理費の献金を行って、同じ国の国司としての留任を認めてもらう事を「成功(じょうごう)の重任」または単に「成功」といった。■おはしましにけり-お移りになった。

■清仲-伝未詳。■候ひけるが-お仕えしていたが。■おはしまさねど-おいでにならないが。■車宿(くるまやどり)-寝殿造の中門の外に設けられた牛車を格納しておく所。■妻戸-開き戸のそばの部屋。■いはじ-いうまでもなく。■束柱(つかはしら)-縁側の下などに立てた短い柱。■蔀(しとみ)-立蔀で、目隠しの板堀。■渡らせおはしまさぬに-おいでにならないのに。■なほとまりゐて-やはり留まっていて。■こぼち焚くなるは-こわして焚くというのは。■子細を申せ-訳を申せ。■別の事に候はず-どうということはございません。■薪につきて候ふなり-薪が無くなったからです。■大方-およそ。■とかく仰せらるるに及ばず-あれこれ仰せられるまでもなく。■笑はせおはしましけるとかや-笑っていらっしゃったとかいうことだ。

■法性寺殿-藤原忠通の通称。忠通が関白または摂政であったのは、保安二年(1121)三月から保元三年(1158)八月まで、鳥羽・崇徳・近衛・後白河天皇の四代の治世までに及んだ。■春日の祭-奈良の春日大社の祭礼。賀茂祭、石清水八幡宮の祭りとともに三勅祭(勅使の派遣される三大祭)と呼ばれた。陰暦二月と十一月の上の申(さる)の日に催された。■乗尻-朝廷から春日大社へ神馬四頭、走り馬(競馬の馬)十二頭が奉納されたが、その走り馬の乗り手。■神馬づかひ-奉納する神馬を扱う使者。京都から奈良までの献上馬の届け役には近衛府の官人があてられた。■さはりありて-さしつかえがあって。■事欠けたりけるに-その役が欠けていた時に。■かう勤めたりし者-このように勤めた者であるが。■相構えて-よくよく慎重に。■京ばかりをまれ-行列が京都の町中を通過する間だけでも。「まれ」は「もあれ」の約。だけであっても。■事なきさまに-無事に通るように。■やがて-そのまま。■感じ思(おぼ)し召す-ご感嘆なされる。■いみじう-みごとに。■ふし転び-陪従らしいおどけたおおげさな喜びのしぐさ。転げまわって。■この定に候はば-いつもこんなふうでございますなら。このように褒美に馬がいただけるのでありましたら。■定使いを仕り候はばや-常任の神馬使いになりたいものです。■仰せつぐ者-法性寺院の仰せを取り次ぐ者。■候ひあふ者-いあわせる者。■ゑつぼに入りて-おもしろがり喜んで。■笑ひののしりける-笑い転げて悦んだ。■しかじか-これこれ。■いみじう申したり-おもしろい事を申したものだ。

朗読・解説:左大臣光永

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