宇治拾遺物語 8-2 下野武正(しもつけのたけまさ)、大風雨の日、法性寺殿(ほつしやうじどの)に参る事

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これも今は昔、下野武正といふ舎人(とねり)は法性寺殿に候(さぶら)ひけり。ある折(をり)、大風、大雨ふりて、京中の家みなこぼれ破れけるに、殿下(てんが)、近衛殿(このゑどの)におはしましけるに、南面(みなみおもて)の方(かた)にののしる声しけり。誰(たれ)たらんと思(おぼ)し召して見せ給ふに、武正、赤香(あかかう)の上下(かみしも)に箕笠(みのかさ)を着て、蓑の上に縄を帯にして、檜笠(ひがさ)の上をまた頤(おとがひ)に縄にてからげつけて、鹿杖(かせづゑ)をつきて走りまはりて行ふなりけり。

大方(おほかた)その姿おびただしく、似るべき物なし。殿、南面へ出でて御簾(みす)より御覧ずるに、あさましく思し召して、御馬をなん賜(た)びける。

現代語訳

これも今は昔、下野武正という舎人は、法性寺殿にお仕えしていた。ある時、大風が吹き、大雨が降って、京中の家がみんな壊れ傷んだ時、殿下が近衛殿においでになると、南の方で大騒ぎする者の声がした。誰だろうと思われてそちらを御覧になると、武正が、黄ばんだ濃い赤色の上下(かみしも)に蓑笠をつけて、蓑の上に縄を帯にして巻き、また檜笠の上からあごに縄をからげつけて、鹿杖をついて走り回って復旧の指図をしているのだった。

およそその姿は仰々しくて比べようもない。殿下は南面にお出になり御簾を透かして御覧になると、思いがけないこととお思いになって、御馬を賜ったという。

語句

■下野武正-白河院や藤原師実に仕えた下野武忠の子。関白忠実や子の忠通に仕え、後に左近衛将曹となる。■舎人-近衛府の官人で、皇族や摂関などの雑役に従事した侍。■法性寺殿-藤原忠通(1097~1164)。前話の頼長の兄。摂政・関白、太政大臣、氏の長者。■候(さぶら)ひけり-お仕えしていた。■こぼれ破れけるに-壊れ傷んだが。■殿下-摂政・関白、将軍の敬称。ここは忠通をさす。■近衛殿-忠通の邸宅。近衛御門大路の 北室町小路の東にあり、近衛天皇の里内裏(平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指す)となった。■ののしる-騒ぎたてる。■赤香-黄みを帯びた濃い赤色。■上下-上着と袴との生地が同質・同色の狩衣・水干・直垂などをさす。■蓑笠-蓑と笠。また、それを着用した姿。■檜笠(ひがさ)-檜(ひのき)を薄くはいで作った網代笠(あじろがさ)。ひのきがさ。■鹿杖-鹿の角のように先端が二股になっている杖。■行ふなりけり-処置をとるのであった。

■おびただしく-大げさで。■あさましく思し召して-思いがけないこととお思いになって。                                 

朗読・解説:左大臣光永

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