宇治拾遺物語 7-6 小野宮大饗(をののみやだいきやう)の事、西宮殿冨小路(にしのみやどのとみのこうぢの)大臣大饗の事 

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今は昔、小野宮殿(をののみやどの)の大饗に、九条殿の御贈物にし給ひたりける女の装束(さうぞく)に添へられたりける紅(くれなゐ)の打ちたる細長(ほそなが)を、心なかりける御前(ごぜん)の取りはづして、遣水(やりみず)に落とし入れたりけるを、即ち取り上げてうち振ひければ、水は走りて渇きにけり。その濡(ぬ)れたりける方(かた)の袖(そで)の、つゆ水に濡れたるとも見えで、同じやうに打目(うちめ)などもありける。昔は打ちたる物は、かやうになんありける。

また西宮殿の大響に、「小宮殿を尊者におはせよ」ありければ、「年老い、腰痛くて、庭の拝(はい)えすまじければ、え詣(まう)づまじきを、雨降らば庭の拝もあるまじければ、参りなん。降らずは、えなん参るまじき」と、御返事のありければ、雨降るべき由(よし)、いみじく祈り給ひけり。その験(しるし)にやありけん、その日になりて、わざとはなくて、空曇りわたりて雨そそぎければ、小野宮殿は脇(わき)より上(のぼ)りておはしけり。中嶋(なかしま)に大(おほ)きに木高(こだか)き松一本(ひともと)立てりけり。その松を見と見る人、「藤(ふぢ)のかかりたらましかば」とのみ、見つついひければ、この大響の日は睦月(むつき)の事なれども、藤の花いみじくをかしく作りて、松の梢(こずゑ)より隙(ひま)なうかけられたるが、時ならぬものはすさまじきに、これは空の曇りて、雨のそぼ降るに、いみじくめでたう、をかしう見ゆ。池の面(おもて)に影の映(うつ)りて、風の吹けば、水の上も一つになびきたる、まことに藤波といふ事は、これをいふにやあらんとぞ見えける。

後の日、富小路の大臣(おとど)の大響に、御家のあやしくて、所々のしつらひもわりなく構へてありければ、人々も見苦しき大響かなと思ひたりけるに、日暮れて事やうやう果て方(がた)になるに、引出物(ひきでもの)の時になりて、東の廊(らう)の前に曳(ひ)きたる幕の内に、引出物の馬を引き立ててありけるが、幕の内ながらいななきたりける声、空を響かしけるを、人々、「いみじき馬の声かな」と聞きける程に、幕柱(はしら)を蹴折(けを)りて、口取(くちとり)を引き下げて出(い)で来(く)るを見れば、黒栗毛なる(くろくりげ)なる馬の、たけ八寸(やき)余りばかりなる、ひらに見ゆるまで身太く肥(こ)えたる、かいこみ髪なれば、額(ひたひ)のもち月のやうにて白く見えければ、見てほめののしりける声、かしがましきまでなん聞えける。馬のふるまひ、面(おも)だち、尻(しり)ざし、足つきなどの、ここはと見ゆる所なく、つきづきしかりければ、家のしつらひの見苦しかりつるも消えて、めでたうなんありける。さて世の末までも語り伝ふるなりけり。

現代語訳

今は昔、小野宮殿(をののみやどの)の大饗の時に、弟の九条殿が御贈物になさった女の装束に添えられていた紅の打絹の細長を、不注意な先駆けの者が取り外して、庭園の流水の流れに落してしまったが、すぐに拾い上げて振ったので、水は飛び散って渇いてしまった。その濡れた方の袖が少しも水に濡れたようにも見えず、濡れていない方と同じように砧(きぬた)で打った文目(あやめ)もそのままであった。昔の砧で打ってつやを出した布地は、こんなふうであった。

また西宮殿の大饗の折に、「小宮殿を主催にお迎えしたい」ということであったが、「私は、年老い、腰が痛くて、庭での礼拝もできそうにないから、うかがうことができないでしょうが、雨が降ればその拝礼もないでしょうから、参りましょう。降らなかったら、参る事はできません」と、御返事があったので西宮殿は雨が降るよう熱心にお祈りなった。その祈りが功を奏したのか、その日になって自然と、空一面が曇り、雨が降って来たので、小宮殿は庭での拝礼をすることなく、寝殿の脇の階段から上っておいでになった。池の中の島には非常に大きな松の木が一本立っていた。その松を見た人はみな、「ああこれに藤がかかていたらなあ」と口を揃えて言ったので、この大饗の日は陰暦一月で藤の季節ではなかったが趣向として、藤の花をたいそう美しく作り、松の梢から隙間なく一面におかけになった。時期がはずれたものは興ざめではあるが、この時は、空が曇って、雨がしとしと降っていたのでこれに調和して藤の花がたいそう華やかで美しく見える。池の面に影が映って、風が吹くと、水面に映った藤の花も一緒にゆらゆらとなびいている、まこと藤波というのは、これを言うのであろうかと見えたほどであった。

