宇治拾遺物語 5-12 大二条殿に小式部内侍(こしきぶのないし)、歌詠(よ)みかけ奉る事

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原文

これも今は昔、大二条殿、小式部内侍思(おぼ)しけるが、絶え間がちになりける比(ころ)、例ならぬ事おはしまして、久しうなりて、よろしくなり給ひて、上東門院へ参らせ給ひたるに、小式部台番所(だいばんどころ)にゐたりけるに、出でさせ給ふとて、「死なんとせしは、など問はざりしぞ」と仰(おほ)せられて過ぎ給ひけるに、御直衣(なほし)の裾(すそ)を引きとどめつつ申しけり。

死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にしあらねば

堪えず思(おぼ)しけるにや、かき抱(いだ)きて局(つぼね)へおはしまして、寝させ給ひけり。

現代語訳

これも今は昔、大二条殿は小式部内侍を愛しておられたが、逢うのが途絶えがちになった頃、病気になられて、しばらくたってから、病気も快方に向かったので、上東門院へ参上なされた折、小式部が台番所に居ると、大二条殿がお帰りになろうとして、「自分は病気で死ぬかと思ったのだがどうして見舞いに来なかったのか」と仰せられて、そこを通り過ぎようとされた時、小式部は、大二条殿の御直衣の裾をつかんで引きとどめながら申し上げた。

私は一人死ぬほどつらい思いで嘆いておりました。どうせ生きているうちに晴れて貴方をお尋ねできるはずもない身の上ですから

大二条殿はこの歌を聞いて、堪えがたいほど、小式部を愛おしく思われたのか、かき抱いて小式部の部屋にお入りになり、お休みになられた。

語句

■大二条殿-藤原教通(996~1075)。道長の三男。関白、太政大臣。■小式部内侍-橘道貞の娘。母の和泉式部とともに上東門院に仕え、教通の子、静円僧正を産む。歌才に富み、『後拾遺集』以下に入集。■おぼしけるが-愛しておられたが。■絶え間がちになりける比(ころ)-逢う事もたえがちになったころに。■例ならぬ事-(教通の不例、すなわち病気。■おはしまして-おなりになって。■よろしくなり給ひて-快くおなりになって。■上東門院-藤原彰子(988~1074)。教通の姉、一条天皇の后。後一条、後朱雀両天皇の生母。万寿三年(1026)女院号を受ける。■台番所(だいばんどころ)-食べ物を盛った盤をのせる台)、すなわち台盤を置いて、食膳を調える所。■出でさせ給ふとて-お帰りになろうとして。■死なんとせしは-死ぬところであったよ。■など問はざりしぞ-そうして見舞ってくれなかったのか。■直衣(なほし)-高貴な人々の通常の服。袍(うえのきぬ)に似ているが、幅が狭く丈が短くて、位による色のきまりがない。■局-長い建物をいくつにもしきり隔てた室。■死ぬばかり云々-『後拾遺集』第三に載る歌。■生きて-「生きて・行きて」と掛ける。お見舞いに行って、病状をお尋ねできる立場ではありませんので。■堪えず思しけるにや-たえがたくお思いになったのか。
     

備考・補足

■冷めかけた男の愛情を即妙の歌によって、取り戻した歌徳説話。打てば響くように常に即応できたところに、才媛の本領が見える。
■『後拾遺集』一七に、「二条前大いまうち君、日比わづらひて怠りて後、など訪ざりつるぞといひ候ひければよめる 小式部内侍」とあって、この「死ぬばかり」の歌が載せられている。また、『袋草紙』三にも、本書とほぼ同じように記されている。小式部内侍という女は、母の多情と才知とを受け継いだもので、『宝物集』一にも、「大二条殿の思人にて、殊の外にもてなし給ひけり。万の人、心をつくし思ひを掛けたりけれ共、御子静円僧正など出来給ひて、おもくもめでたくて過ける程に」と伝えられている。ここでは、歌の徳によって、男の愛を取り戻したというのである。

朗読・解説:左大臣光永


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