宇治拾遺物語 5-9 御室戸僧正(みむろどのそうじやう)の事、一乗寺僧正(いちじやうじのそうじやう)の事

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原文

これも今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正とて、三井(みゐ)の門流にやんごとなき人おはしけり。御室戸の僧正は隆家師(たかいへのそち)の第四の子なり。一乗寺僧正は経輔(つねすけ)大納言の第五の子なり。御室戸をば隆明といふ。一乗寺をば増誉といふ。この二人(ふたり)おのおの貴(たふと)くて生仏(いきぼとけ)なり。

御室戸は太りて修行するに及ばす。ひとへに本尊の御前(おまへ)を離れずして、夜昼行ふ鈴(れい)の音絶ゆる時なかりけり。おのずから人の行き向ひたれば、門をば常にさしたる。門を叩(たた)く時、たまたま人の出(い)で来(き)て、「誰(だれ)ぞ」と問ふ。「しかじかの人の参らせ給ひたり」、もしは、「院の御使(つかひ)に候(さぶら)ふ」などいへば、「申し候はん」とて、奥へ入(い)りて、無期(むご)にある程、鈴(れい)の音しきりなり。

さて、とばかりありて、門の関木(くわんのき)をはづして、扉片つかたを人一人入る程あけたり。見入るれば、庭には繁(しげ)くして、道踏みあけたる跡もなし。露を分けてのぼりたれば、広廂(ひろびさし)一間(ま)あり。妻戸に明り障子(しやうじ)立てたり。煤(すす)け通りたる事いつの世に貼りたりとも見えず。

しばしばかりありて、墨染(すみぞめ)着たる僧、足音もせで出で来て、「しばしそれにおはしませ。行いの程の候ふ」といへば、待ちゐたる程に、とばかりありて、内より、「それへ入らせ給へ」とあれば、煤けたる障子を引きあけたるに、香(かう)の煙くゆり出でたり。萎え通りたる衣に袈裟なども所々破れたり。物もいはでゐられたれば、この人もいかにと思ひて向ひゐたる程に、こまぬきて、少しうつぶしたるやうにてゐられたり。しばしある程に、「行ひの程よくなり候ひぬ。さらばとく帰らせ給へ」とあれば、いふべき事もいはで出でぬれば、また門やがてさしつ。これは ひとへに居行(ゐおこな)ひの人なり。

一乗寺僧正は大嶺は二度通られたり。蛇を見る法行はるる。また竜の駒などを見などして、あられぬ有様をして行ひたる人なり。その坊は一二町ばかりよりひしめきて、田楽(でんがく)、猿楽(さるがく)などひしめき、随身(ずいしん)・衛府(ゑふ)のをのこどもなど出で入りひしめく。物売(ものうり)ども入り来て、鞍(くら)、太刀(たち)、さまざまの物を売るが、かれがいふままに価(あたひ)を給(た)びければ、市(いち)をなしてぞ集ひける。さてこの僧正のもとに世の宝は集ひあつまりたりけり。

それに呪師(じゆし)小院といふ童(わらは)を愛せられけり。鳥羽の田植にみつきしたりける。さきざきはくびにのりつつ、みつきをしけるを、この田植に、僧正言ひ合せて、この比(ごろ)するやうに、肩に立ち立ちして、こはばより出でたりければ、大方(おほかた)見る者も驚き驚きし合ひたりけり。この童余りに寵愛(ちやうあい)して、「よしなし。法師になりて夜昼離れず付きてあれ」とありけるを、童、「いかが候ふべからん。今しばしかくて候はばや」といひけるを、僧正なほいとほしさに、「ただなれ」とありければ、童しぶしぶに法師になりにけり。

さて過ぐる程に、春雨うちそそぎて、つれづれなりけるに、僧正、人を呼びて、「あの僧の装束(さうぞく)はあるか」と問はれければ、この僧、「納殿(をさめどの)にいまだ候ふ」とけり。申しければ、「取りて来(こ)」といはれけり。持(も)て来たりけるを、「これを着よ」といはれければ、呪師小院、「見苦しう候ひなん」といなみけるを、「ただ着よ」と責めのたまひければ、かたかたへ行きてさうぞきて、兜(かぶと)して出で来たりけり。露昔に変らず。僧正うち見て、かひを作られけり。小院また面変(おもがは)りして立てりけるに、僧正、「いまだ走りては覚ゆや」とありければ、「覚え候はず。ただし、かたさらはの調(てう)ぞよくしつけて来(こ)し事なれば、少し覚え候ふ」といひて、せうのなかわりてとほる程を走りて飛ぶ。兜持ちて、一拍子に渡りたりけるに、僧正声を放ちて泣かれけり。さて、「こち来よ」と呼び寄せて、うちなでつつ、「何(なに)しに出家をさせけん」とて、泣かれければ、小院も、「さればこそ、今しばしと申し候ひしものを」といひて、装束脱がせて、障子(しやうじ)の内へ具(ぐ)して入(い)られにけり。その後はいかなる事かありけん、知らず。