後日、富小路大臣の大饗の際、御家も粗末で、所々の造りも見栄えのしない物であったので、人々も「見苦しい大饗だことよ」と思っていたが、日が暮れて、宴もようやく終わろうとする頃になり、客人へ引出物を渡す時になって、東の廓の前に張り巡らせた幕の内側に引出物の馬を引き立てられていたが、幕の内側からいななく声が、空を奮わせて響き渡ったので、人々が、「威勢の良い馬の声かな」と聞いているうちに、幕の柱を蹴り折って、口取りの男を引きずって出て来たのを見ると、黒みがかった栗色の毛をした、背丈が四尺八寸以上の大きな馬で、平たく見えるくらいに肥え太っており、かいこみ髪をしているので、額が満月のように白く見えたので、それを見れ大騒ぎして褒める声がやかましいまでに聞こえた。馬の振舞、顔だち、尻の恰好、足つきなど、これと言った欠点は無く、大饗の引出物にはぴったりふさわしい物だったので、家の造作が見苦しかったことも忘れられて、まことに立派な大饗となった。そこで末の世までも語り伝えるのである。

語句

■小野宮殿(をののみやどの)-藤原実頼(さねより)(900~970)。関白忠平の子。左右大臣を経て、関白、太政大臣、摂政を歴任。博識で、日記『水心記』の著者。■大響-恒例の大臣主催の饗宴で、大臣就任後の披露のためや正月(四日が左大臣、五日が右大臣)に行われた。■九条殿-藤原師輔(もろすけ)(908~960)。実頼の弟。右大臣、右大将。百鬼夜行を見破るなど、神通力の持ち主として知られる。この大響の尊者(主催)であった。藤原道長の祖父にあたる。■打ちたる細長(ほそなが)-砧(きぬた)で打って光沢を出した絹製の、袿(うちき)に似た女子の衣服。■心なかりける御前(ごぜん)の-うかつな先駆けの者が。■遣水(やりみず)-庭園に引き入れた流水。■すなはち-すぐに。■走りて-飛び散って。■つゆ-少しも。■見えで-見えないで。■打ち目-緑地の上にできた砧で打った跡の文様状のもの。

■西宮殿-源高明(たかあきら)(914~982)。醍醐天皇の子で、右大臣には康保三年(966)正月、左大臣にはその翌年就任している。■尊者-大饗における主催。高位・年長の者があてられた。高明が右大臣の時には五十三歳、時に実頼は左大臣で六十七歳、高明が左大臣の時には、実頼は太政大臣。■庭の拝-尊者が門を入って着座する以前に、中庭で主客の間に交される応対の礼。両者はそれを済ませてから、並んで南の階段を上って着座する。■えすまじければ-できそうもないので■え詣づまじきを-うかがえないでしょうが。■参りなん-参りましょう。■降らずは、えなん参るまじき-雨が降らなかったら、(庭の礼があるでしょうから)参上することはできません。■いみじく-たいそう。■わざとはなくて-人為的に何かを行うこともなく自然に。おのずから。■曇りわたりて-一面に曇って。■脇より上りて-庭での礼拝をすることなく、寝殿の脇の階段から上って。■中嶋-寝殿造で、南に構えられた池の中に設けられた築島。■見と見る人-見る人はみな。■かかりたらましかば-かかっていたらなあ。■睦月(むつき)-陰暦一月で、藤の季節ではなかったが趣向として。■をかしく-美しく。■隙なう-隙間なく。■時ならぬものはすさまじきに-時期がはずれたものは興ざめではあるが。■そぼ降るに-しとしとと降るので。■いみじうめでたく-たいへんすばらしく。■ひとつに-一緒になって。■いふにやあらんと-言うのであろうかと。

■後の日-顕忠の没したのは高明の左大臣就任以前。従ってこの「後の日」は、先の高明の大饗に続く「後日」ではありえない。■富小路の大臣-藤原顕忠(898~965)。左大臣時平の子。検非違使別当、左右大将などを経て、右大臣。■あやしくて-粗末で。■しちらひ-設備も。■わりなく構へてありければ-ふゆきとどきな造りであったので。■果て方になるに-終わりごろになると。■引出物-祝宴後に主人から客に出す贈物。もとは馬を引き出して贈ったので、この名が残る。■いみじき-すばらしい。■引き下げて-引きずって。■黒栗毛なる馬-黒みがかった栗色の毛の馬。■たけ八寸(やき)余りばかりなる-背丈が四尺八寸以上の大きな馬。「寸(き)」は上代に始まった長さの単位、後世はもっぱら馬の背丈を測るのに用いられた。馬の背丈は前足から肩までを測り、四尺(約1.3メートル)を基準として、それより一寸、二寸と高い場合に「ひとき」「ふたき」といった。■ひらに見ゆるまで身太く肥(こ)えたる-平たく見えるほどに肥えて横広の感じのたくましい馬。■かいこみ髪-額の上の髪が前にたれ落ちてこないように、編むか刈るかしてあるもの。■額(ひたひ)のもち月のやうにて白く見えければ-額が満月のように白く見えたので。「かいこみ髪」にしてあったのは、額の白い毛色をはっきり見せるための工夫であった。■ほめののしりける-大声でほめそやした。■かしまがしきまで-やかましいほどに。■面だち-顔だち。■ここはと見ゆる所なく-これはどうかと思われる欠点がなく。■つきづきしかりければ-(大響の引出物としてはまことに)ぴったりふさわしいものであったので。■しちらひ-造作。■めでたうなんありける-りっぱであったということだ。

朗読・解説:左大臣光永

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