宇治拾遺物語 8-3 信濃国(しなののくに)の聖(ひじり)の事

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原文

今は昔、信濃国(しなののくに)に法師ありけり。さる田舎(ゐなか)にて法師になりければ、まだ受戒(じゆかい)もせで、いかで京に上(のぼ)りて東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上(のぼ)りて受戒してけり。

さて、もとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここにゐなんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候(さぶら)ひて、いづくにか行(おこな)ひして、のどやかに住みぬべき所あると、万(よろづ)の所を見まはしけるに、未申(ひつじさる)の方(かた)に当たりて山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中にもえもいはず行ひて過ごす程に、すずろに小さやかなる厨子仏(づしぼとけ)を行ひ出(いだ)したり。毘沙門(びしやもん)にてぞおはしましける。

そこに小さき堂を建てて据ゑ奉りて、えもいはず行ひて年月経(ふ)る程に、この山の麓(ふもと)にいみじき下種徳人ありけり。そこの聖の鉢は飛び行きつつ、物は入れて来けり。大(おほ)きなる校倉(あぜくら)のあるをあけて物取り出す程に、この鉢飛びて例の物乞(ものご)ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ちゐたりける程に、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて物も入れず、取りも出(いだ)さで、倉のとをさして、主(ぬし)帰りぬる程に、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺(ゆる)ぐ。「いかにいかに」と見騒ぐ程に、揺るぎ揺るぎて土より一尺ばかり揺るぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、あやしがりて騒ぐ。「まことまことありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふ程に、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに空ざまに一二尺ばかり上(のぼ)る。さて飛び行く程に、人々見ののしり、あさみ騒ぎ合ひたり。

倉の主もさらにすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻(しり)に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。さて見れば、やうやう飛びて、河内国(かふちのくに)に、この聖(ひじり)の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍(かたは)らに、どうと落ちぬ。

いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主(くらぬし)、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候(さぶら)ふ。この鉢の常にまうで来(く)れば、物入れつつ参らするを、今日紛(けふまぎらは)はしく候ひつる程に、倉にうち置きて忘れて、取りも出(いだ)さで錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候ふ。この倉返し給ひ候はん」と申す時に、「まことにあやしき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」とのたまへば、主(ぬし)のいふやう、「いかにしてか、たちまちに運び取り返さん。千石積みて候ふなり」といへば、「それはいと安き事なり。たしかに我(われ)運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛ばすれば、雁(かり)などの続きたるやうに、残りの俵どもも続きたる。群雀(むらすずめ)などのやうに飛び続きたるを見るに、いとどあさましく貴(たふと)ければ、主(ぬし)のいふやう、「しばし、皆な遣はしそ。米二三百石は、とどめて使はせ給へ」といへば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては何(なに)にかはせん」といへば、「さらばただ使はせ給ふばかり。十廿をも奉らん」といへば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」とて、主(ぬし)んも家にたしかにみな落ちゐにけり。

かやうに貴く行ひて過(すぐ)す程に、その比(ころ)、延喜(えんぎ)の御門(みかど)、重くわづらはせ給ひて、さまざまの御祈(おんいの)りども、御修法(みしほ)、御読経(みどきやう)など、よろづにせらるれど、さらにえ怠らせ給はず。ある人のもうすやう、「河内国信貴(かわちのくにしぎ)と申す所に、この年比(としごろ)行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候(ひじりさぶら)ふなり。それこそいみじく貴(たふと)く験(しるし)ありて、鉢を飛ばし、さてゐながら、よろづあり難き事をし給ふなれ。それを召して、祈らさせ給はば、怠らせ給ひなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人(くらうど)を御使(つかひ)にて召しに遣はす。

