宇治拾遺物語 7-1 五色の鹿の事
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これも今は昔、天竺(てんぢく)に、身の色は五色にて、角(つの)の色は白き鹿(しか)一つありけり。深山(みやま)にのみ住みて、人に知られず。その山のほとりに大(おほ)きなる川あり。その山にまた烏(からす)あり。このかせぎを友として過す。
ある時この川に男一人(ひとり)流れて、すでに死なんとす。「我を人助けよ」と叫ぶに、このかせぎ、この叫ぶ声を聞きて、悲しみに堪へずして、川を泳ぎ寄りて、この男を助けてけり。男、命の生きぬる事を悦(よろこ)びて、手を摺りて鹿に向ひて曰(いは)く、「何事(なにごと)をもちてか、この恩を報ひ奉るべき」といふ。かせぎの曰く、「何事をもちてか恩をば報はん。ただこの山に我ありといふ事をゆめゆめ人に語るべからず。我が身の色五色なり。人知りなば、皮を取らんとて必ず殺されなん。この事を恐るるによりて、かかる深山に隠れて、敢(あ)へて人に知られず。然(しか)るを、汝(なんじ)が叫ぶ声を悲しみて、身のゆくすゑを忘れて助けつるなり」といふ時に、男、「これまことの理(ことわり)なり。さらにもらす事あるまじ」と、返す返す契りて去りぬ。もとの里に帰りて月日を送れども、さらに人に語らず。
かかる程に、国の后夢に見給ふやう、大きなるかせぎあり。身の色は五色にて、角白し。夢覚めて大王に申し給はく、「かかる夢をなん見つる。このかせぎ定めて世にあるらん。大王必ず尋ね取りて、吾(われ)に与え給へ」と申し給ふに、大王宣旨(せんじ)を下して、「もし五色のかせぎ尋ねて奉らん者には、金銀、珠玉等の宝、ならびに一国等を賜ぶべし」と仰(おほ)せ触れらるるに、この助けられたる男、内裏に参りて申すやう、「尋ねらるる色のかせぎは、その国の深山に候(さぶら)ふ。あり所を知れり。狩人(かりうど)を賜(たまは)りて取りて参らすべし」と申すに、大王大に悦び給ひて、みづから多くの狩人を具(ぐ)して、この男をしるべに召し具して行幸なりぬ。その深き山に入り給ふ。このかせぎ敢へて知らず、洞の内に臥せり。かの友とする烏(からす)、これを見て大に驚きて、声をあげて鳴き、耳を食ひて引くに、鹿驚きぬ。烏告げて曰く、「国の大王、多くの狩人を具して、この山を取りまきて、すでに殺さんとし給ふ。今は逃ぐる方なし。いかがすべき」というて、泣く泣く去りぬ。
かせぎ驚きて、大王の御輿のもとへ歩み寄るに、狩人ども矢をはげて射んとす。大王のたまふやう、「かせぎ恐るる事なくして来たれり。定めて様(やう)あるらん。射る事なかれ」。その時、狩人ども矢をはづして見るに、御輿の前にひざまづきて申さく、「我、毛の色を恐るるによりて、この山に深く隠れ住めり。然(しか)るに大王、いかにして我が住む所を知り給へるぞや」と申すに、大王のたまふ、「この輿のそばにある、顔に痣(あざ)のある男、告げ申したるによりて来たれるなり」。かせぎ見るに、顔に痣ありて御輿の傍らにゐたり。我助けたりし男なり。かせぎ彼(かれ)に向ひていふやう、「命を助けたりし時、この恩何(なに)にても報じ尽しがたき由いひしかば、ここに我がある由、人に語るべからざる由、返す返す契りし所なり。然るに今その恩を忘れて、殺させ奉らんとす。いかに汝(なんじ)、水に溺(おぼ)れて死なんとせし時、我が命をかへりみず、泳ぎ寄りて助けし時、汝限りなく悦びし事は覚えずや」と深く恨みたる気色(けしき)にて涙をたれて泣く。その時に大王、同じく涙を流してのたまはく、「汝は畜生(ちくしやう)なれども、慈悲(じひ)をもて人を助く。かの男は欲にふけりて恩を忘れたり。畜生といふべし。恩を知るをもて人倫(じんりん)とす」とて、この男を捕へて、鹿の見る前にて首を斬(き)らせらる。またのたまはく、「今より後、国の中にかせぎを狩る事なかれ。もしこの宣旨をそむきて、鹿の一頭(ひとかしら)にても殺す者あらば、すみやかに死罪に行はるべし」とて帰り給ひぬ。
その後より天下安全に、国土ゆたかなりけりとぞ。
現代語訳
これも今は昔、天竺に身体の色は五色で、角の白い鹿が一頭いた。深い深山にばかり住んでいて、人に知られることはなかった。その山のほとりに大きな川があった。その山には烏がいて、その鹿を友として暮らしていた。