現代語訳

これも今は昔、、一乗寺僧正、御室戸僧正といった園城寺の流派で尊い方がおいでになった。御室戸の僧正は隆家師(たかいへのそち)の第四子である。一乗寺僧正は経輔(つねすけ)大納言の第五子である。御室戸をば隆明という。一乗寺をば増誉という。この二人はそれぞれ尊くて生き仏である。

御室戸は太っていて、峰々を踏破するような修行ができない。それで、ひたすら本尊の御前を離れずに、勤行をしたので、夜も昼も勤行の鈴の音が絶える時はなかった。たまたま、人が来訪したりすると、門をいつも閉めてある。門を叩くと、たまたま人が出て来て、「誰か」と問う。「これこれという人が参られております」、もしくは、「白河院の御使いでござる」などと言うと、「お取次ぎいたしましょう」といって奥へ入り、長い間待っている間、鈴の音がしきりに聞える。

さて、しばらくすると、内側から門の関木を外して門の片方を人が一人は入れるほどに開けた。見ると、庭には草が繁り、道を踏み分けた跡も無い。露を分けて登って行くと、広廂が一間ある。妻戸に明り障子を立ててある。すすけてしまっていつごろ貼られたのかわからない。

しばらくすると、墨染の衣を着た僧が、足音もさせず出て来て、「しばらくそこでお待ちください。勤行の時間でございます」と言うので、坐って待っているうちに、しばらくして、内側から、「そこにお入りください」と言うので、すすけた障子を引き開けると、線香の煙りが静かに流れ出て来た。物も言わず坐っておられるので、客の方も、どうしたものかと思って、向き合って坐っていると、僧正は手を組んで腹の上に置き、少しうつむきかげんに坐っておられる。しばらくすると、「加持祈祷も十分行い済ませました。それでは早々にお帰り下さい」と言うので、言うべき事も言わずに出てしまうと、また門がすぐに閉められた。これはひとえに籠居(ろうきょ)して修行する人である。

一乗寺僧正は大嶺の霊地を二度お通りになった。蛇を見あらわす呪法を行われる。また、竜の駒などを見あらわしたりなされて、きわめて過激な難行法を行った人である。その宿坊は、一、二町ほども先から寄り集まる人でごったがえし、田楽、猿楽などの芸人がひしめき、随身や衛府の男たちなどが出入りしてひしめく。物売りの商人なども入って、鞍や太刀などいろいろな物を売っているが、商人が言うままの代価を支払ってくれるので、人が多く集まった。こうしてこの僧正の所に世間の宝という宝が集まったのであった。

さて、この僧正は、呪師の小院という童を寵愛されていた。この童は、鳥羽の田植え祭りの時、「みつき」を演じた。以前は首に乗って「みつき」を演じていたが、この田植え祭りの時には僧正はこの童と打ち合わせして、近ごろやり始めている演じ方で、童が男の肩に立ちながら、こはばから出て来たので、見ていた人はみなただただ驚き合ったのだった。僧正はこの童をあまりにも溺愛し、「今のように時々しか会えないのでは物足りない。いっそのこと法師になって夜昼離れず傍に居てくれ」とおっしゃられるのを、童は、「どうしたものでしょうか。今しばらくこのままでいたいものです」と答えると、僧正はなお執着して、「とにかく法師になりなさい」と言ったので、童はいやいやながらも法師になったのであった。