行きて見るに、聖のさま殊(こと)に貴くめでたし。かうかう宣旨(せんじ)にて召すなり、とくとく参るべき由(よし)いへば、聖、「何しに召すぞ」とて、更々(さらさら)動くげもなければ、「かうかう御悩(ごなう)大事におはします。祈り参らせ給へ」といへば、「それは参らずとも、ここながら祈り参らせ候はん」といふ。「さては、もし怠らせおはしましたりとも、いかでか聖の験とは知るべき」といへば、「それが誰(た)が験(しるし)といふ事知らせ給はずとも、御心地(ここち)だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」といへば、蔵人、「さるにても、いかでかあまたの御祈(おんいの)りの中にも、その験(しるし)と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣の護法(ごほふ)を参らせん。おのづから御夢にも幻(まぼろし)にも御覧ぜば、さとは知らせ給へ。剣を編みつつ衣(きぬ)に着たる護法なり。我はさらに京へは出でじ」といへば、勅使帰り参りて、かうかうと申す程に、三日といふ昼つかた、ちとまどらせ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかと御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦びて聖を貴がりめであひたり。

御門(みかど)も限りなく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正(そうじやう)、僧都(そうど)にやなるべき。またその寺に庄(しやう)などや寄すべき」と仰(おほ)せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正さらに候ふまじき事なり。またかかる所に庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出(い)で来(き)て、なかなかむつかしく罪得がましく候。ただかくて候はん」とてやみにけり。

かかる程に、この聖の姉ぞ一人ありける。「この聖受戒せんとて上りしまま見えぬ。かうまで年比見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見ん」とて、上(のぼ)りて、東大寺、山階寺(やましなでら)のわたりを、「まうれん小院(こゐん)といふ人やある」と尋ぬれど、「知らず」とのみいひて、「知りたる」といふ人なし。尋ねわびて、「いかにせん、これが行末(ゆくすゑ)聞きてこそ帰らめ」と思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「このまうれんが在所(ありどころ)、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所(ありどころ)は、これより未申(ひつじさる)の方(かた)に山あり。その山に雲たなびきたる所を行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚(さ)めたれば、暁方(あかつきがた)になりにけり。いつしか、とく夜の明けよかしと思ひ
て見ゐたれば、ほのぼのと明け方になりぬ。

未申の方(かた)を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる。うれしくて、そなたをさして行きければ、まことに堂などあり。人ありと見ゆる所へ寄りて、「まうれん小院やいまする」といへば、「誰(た)そ」とて出でて見れば、信濃(しなの)なりし我が姉なり。「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」といへば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて持(も)たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して厚々(あつあつ)とこまかに強げにしたるを持(も)て来たり。悦びて取りて着たり。もとは紙衣(かみぎぬ)一重をぞ着たりける。さていと寒かりけるに、これを下に着たりければ、暖かにてよかりけり。さて多くの年比(としごろ)行ひけり。さてこの姉の尼君も、もとの国へ帰らず、とまりゐて、そこに行ひてぞありける。

さて多くの年比、このふくたいをのみ着て行ひければ、果てには破(や)れ破(や)れと着なしてありけり。鉢に乗りて来たりし倉を飛倉(とびくら)とぞいひける。その倉にぞふくたいの破(は)れなどは納めて、まだあんなり。その破(は)れの端を露(つゆ)ばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は守りにしけり。その倉も朽(く)ち破(やぶ)れて、いまだあんなり。その木の端を露ばかり得たる人は、守りにし、毘沙門(びしやもん)を造り奉りて持ちたる人は必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。さて信貴(しんぎ)とてえもいはず験(しるし)ある所にて、今に人々明け暮れ参る。この毘沙門はまうれん聖(ひじり)の行ひ出し奉りけるとか。

現代語訳

今は昔、信濃国に法師がいた。そんな田舎の方で僧になったので、まだ受戒もせず、何とかして京に上って東大寺という所で受戒しようかと思い、やっとのことで上京して、受戒をした。

さて、もとの国へ帰ろうと思ったが、つまらぬことだ、「あんな仏のいないような所には帰るまい、ここに居よう」と思う心がつのって、東大寺の仏の御前に控えていて、どこかで修行してゆっくり住めるところはないかと四方八方を見回すと、南西の方角にあたって山がかすかに見える。あそこに住んで修行をしようと思い出かけて行って、山の中で口では言い表せないほどの修行を積み、過ごしているうちに、思いがけず小さな厨子仏を授かった。毘沙門天でおわした。