ある時、この川に一人の男が流され、溺れ死のうとしていた。「誰か助けてくれ」と叫ぶので、この鹿は、この叫び声を聞いて、悲しみに耐えきれず、川を泳いで男に近寄り、この男を助けてやった。男は命が助かったのを喜んで、手を摺り合わせ、鹿に向って、「どんな事でこの恩に報いましょう」と言う。鹿は「どんなことでこの恩に報いましょうとな。何もすることはありません。ただ、この山に私が住んでいるという事を決して人に話さないでください。私の身体は五色です。人が知ったら、皮を取ろうとして必ず殺されるでありましょう。この事を恐れるのでこのような深山に隠れて、まったく人に知られずにいるのです。それなのに、貴方が助けを求めて叫ぶので可哀想に思い、自分の将来に危険が及ぶのを承知で助けたのです」と言う。すると男は、「これはまことにもっともだ。決して他言することはありません」と、繰り返し約束をしてそこから立ち去った。男は自分の里に戻り、暮らしていたが、この事を人に話す事はなかった。
こうしているうちに、国の后が、身体の色は五色で、角が白い大きな鹿がいるのを夢で御覧になった。后が夢から覚めて大王に、「このような夢を見ました。この鹿はきっとこの世のどこかにいるのでしょう。大王様、必ず、鹿の居場所を見つけ、捕らえて私にお与え下さい」と申しあげると、大王は命令を下し、「もし、五色の鹿を見つけて献上した者には、金銀、珠玉等の宝、ならびに国一つなどを与えるであろう」と仰せ、触れられると、この鹿に助けられた男が内裏に参上し、「お尋ねの色の鹿は、ある国の深山におります。居場所を知っています。狩人をお付けいただいて、捕まえてさしあげましょう」と申すので、大王はお喜びになり、自ら多くの狩人を引き連れて、この男を道案内に立てて行幸なさり、大王一行はその深い山に入って行かれた。この鹿はそうとは露知らず、穴の中に寝ていた。あの友とする烏が、これを見て大変驚き、声をあげて鳴き、耳をくわえて引っ張ると、鹿は驚いて眼を覚ました。烏は、「国の大王が大勢の狩人を引き連れ、この山を取り巻き、今にもあなたを殺そうとなさっている。今となっては逃げる術がない。どうしよう」と言って、泣く泣く飛んで行った。
鹿は驚いて、大王の御輿のもとに歩み寄るが、狩人たちが矢をつがえて射ようとする。大王が申される、「鹿が恐れる事なく自分の所へやって来たのだ。きっとわけがあるのだろう。射てはならぬぞ」。その時、狩人たちが矢をはずして見ると、鹿が御輿の前に跪いて、「私は、毛の色を恐れるため、この山に深く隠れ住んでおりますが、どうして私の住んでいる所をお知りになられたのですか」と申し上げると、大王がおっしゃるには、「この輿の近くにいる、顔に痣のある男が、そなたの居場所を知らせたのでやって来たのだ」。それを聞いて鹿が輿の近くを見ると、顔に痣のある男が御輿の傍に居る。それは、自分が、昔助けた男である。鹿は男に向って、「私が命を助けてやった時、お前がこの恩はどんなことをしても報いつくせないような事を言ったので、ここに私が居る事を人に話してはならぬと繰り返し約束したところだ。しかし、今その恩を忘れて、殺させようとしている。どうして、お前が水に溺れて死のうとしている時、私が自分の命の危険をかえりみず、泳ぎ寄って助けた時、限りなく喜んだことを覚えていないのか」と、深く恨んだ様子で涙を流して泣くのであった。
その時に大王が同じように涙を流しておっしゃる。「お前は畜生だが、慈悲をもって人を助けた。あの男は欲にとらわれて恩を忘れた。畜生というべきだろう。恩を知ってこそ人間なのだ」と言われ、この男を捕らえて、鹿の見ている前で首をお斬らせになった。また、おっしゃるには、「今から先、国の中で鹿を狩る事を禁止する。もしこの命令に背いて、鹿の一頭といえども殺す者がいれば、すぐに死罪に処せられるであろう」と言ってお帰りになった。
その後から、天下は安泰になり、国土も豊かになっていったという。
語句
■五色-原典の『仏説九色鹿経(くしきろくぎよう)』や同文話の『今昔』巻五-一八話などは「九色」とする。いずれにしても、きわめて特殊な毛色。白い角は、この鹿が鹿の王とも称すべき威厳ある特別の鹿である事の象徴。■大(おほ)きなる川-『仏説九色鹿経』では、ガンジス川のこととする。■かせぎ-鹿の古称。「かせぎ」とも。鹿の角の形が桛木(かせぎ)<つむぎ糸の道具>に似るため。一説には鹿柵(かせぎ)が鹿そのものを言うようになったとも。