こうして一緒にいるようになって月日がたった。春雨がしとしとと降り注いで所在がない時に、僧正が人を呼んで、「あの僧の以前の装束はあるか」と聞かれたので、聞かれた僧が、「納戸にまだございます」と申し上げると、「取って来い」と言われた。僧正は僧が持ってきた装束を御覧になり、「これを着れ」と呪師小院に言われた。呪師小院は、「法師になった自分には、今更みっとものうございましょう」と拒んだが、「とにかく着るのだ」としっこく申されるので、片隅に行って、その装束を着て、楽人のかぶる鳥兜をかぶって出て来た。まったく昔と変わっていない。僧正はこれを御覧になり、口をへの字に結んで泣きべそをかかれた。小院もまた顔つきが変って立っていると、僧正は、「まだ<走りて>の曲は覚えているか」と聞いたので、「覚えておりません。ただし、<かたさらは>の曲であればよく練習したので少しは覚えております」と言って、小さい物の中を通る程の狭い所を走って一気に跳ぶ。兜を持って、一気に跳び渡ったので、僧正は感嘆して声をあげてお泣きになった。それから、「こっちにおいで」と小院を呼び寄せ、頭をなでながら、「どうして出家などさせたのだろう」と言って、泣かれるので、小院も、「だからこそ、今しばらくと申し上げましたのに」と言うと、僧正は小院の装束を脱がせ、障子の内へ一緒に入って行かれた。その後どういうことがあったのかはわからない。

語句

■一乗寺僧正-増誉(1032~1116)。権大納言藤原経輔の子。三井寺の明尊の弟子。山城国愛宕郡(京都市左京区)の三井寺の別院一乗寺に居住した。天台座主、三井寺長史(第二十五代)、天王寺別当などを歴任。隆明ともども白河、堀川両天皇の護持僧。■御室戸僧正-藤原隆明(1021~1114)。隆家の子。増誉の叔父にあたる。三井寺の心誉の弟子。大僧正、三井寺長史(第二十四代)、康和三年(1101)以降、三井寺大衆と違背して寺を去り、宇治の三室戸に住む。真言・止観に通じ、有験で聞えた。■三井-滋賀県大津市の園城寺。天台宗寺門派の総本山。■やんごとなき-貴い。■おはしけり-おいでになった。■隆家師-藤原孝家(979~1044)。関白道隆の子。中納言、大宰権師。■経輔-藤原経輔(1006~81)。孝家の子。権大納言、太皇太后宮大夫、太宰師。のち出家。■生き仏-現世に生きる仏の意で、高徳の僧を言う。

■修行するに及ばず-修業することができない。■ひとへに-ひたすら。■夜昼行ふ鈴(れい)の音-昼夜の別なく一日中続けられる勤行で鳴らす鈴(れい)の音。「鈴」は金属製の仏具。取っ手のついた直径数センチの小型の鐘で、持ち上げて振って成らす。■おのづから-たまたま。■行き向ひたれば-出向いてみると。■さしたる-閉めてある。■しかじかの-これこれの。■申し候はん-お取次ぎいたしましょう。■無期(むご)にある程-長い時間。際限のない事。

■とばかりありて-しばらくたって。■関木-門戸をさしかためる金具。門扉の左右の金具にさし通して用いる。■片つかた-片方。■広廂-寝殿造りで、中央の母屋の外側の、一段低い簀子縁(すのこえん)の内側の間。■妻戸-寝殿造りの殿舎の四隅にある両開きの戸。■明り障子-明かりを採るための障子。妻戸では室内が暗いので、その代りに採光のよい障子を立てていた。■通りたる事-汚れきっている事は。■いつの世に貼りたりとも見えず-いつごろ貼ったかもわからない。

■しばしばかりありて-しばらくたって。■足音もせで-足音もしないで。■行ひの程の候ふ-勤行の時間でございます。■とばかりありて-しばらくして。■くゆり出でたり-くすぶり出て来た。■萎え通りたる衣-着古して、すっかり皺だらけで、くたくたになっている僧衣。■ゐられたれば-坐っておられるので。■いかにと思ひて-どうしたのかと思って。■向ひゐたる程に-向きあって座っている間に。■こまぬきて-手を組んで腹の上に置き。■うつぶしたる-うつむいた。■行ひの程よくなり候ひぬ-加持祈祷も十分行いすませました(大系の解釈を踏襲)。相手が依頼に来た用件を察知して祈祷を施し終えたこと。「さらばとく帰らせ給へ」が「丁度勤行の時間になりました。急いでお引き取り下さい」では、上皇の使者に無礼な事になるので、採らない。■やがてさしつ-すぐに閉じてしまう。■居行ひの人-回国行脚の修行をせず、もっぱら屋内での修行をするタイプ。