法師はそこに小さなお堂を建てて、毘沙門天を安置し奉り、口には言えないほどの厳しい修行をしながら年月を重ねていたが、この山の麓にひどく素性は卑しいが裕福な人がいた。そこへこの聖の鉢がいつも飛んで行って、食べ物を入れてもらって運んで来るのであった。ある時、その男が、大きな校倉造りの倉庫を開けて中の物を取り出していると、いつもの鉢が飛んできて、いつものように物乞いに来たので、「いつもの鉢が飛んできたぞ。いまいましく欲深な鉢め」と、それを取って倉の隅に投げ置き、すぐに物を入れてやらなかったので、鉢は待っていた。しかし、物の整理も終わって、主人はこの鉢の事を忘れてしまい、物も入れてやらず、取り出しもせず、倉の戸を閉め錠をかけて、帰って行ってしまった。しばらくたってから、この倉がなんということもなくぐらぐらと揺れる。「どうしたどうした」と見て騒いでいるうちに、大きく揺れに揺れて地上から一尺ほどの高さまで揺れ上がった時に、「これはどうした事か」と不思議がって騒ぐ。「そうだそうだ。いつも飛んで来るさっきの鉢を忘れて倉の中に置いたままだ。そのしわざであろう」などと言っているうちに、この鉢は倉の隙間から外に出て、その鉢に倉が乗り、ぐんぐんと上空に一二丈程も上る。そうして飛んで行くのを見て、人々はわいわい言い合い、あきれかえって大騒ぎをしていた。

倉の主もまったくどうしようもないので、「この倉が飛んで行く先を見よう」と、後ろについて行く。その辺りの人々も皆走った。そうして見ていると、だんだん飛んで河内国にあったこの聖が修行する山の中へ飛んで行って、聖の僧坊の傍らにどしんと落ちた。

いよいよあきれたことだと思ったが、そうかといってそのままにしておけないので、この倉主は聖の傍に寄って、「こんなとんでもない事がございます。この鉢がいつもやってきますので、その度に物を入れてさしあげておりましたが、今日は他の仕事に取り紛れておりましたものですから、倉にふと置き忘れ、取り出しもせず錠を掛けておりましたところが、この倉がもう揺れに揺れて、ここに飛んでまいって来て落ちたのでございます。この倉をお返しいただきたい」と申し上げた。「本当に不思議な事だが、せっかく飛んで来てしまったのだから、この倉を返してはあげられまい。ここには倉のような物もないから、どちらにしても物を置くのに都合がよい。中にあるものはすべて持って行け」と言われる。倉主が、「どうしてすぐに運んで持ち帰れましょう。千石も積んであるのです」と言うと、「それはとても簡単な事だ。確かにこのわしが運んで進ぜよう」と言って、この鉢に一俵を入れて飛ばすと、雁などが続いているように、残りの俵もそれに続いた。群雀が飛ぶように飛んで行くのを見ると、ますますあっけにとられるほど尊く思われて、倉主が、「しばしお待ちを。全部はやらないでください。米二三百石は、残してお使いください」と言うと、聖は、「とんでもないことだ。それをここに置いたとてどうしよう」と言う。「では、ただお使いになるだけ、十俵でも二十俵でも差し上げましょう」と言うと、「それほども必要なことがあるはずがない」と言って、持主の家に全部が運ばれた。

こうして尊く修行をしているうちに、そのころ醍醐天皇が重く煩われ、御修法、御読経など、種々の祈りをささげられるが、いっこうによくおなりにならない。ある人が、「河内国信貴という所に、長年修行をして、里へ出る事もない聖がおります。それこそたいそう尊く、霊験もあって、鉢を飛ばしたり、坐っていながらいろいろなありがたい事をするのです。その聖を召して祈らせなされば、きっと回復なされましょうよ」と申し上げると、「それでは」と蔵人を召し出しの使いに出された。

