宇治拾遺物語 7-7 式成(のりなり)、満(みつる)、則員(のりかず)等三人滝口弓芸(ゆげい)の事 

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巻第七ノ七話 

原文

これも今は昔、鳥羽院位の御時、白河院の武者所の中に、宮道式成(みやみちのりなり)、源満(みつる)、則員(のりかず)、殊に的弓(まとゆみ)の上手なり。その時聞えありて、鳥羽院位の御時の滝口(たきぐち)に、三人ながら召されぬ。試みあるに、大方(おほかた)一度もはづさず、これをもてなし興ぜさせ給ふ。ある時三尺五寸の的を賜(た)びて、「これが第二の黒み、射落(いおと)して持(も)て参れ」と仰(おほ)せあり。巳(み)の時に賜(たまは)りて未(ひつじ)の時に射落して参れり。いたつき三人の中に三手なり。矢取りて、矢取(やとり)の帰らんを待たば、程経(へ)ぬべしとて、残りの輩(ともがら)、我と矢を走り立ちて取り取りして、立ちかはり立ちかはり射る程に、未の時の半(なか)らばかりに、第二の黒みを射めぐらして、射落して持(も)て参れりけり。「これすでに養由(やういう)がごとし」と時の人ほめののしりけるとや。

現代語訳

これも今は昔、鳥羽院の御在位の御時、白河院の武者所の中で、宮道式成(みやみちのりなり)、源満(みつる)、則員(のりかず)は殊の外的弓の名手であると、その頃評判が高かったので、鳥羽院の御代の滝口に三人とも召し出された。三人が試射すると、大方一度も外さず、院はこれは風変わりで面白いものだとお喜びになっていた。ある時、三尺五寸の的を賜って、「この的の第二の輪の黒い部分を射落して持って参れ」と仰せられた。三人は午前十時ごろ賜って、午後二時ごろに射落して持って来た。練習用の矢は三人で夫々二本づつ計六本が与えられたので、「矢を取って、矢取りの者が帰って来るのを待っていると時間がかかるであろう」と、残りの者は自分で走って行って矢を取り、入れ代わり立ち代わり射ていると、丁度午後二時ごろに第二の黒い部分を射抜いて、射落して持参したのであった。「これはまるで養由(やういう)のようだ」と当時の人はほめそやしたということだ。

語句

■鳥羽院‐第七十四代天皇。(1103~56)。堀河天皇の皇子。在位十六年。保安四年以降は、院政を執る。■白河院-第七十二代天皇(1053~1129)。後三条天皇の皇子。堀河、鳥羽、崇徳天皇の上皇として、四十三年間、院政を執った。■武者所-院の御所を警護する北面の武士(院の御所の北面に詰めるところからいう。「北面」とも)の詰所。■宮道式成(みやみちのりなり)-長承年間(1132~34)、左馬少充であった。■源満(みつる)-滝口大夫源伝の子。右馬充。■則員(のりかず)-伝未詳。これら三人は白河院時代の北面の武士であり、傑出した弓矢の名手たち。■的弓-的を射る弓術。■聞えありて-評判が高くて。■滝口(たきぐち)-蔵人所に属した警備の兵士。清涼殿の滝口(御溝水(みかわみず)の落ちる所)に詰所があったことによる呼称。定員は二十人。■三人ながら-三人ともに。■試み-試射。■もてなし興ぜさせ給ふ-風変わりでおもしろいと思いお喜びなさる。■第二の黒み-弓の的の三重の輪のうちの真中の輪。中心の黒丸を第一、その次の外側の(第二の)黒い輪。■巳(み)の時-午前十時ごろ。■未(ひつじ)の時-午後二時ごろ。■いたつき-練習用の矢。矢じりの先をとがらせず、丸く小さくしてある。■三手-三対の矢つまり六本の矢。■矢取り-矢を取る者。ここでは的に刺さった矢や、あたりに飛び散った矢を取って、弓引く者の手元に戻す者。■程経(へ)ぬべし-時間が経ってしまうだろう。■われと-自分で。■走り立ちて-走って行って。■取り取りして-矢を取り取りして。■立ちかはり立ちかはり-入れ代り立ち代り。■射めぐらして-の周りを射抜いて。■養由(やういう)-養由基。中国・春秋時代、楚(そ)の弓の名人。百歩離れて楊の葉を射て、百発百中であったという。すでに『将門紀』にその名が見える。■ほめののしりけるとや-ほめそやしたということだ。

備考・補足

■いずれ劣らぬ三人の弓芸の名手が、六本の矢で第二の黒みを射落せとの鳥羽院の下命に応えて、一人が射たら、別の者が射た矢を抜いて運ぶというやり方を考えて、四時間ほどで射抜くのに成功したというみごとな連携プレーの成果を伝える。

朗読・解説:左大臣光永