宇治拾遺物語 6-2 世尊寺(せそんじ)に死人堀り出(いだ)す事

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今は昔、世尊寺といふ所は桃園(ももぞの)の大納言住み給へるが、大将になる宣旨蒙(せんじかうぶ)り給ひにければ、大響(だいきやう)はあるじの料(れう)に修理し、まづは祝ひし給ひし程に、明後日(あさて)とてにはかに失(う)せ給ひぬ。使はれ人みな出で散りて、北の方、若者ばかりなんすごくて住み給ひける。その若者は主殿頭(とのもりのかみ)ちかみつといひしなり。

この家を一条摂政殿取り給ひて、太政大臣になりて大響行はれける。坤(ひつじさる)の角(すみ)に塚のありける、築地(ついじ)をつき出(いだ)して、その角(すみ)は襪形(したうづがた)にぞありける。殿、「そこに堂を建てん。この塚を取り捨てて、その上に堂建てん」と定められぬれば、人々も、「塚のためにいみじう功徳(くどく)になりぬべき事なり」と申しければ、塚を掘り崩すに、中に石の辛櫃(からびつ)あり。あけて見れば、尼の年二十五六ばかりなる、色美しくて、唇の色など露(つゆ)変らで、えもいはず美しげなる、寝入りたるやうにて臥したり。いみじう美しき衣の色々なるをなん着たりける。若かりける者のにはかに死にたるにや、金(こがね)の坏(つき)うるはしくて据ゑたりけり。入りたる物、何(なに)も香(かう)ばしき事類(たぐひ)なし。あさましがりて、人々立ちこみて見る程に、乾(いぬゐ)の方より風吹きければ、色々なる塵(ちり)になんなりて、失(う)せにけり。金(かね)の坏(つき)より外の物、露とまらず。「いみじき昔の人なりとも、骨、髪の散るべきにあらず。かく風の吹くに塵になりて吹き散らされぬるは、稀有(けう)のものなり」といひて、その比(ころ)、人あさましがりける。摂政殿いくばくもなくて失せ給ひにければ、この祟りにやと人疑ひけり。

現代語訳

今は昔、世尊寺という所には桃園の大納言がお住みになっていたが、近衛大将になる旨の宣旨をお受けになられたので、任官の祝宴で客をもてなすため、家を修理し、前祝の宴をお開きになったが、明後日はいよいよその宣旨を賜る晴れの日というときになって、突然お亡くなりになってしまった。使用人は皆、散り散りに去って行ったが、北の方と若君だけがわびしく住んでおられた。その若君は主殿頭(とのみつのかみ)ちかみつと言った。

その後、この家を一条摂政がお取り上げになり、太政大臣になって、就任祝いの祝賀の宴を行われた。家の南西の角に塚があったが、土堀をめぐらしてあって、その角は足袋底のような細長い形をしていた。一条摂政は、「そこに堂を建てよう。この塚を取り壊して、その上に堂を建てよう」と定められた。人々も「塚のためにそれは立派な功徳になりましょう」と申し上げたので、その塚を掘り崩すと、中に石の棺が置かれていた。あけてみると、二十五六ばかりの尼が、顔色も美しく、唇の色なども少しも変らないまま、何とも言えぬ美しい姿で、眠るように横たわっていた。とても美しい色々な種類の着物を着ていた。若い時に突然亡くなったのであろうか、金の杯がきちんと置かれていた。その中に入っている物は、どれも香ばしく他では見かけない物であった。あまりのことに驚いて、人々が群がって見ているうちにると、西北の方角から風が吹いて来ると、それらがみな色とりどりの塵になって、飛んで行ってしまった。金の杯より外の物は何も残らない。「いかに大昔の人であるにせよ骨や髪の毛は散り去るはずがない。こうして風に吹かれて、塵になって飛び散ってしまったのは、珍しい事だ」と言って、その頃の人々は驚き合っていた。

摂政殿がそれから間もなくお亡くなりになったので、この祟りではないかと人々は疑ったという。

語句

■世尊寺(せそんじ)-京都の一条北。大宮西にあった。もと清和天皇の皇子貞純親王(桃園親王)の御所。後、本話の藤原師氏、摂政藤原伊尹(これただ)の邸宅となり、長保三年(1001)、その孫の行成が寺となした。■桃園(ももぞの)の大納言-藤原師氏(913~970)。忠平の子。東宮傳、左衛門督、右近衛大将。天禄元年(970)一月、大納言に昇り、枇杷(びわ)大納言と称した。■宣旨-天皇の命令(勅旨)を述べ伝える事。■大響-大将就任披露の祝賀の宴。■あるじ-客をもてなすために。「あるじ」は「あるじまうけ」の略。■料(れう)-それに用いるための物。材料。たね。■料に-ために。 ■明後日-大響を明後日に控えた日に。師氏の死は、天禄元年七月十四日。■失せ給ひぬ-お亡くなりになった。■出で散りて-散り散りに去って。■北の方-ここは未亡人となった師氏夫人。安芸守高階維明(たかしなこれあき)の娘。■若君ばかり云々-維明の娘の子には、兵部大輔親賢、主殿頭近信の兄弟がいたが、ここは後者をさす。■すごくて-ものさびしいさまで。■主殿頭-主殿寮の長官。主殿寮は天皇の乗り物の手配、淋浴、庭の掃除、灯明のことなどをつかさどる。「ちかみつ」は、近信の誤伝。■一条摂政-藤原伊尹。天禄二年十一月二日に太政大臣に就任している。

■取り給ひて-お取り上げになって。■坤-南西。■襪形(したうづがた)-「したぐつ」の音便。束帯着用の際に履く。足袋上の履物。■いみじう-たいそう。■功徳-現世・来世の幸福をもたらす元となる善行。■石の辛櫃(からびつ)-蓋つきの長方形、石製の死骸を入れる棺。■露(つゆ)変らで-少しも変らないで。■えもいはず-いいようもなく。■色々なるを-さまざまな色をしたのを。■死にたるにや-死んだのであろうか。■うるはしくて-きとんと。■何も-どれも。■あさましがりて-おどろきあきれて。■立ちこみて-多く入り込んで。■乾の方より-西北の方角から。西北は陰陽道では、鬼門である東北とともに、用心すべき裏鬼門にあたる。■色々なる-さまざまな。■塵になんなりて-塵になって。■失せにけり-なくなってしまった。■つゆとまらず-まったく残らない。■いみじき昔の人なりとも-いかに大昔の人であるにせよ。「皮膚や肉身はともかく」の含み。■散るべきあらず-散るはずはない。■稀有-珍しい。■摂政殿いくばくもなくて失せ給ひにければ-伊尹(これただ)は、天禄三年十一月一日に没した。太政大臣就任披露の大響が前年の十一月二日に行われているので、それから奇しくもちょうど一年目に没した事になる。■この祟り-石棺を発掘して中の遺体を人目にさらした祟り。

朗読・解説:左大臣光永

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