行って見ると、聖の様子はまことに貴く立派である。これこれと宣旨によって召し出すものである。一刻も早く参内する由を言うと、聖が、「何の為のお召しか」と、まったく動く気配もないので、「しかじか、帝の御病悩は重くわたらせられる。お祈りなさって下さい」と言うと、「それは参内しなくても、ここに居ながらお祈りいたしましょう」と言う。「それでは、もしご回復なさったとしても、どうして聖の祈りの験だとわかりましょうか」と言うと、「それは、誰の験だとはわからなくても御心地さえ良くなれば、それで良いでしよう」と言うと、蔵人が、「それにしても、どうにかして多くの御祈祷の中でも、あなた効験とわかるほうがいいでしょう」と言うのだが、「ではお祈りいたしますが、その際、剣の護法童子を遣わしましょう。もしかして、御夢でも幻にでも御覧になられたならば、私が差し向けた使者であるとご確認なさってください。剣を編んで衣に着ている護法童子です。私はさらさら京へは出ますまい」と言うので、勅使は帰ってこうこうと申し上げる。それから三日目の昼方、帝は、すこしうとうとしたわけでもないのにきらきら光る物が見えたので、なんだろうと御覧になると、あの聖が言っていた剣の護法童子だと思われたとたん、御心地はさわやかになって、少しも苦しい御事もなく、平常のようにご回復になられた。人々は喜び、聖を尊敬して誉めそやした。

帝も聖を限りなく尊く思われて、人を遣わし、「僧正や僧都になろうと思うか、それとも、その寺に荘園などを寄進したがよいか」と仰せになる。聖はそれを承り、「僧都や僧正などまったく必要ない事でございます。またこんな所に荘園など寄進されますと、別当など、何やかやといろいろな人間が集まって来ることで、かえって煩わしく、罪を犯す事になりそうです。ただこのままでありたいものです」と言って、終わってしまった。

さて、この聖には姉が一人いた。「弟の聖が受戒しようと都に上ったまま帰ってこない。こうまで長年帰ってこないのは、どういうわけだろう、心配なので探してみよう」と、都に上り、東大寺、山階寺のあたりを、「命蓮小院という人はいませんか」と尋ねてまわるが、「知らない」と言う人だけで「知っている」と言う人はいない。尋ねあぐんで、「どうしよう。しかし弟の行末を確かめてから帰りたい」と思って、その夜東大寺の大仏の御前で「弟の命蓮の住所を教えてください」と一晩中お願いしてうとうとしていると、夢の中でこの仏が、「尋ねている僧の住所は、ここから南西の方角に山があり、その山に雲がたなびいている所を行って尋ねよ」と申されるのを見て眼が覚めたら、夜明け方になっていた。もどかしい、早く夜が明ければいいのにと大仏殿から外を見ているとほのぼのと明け方になってきた。

南西の方角を見ると、かすかに山が見え、紫の雲がたなびいている。うれしくなって、そこを目指して行くと、まことお堂などがある。人がいるように見える所へ行き、「命蓮小院はいますか」と尋ねる。すると、中から「誰か」と言って聖が出てくる。見ると、信濃の自分の姉である。「これはまたどうして尋ねて来られたのか。思いがけない事です」と聖が言うと、姉はそれまでのいきさつを話した。「さてもずいぶん寒そうにしておられる。これを着せてあげようと思って持って来たのですよ」と、引き出したのを見ると、ふくたいという物を、普通のものとは違って特別に大きな糸をこまめに使ってぶ厚くしたのを持って来ていたのであった。聖は喜んでそれを受け取り着た。それまでは一重の紙衣だけを着ていたのでまことに寒かったのだが、暖かくなって気持ちが良かった。それからさらに長年修行を重ねた。そして、この姉の尼君も、もとの国へは帰らず、とどまって、そこで修行を重ねたという。

ところで、長の年月、このふくたいだけを着て修行していたので、しまいには、ぼろぼろになった破れるまで着古していた。鉢に乗って来た倉を飛倉と言った。その倉にふくたいの破れた部分を納め、今でも残っているという。その破れの切れ端を少しでも、たまたま何かの縁で手に入れた人はお守りにした。その倉も朽ち果ててなお今も残っているという。その木の端を少しでも手に入れた人は、やはりお守りにしたり、その木の端を材料として毘沙門天を造って持っていた。そうした人は皆必ず裕福になったという事だ。それで、その噂を聞いた人は縁を尋ねて、その倉の木の端を買い取ったそうだ。それで信貴山といって言いようもなく霊験あらたかな所で、今でも人々は朝な夕なにお参りする。この毘沙門は命蓮聖が修行した結果授かったものだという話である。