■大嶺-奈良県吉野郡にある山伏修行の霊場。北は金峰山、南は玉置山に及ぶ。増誉は、この地と役小角(えんのおづの)(修験道の祖)の難行の故地である葛城山(かつらぎさん)で修行。■竜-馬のように四足をもつ竜か。■あられぬ有様をして行ひたる-きわめて過激な難行法を行った。■行ひたる人-修業をした人。■寄りあいひしめきて-寄りあい押しあって。■田楽(でんがく)、猿楽(さるがく)などひしめき-田楽や猿楽を演ずる法師ども。田楽は腰鼓・笛・ささら、また高足などを用いる遊芸。■随身(ずいじん)-貴人の外出に、勅命を蒙り、護衛に当たった近衛の舎人。弓矢を負い刀を帯びた。■衛府(ゑふ)-宮中の警護に当る左右の近衛府・兵衛府・衛門府の総称。■価を給びければ-代金を払ってくれたので。■市をなす-人が多く集まる事。

■さらに-さて。■呪師小院-呪師の芸をする少年の愛称。「呪師」は、奈良の興福寺、京都の法成寺・尊勝寺のような大寺院に隷属し、法会などで「走り」の芸を演じて勤仕した役僧。鼓・鈴を用い、鳥兜(とりかぶと)をかぶり、華麗な装束を着用して人目をひいた。■鳥羽の田植-鴨川下流域の良田地帯である鳥羽の田圃での田植祭の際に。■みつけ-呪師の曲芸の種目。人の首や肩などの高所に乗ってする軽業芸。高足・一足のような散楽系の演技らしい。■肩に立ち立ちて-肩車式のやり方から肩に立つやり方に変ったもの。「肩踊り」は、子どもが大人の肩に立って演じる芸をいう。■こはば-全書は「小幅(幅幕)」とするが、未詳。■よしなし。法師になりて云々-今のように時々しか会えないのでは物足りない。いっそのこと法師になって。■ありけるを-おっしゃったのを。■いかが候ふべからん-どうしたらよいものでしょうか。■かくて候はばや-こうしていたいものです。■いとほしさに-可愛さに。■ただなれ-とにかく法師になれ。

■つれづれなりけるに-所在のないおりに。■装束-出家前に着ていた呪師の芸装束。呪師の装束はまことに華美で、金銀の箔を押した袍(わたいれ)や蛮絵の袍のようなものまであったという。大江匡房の『江家次第』は、呪師の装束が華美になり始めたのは、後三条院の円宋寺供養からとする。■納殿-寺の調度・衣服などの格納所。■見苦しう候ひなん-法師になった自分には、今更みっとものうございましょう。■-いなみけるを-断ったのを■ただ着よ-先の小院の出家に際しても、僧正は我意が強く、「ただなれ」と無理強いしていた。。■かたかたへ-片隅へ。■さうぞきて-装束をつけて。■兜-鳥兜。金襴・錦織などで鳳凰の頭部をかたどり、最頂部は前方に突出し、後方に錣(しころ)が垂れている、全体として鳥が翼をおさめた形に似せた作りになっている。■かひを作られけり-(蛤などの大きな貝が口を閉じているさまの連想から)口をへの字に結んで泣きべそをかくこと。■面変りして-普段と顔つきが変って。きりきりと引き締まった呪師時代の表情を現して。■走り-呪師走りの芸の手。呪師の芸はすばやい動きで演じられるのが特徴で、「走り」と総称され、演目には「剣手」「武者手」「大唐文殊手」「とりはみ」「かたさらはの手」などがあったが、その具体的な演じ方は不明である。■かたさらは-呪師芸の演目。内容は未詳。■せうの-大系は「粧の中割手を終りまでやり通すほど舞い跳ねた」とするが未詳。■一拍子に-一気に飛び跳ねて渡ったこと。呪師小院の速足の芸がまだ健在であったことが証明された。                                                                                    

備考・補足

白河院の要請で、頓死した藤原保実を二人で加持して蘇生させ、「一乗寺、三室と申す、仏法のしるし霊験なり」(宝物集・巻ニ)とたたえられるなど、稀代の高僧であった隆明、増誉両人の、まったく対称的な、日常生活の特異さを描く。

朗読・解説:左大臣光永