■人助けよ-誰か助けてくれ。『今昔』は「山神、樹神、諸天、竜神、何ゾ我ヲ不助(たすけ)ザルベキ」。『仏説九色鹿経』も同じ。本話が「神」「天」ではなく、「人」に助けを求めている点が特異。■川を泳ぎ寄りて-『今昔』では、「男ニ云ク、汝ヂ恐ルル事圥(なか)レ。我ガ背ニ乗テ二ノ角ヲ捕ヘヨ。我レ汝ヲ負(おひ)テ陸ニ付ムトテ、水ヲ遊(およぎ)テ」と、鹿の懇切な救助ぶりを述べる。■助けてけり-助けてやった。■命の生きぬる事-ほとんど絶望的であった自分の命の助かったこと。■手を摺りて-もみ手をして。■この恩を報ひ奉るべき-この恩にお報い申したらよいか。■恩をば報はん-恩に報いようか。■ゆめゆめ-決して。絶対に。■語るべからず-語ってはならない。■人知りなば-人が知ったならば。■皮を取らんとて-『今昔』では、鹿は、「毛角ヲ用セムニ依リテ」と、毛皮だけではなく、白い角も同様にねらわれることになろうと述べる。■殺されなむ-殺されてしまうだろう。■敢へて人に知られず-まったく人間に知られずにいるのだ。■身のゆくすゑを忘れて-我が身の前途を忘れて。■まことに理なり-もっともだ。■さらにもらす事あるまじ-決して他言することはありません(ご心配は無用です)。■返す返す契りて-繰り返し約束して。
■夢に-『仏説九色鹿経』では、「国王夫人」は夢に九色の鹿を見た翌朝、その鹿を所望するために国王の同情を引こうと、仮病を使ってわざわざ起床せずにいたという。■かかる夢をなん-同じく『仏説九色鹿経』では、国王夫人が「我其ノ皮ヲ得テ、座褥ヲ作リ、其ノ角ニテ払柄ヲ作ラント欲ス。王サマニ我ガ為ニコレヲ覓(もと)ムベシ。王モシ得ズハ、我スナハチ死セン」(原漢文)と、強引にせがんだ事になっている。■定めて様あるらん-きっとわけがあるのだろう。■宣旨(せんじ)-帝王の言葉を記した文書。他に、「后・内裏・行幸」など、わが国の朝廷に関する叙述用語による翻訳ぶり。これは前話と共通した態度であることについては、大系もすでに指摘している。■奉らん者-献上する者。さし上げる者。■賜ぶべし-とらせよう。■あり所を-居場所を。■・・・と申すに-『仏説九色鹿経』では、助けられた男が約束を破って、鹿の居場所を密告するや、たちまちその顔面に癩瘡(らいそう)が生じた、とする。■しるべに召し具して-道案内に立てて。■大に驚きて-『今昔』は、「驚キ騒テ鹿ノ許ニ飛ビ行キテ、音ヲ高ク鳴テ驚カス。然レドモ鹿敢ヘテ不驚カズ。烏、木ヨリ下テ寄テ、鹿ノ耳ヲ喰テ引ク時ニ」と述べ、鹿が人間に知られるはずはないと安心しきって暮していた状態を伝える。■驚きぬ-(ようやく)目を覚ました。
■かせぎ驚きて-『今昔』では、「鹿驚テ見ルニ、実ニ大王、多ノ軍ヲ引キ具シテ来リ給へり。更ニ可迯(のがるべ)キ方圥(なか)シ。然レバ」と、鹿は自分がとうてい逃れ難い窮地にある事を自身の目で確認した後に、大王の前に姿を現す事になっている。■はげて-つがえて。■射ることなかれ-『仏説九色鹿経』では、大王は「射ルコトナカレ。此ノ鹿ハ常ノニハ非ズ。マサニ是レ天神ナルベシ」とし、『今昔』でも、ただの鹿ではなさそうだから「暫ク任セテ彼レガ為(せ)ム様ヲ可見(みるべ)シ」と、兵士たちの射撃を制止している。■この山に深く隠れ住めり-『今昔』は、「年比(としごろ)、深キ山ニ隠レタリ」と「年比」を添える。■この輿のそばにある-『今昔』では、大王は「我レ年来、鹿ノ栖ヲ不知ズ。而ルニ」という前置きの後に、以下のような事情を話している。■殺させ奉らんとす-(私を大王様に)殺させようというのですね。『今昔』は「今大王ニ申シテ我ヲ殺サスル心何(いか)ニゾ」と、直截(ちょくせつ)に男を責めている。■たれて泣く-流して泣く。この後に『今昔』は、鹿の情理の備った詰問に対して男は「鹿ノ言ヲ聞キテ更ニ答フル方圥シ」と、返す言葉もなくうなだれるばかりであった様子を叙する。■首を斬らせらる-『仏説九色鹿経』や『今昔』には、この斬首(ざんしゅ)のことは見えない。■死罪に-『今昔』には「其ノ人ヲ殺シ、家ヲ可亡(ほろぼすべ)シ」と、さらに過酷な処罰規定となっている。
■その後より-『今昔』は、「其ノ後、国ニ雨時ニ随テ降リ、荒キ風不吹ズ。国ノ内ニ病圥ク、五穀豊穣ニシテ、貧シキ人圥カリケリ」と詳述。
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