語句

■法師-『今昔』巻十一~三十六話は常陸の「明練」、『扶桑略記』は「命蓮」、『信貴山縁起絵巻』は、「命れむ」とする。■受戒-奈良時代、僧・尼が出家得度してから二~三年の戒行のあとに、国の指定した東大寺、筑紫観世音寺(福岡県太宰府市)、下野薬師寺(栃木県河内郡南河内町)の戒壇などで、具足戒を受けること。■いかで-なんとかして。■東大寺-奈良市にある華厳宗の大本山。この寺の戒壇は、畿内・中国地方の僧・尼の受戒のための場所であった。

■よしなし-つまらない。■帰るまじ-帰るまい。■ゐなんと思ふ心つきて-いようと思う心がつのって。■候(さぶら)ひて-控えていて。■行ひして-修業して。■のどかに-ゆっくり。

■下種徳人-素性の卑しい成金。■鉢は~物入れて来けり-鉢が飛んで行って、食べ物を入れてもらって運んで来た。■校倉(あぜくら)-三角材を井桁(いげた)に組み上げ、床を高くして湿気を防いだ造りの物品の貯蔵庫。■ゆゆしくふくつけき鉢よ-いまいましく欲深な鉢め。■とみに-すぐに。■とばかりありて-しばらくたって。■すずろに-これという原因もなしに。ひとりでに。■まことまこと-そうだそうだ。そうそう、そういえば思いあたる。■ありつる鉢-いつも飛んで来る、さっきの鉢を。■十二丈-一丈は約3メートル強。■あさむ-驚きあきれる。びっくりする。

■立ちて-ついて。■わたり-あたり。■やうやう-だんだん。しだいに。■河内国-現在の大阪府の一部。『今昔』と『信貴山縁起絵巻』は、大和国(奈良県)とする。信貴山(437メートル)は行政区画上は大和国生駒郡に所属したが、全体的には大和と河内とにまたがるので、このように伝えられたか。この信貴山の東の中腹に、聖徳太子の開基になり、明練(命蓮)が中興したとされる歓喜院朝護孫子寺すなはち信貴山寺がある。■行ふ-修業する。■どんと-どしんと。

                             
■いとど-ますます。いよいよ。■あさまし-驚きあきれる。■さりとてあるべきならねば-そのままに放置しておくわけにもいかないので。■この倉主-先の「下種徳人」を指す。成上がり者でけちな人物。■ことなん候ふ-ことがございます。■まうで来れば-やってくるので。■参らするを-さし上げているのに。■紛(けふまぎらは)はしく候ひつる程に-ほかの仕事に取り紛れておりましたものですから。実際は、前出のように、鉢に腹を立てて「取りて倉の隅に投げ置きて」そのままにしていた男の言い訳。■さして候ひければ-かけておりましたところが。■飛んでまうで-飛んでまいって。■返し給ひ候はん-お返しいただきたい。■あやしき-不思議な。■飛んで来にければ-飛んで来てしまったので。■え返し取らせじ-返してあげられまい。■さながら-すべて。全部。残らず。 ■取れ-持って行け。■千石-量衡の単位。一石は約180リットル。その千倍。後三条天皇は延久四年(1072)九月に量衡の制を制定している。『古事談』六二話によれば、「器」(一石単位で量る計量器)は、米を入れた長方形の箱と石の重石(おもし)とを跨木(またぎ)の左右にさげかけて量るものであったので、米を量るのに「~石」というふうに、石の字を用いるのだ、という。■雁-秋に飛来して春に北方へ帰り去る大型の渡り鳥。その雁が列をなして飛ぶさまは、絵画的風物として「入り方の月は霞のそこに更けて帰り後るる雁の一つら」(風雅集・春中)のように詩歌の題材ともされた。■群雀-雁は列をなして整然と飛行するが、「群雀」は百羽、二百羽と数多く空に広がって飛ぶ。ここは、始めは雁のように一列になって飛び上がった米俵が、空中で米粒のように群舞する群雀の一隊のごとくに見えるさまを述べたもの。■しばし-しばらく。■な遣はしそ-おやりなさるな。■落ちゐにけり-落ち着いてしまった。

■行いて-修業して。■延喜の御門-第六十代醍醐天皇(885~930)。宇多天皇の子。延喜はその治世中の年号(901~923)。■重く煩わせ給ひて-重い病気におかかりになって。■御修法(みしほ)-「みしほふ、みずほふ」とも。密教で行なう加持祈祷の法。ここは天皇の病気に対する平癒・延命のための加持祈祷。■万に-さまざまに。■さらにえ怠らせ給はず-いっこうによくおなりにならない。■ある人-宮中で天皇の容態をただちに知り得る立場におり、その発言がある程度の影響力を持つ貴族の誰か。■年比-長年の間。■いみじく-まことに。■験ありて-祈りのききめがあって。■さてゐながら-そうして座ったまま。■よろづあり難き事-またとなく尊い事。■し候ふなれ-するのです。■怠らせ給ひなんかし-よくおなりになるでしょうよ。■さらば-「さあらば」の略。そういうことであるならば。それならば。■蔵人-蔵人所の職員。蔵人は天皇に近侍して、詔勅・宣旨の伝達、進奏、序目など、殿上の諸事をつかさどった。

■めでたし-立派である。■かうかう-これこれと。■宣旨-天皇の指図・命令、またはそれを伝える文書。■とくとく-一刻も早く。■何しに-何のために。■更々動きげもなければ-まったく動きそうにもなかったので。■御悩(ごなう)大事におはします-ご病気がまことに重くておいでになります。■祈り参らせ給へ-お祈り申してください。■参らずとも-参内しなくても。■ここながら-ここにいながら、いたままで。この時の天皇の病気とは、延喜十五年(915)十月の疱瘡(ほうそう)の折のこととみる藤田経世・秋山光和『信貴山縁起絵巻』の説に従うべきか。■祈り参らせ給はん-お祈り申してあげましょう。■怠らせおはしましたりとも-よくおなりになったとしても。■いかでか-どうして。■知るべき-知る事ができようか。■知らせ給はずとも-お分かりにならなくても。■御心地(ここち)だに怠らせ給ひなば-ご気分さえよくおなりになれば。■よく候ひなん-それでよいでしょう。■さるにても-それにしても。■いかでか-何としてでも。■あまたの-種々の。■その験(しるし)と見えんこそよからめ-聖のお祈りのききめと分るほうがよいでしょう。■さらば-それでは。■祈り参らせんに-お祈り申すのに。■剣の護法-剣を編んで衣としたものをまとった仏法守護の童形の神。広義では,仏法に帰依して三宝を守護する神霊・鬼神の類を意味するが,狭義では,密教の奥義をきわめた高僧や修験道の行者・山伏たちの使役する神霊・鬼神を意味する。童子形で語られることが多いため護法童子と呼ぶことが広く定着している。しかし,鬼や動物の姿で示されることもある。■おのづから-もしかして。■さとは知らせ給へ-私が差し向けた使者であるとご確認なさってください。■さらに-まったく。■え出でじ-出られますまい。■ちとまどらせ給ふともなきに-少しうとうとなさるというほどでもないのに。■三日といふ-三日目の。■昼つかた-昼ごろ。■思し召すより-思われるやいなや。お気づきになった時から。■さはさはとなりて-さわやかになって。■例ざまにならせ給ひぬ-平常のようにご回復になられた。この折の病気を延喜十年(915)の十月の疱瘡と見るのは、もし、この時を亀田孜「信貴山縁起虚実雑考」(仏教芸術27号、昭和31・3)のように、延長八年(930)八月十九日の左兵衛の陣で命蓮(本話の命蓮)が加持した折の病悩のこととみるならば、醍醐天皇はその翌月(九月)に崩じており、祈祷の功績による褒賞の沙汰が話題になることなどまったく考え難くなるからである。もっとも延喜十五年の疱瘡の際の祈祷には、天台座主増命が当たっていて、命蓮の名は見えない。

■僧正・僧都にやなるべき-先の疱瘡の祈祷の功績で天台座主の増命に与えられた僧位は少僧都であって、一介の修験層が僧正・僧都に急昇進することは実際にはあり得ない誇張。■なるべき-なったらよいか。■寄すべき-寄進したらよいか。■庄-寺院の領地としての荘園、不輪租田として租税免除の特典があった。■さらに候ふまじき事なり-まったく考えもしないことです。論外の事であります。深山に修行者として住み続けることを決意している聖にとっては、世俗的な栄誉は無縁の事であった。■寄りぬれば-寄進されると。■別当なにくれなど出で来て-荘園の管理事務をつかさどる者など、何やかやいろいろな人間が集まって来ることになって。■なかなかむつかし-かえって煩わしく。■罪得がましく候ふ-罪を得る事になりそうです。■かくて候はん-このままでおりましょう。■やみにけり-終わってしまった。

■おぼつかなきに-気がかりなので。心配なので。■山階寺-興福寺。奈良市登大和町にある法宗の大本山。■まうれん小院-命蓮小院。■人やある-人がいるか。■尋ねわびて-尋ねあぐんで。■いかんいせん-どうしようか。■これが行末(ゆくすゑ)聞きてこそ-行方を確かめてから。命蓮の所在をつきとめてから。■未申-南西方。東大寺から見て信貴山は南西の方角に当る。■雲-『信貴山縁起絵巻』は、「しうむ」すなわち「紫雲」とする。紫雲は天皇・聖者などのいる場所の上にたなびくとされる端雲。ただ「雲たびきたる所」では、探索の目印としてはあまりにも漠然とし過ぎよう。本話でも、「紫の雲たなびきたる」と後出する。■いつしか-いつのことか、何とももどかしい。待ち遠しい。■見ゐたれば-大仏殿の中から戸外を見やっていると。

■ふくたい-①「服体」とする説(和訓栞)、②「腹帯」とする説(字類抄)、③胴着の類かとする説(全書)、④「衲(ひた)」とする説(和名抄、大系)など諸説あるが、本話の太き糸して厚々とこまかに強げにしたる」という説明や紙衣の下につけるという着方からすれば、②か③が適当かと思われる。■なべて-普通の、一般の。■紙衣(かみぎぬ)-紙子。楮(こうぞ)を材料とした厚での和紙を張り合わせて作ったものに防水と保温のための柿渋を塗って乾かし、もんで和らげ、夜露に晒して臭みを抜いた。元来は僧、後には一般人も着用した。

■果てには-しまいには。■破(や)れ破(や)れと着なしてありけり-ぼろぼろになったのを、そのまま着用していた。■破れなどは-破れたものなどは。■あんなり-あるのだ。■露(つゆ)ばかりなど-すこしばかりでも。■おのづから縁にふれて得たる人は-たまたま何かの機縁があって手に入れた人は。■徳つかぬはなかりけり-裕福にならない者はなかった。■えもいはず-言いようもなく。■行ひ出し奉りけるとか-修業して入手し申し上げたということである。

備考・補足

■本話は三部作である。第一部はまうれんの信貴山定住と毘沙門天の出現。飛鉢・飛倉の件、第二部は醍醐天皇の病気と加持・平癒の件、第三部は聖の姉の奈良への上京と再会の件および後日譚。第一部では、聖の無欲な人柄が、第二部では名利を捨てた遁世の志の堅固な道心者の姿が、第三部では姉弟のこまやかな情愛が説かれ、後日譚は聖の遺品・遺物のあらたかな霊験による信貴山の宣伝となっている。類話の『今昔』巻一一-三六話は、第一部の飛倉のことや第二、第三部を欠き、全体として簡略で、別伝承を思わせ、『信貴山縁起絵巻』の詞書は、第一部をほとんど欠く。

朗読・解説:左大臣光永