宇治拾遺物語 8-7 千手院(せんじゆゐん)僧正、仙人にあふ事

【無料配信中】足利義満
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

昔、山の西塔千手院(せんじゆゐん)に住み給ひける静観僧正(じやうくわんそうじやう)と申しける座主(ざす)、夜更(ふ)けて、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)を夜もすがら見て明かして、年比(としごろ)になり給ひぬ。聴く人もいみじく貴(たふと)みけり。陽勝(やうしよう)仙人と申す仙人、空を飛びて、この坊の上を過ぎけるが、この陀羅尼の声を聞きて、おりて高欄(かうらん)の矛木(ほこぎ)の上に居給ひぬ。僧正あやしと思ひて、問ひ給ひければ、蚊の声のやうなる声して、「陽勝仙人にて候(さぶら)ふなり。空を過ぎ給ひつるが、尊勝陀羅尼の声を承りて参り侍るなり」とのたまひければ、戸をあけて請(しやう)ぜられければ、飛び入りて前に居給ひぬ。年比の物語して、「今はまかりなん」とて立ちけるが、人気(ひとげ)におされて、え立たざりければ、「香炉(かうろ)の煙を近く寄せ給へ」とのたまひければ、僧正香炉を近くさし寄せ給ひける。その煙に乗りて空へ昇りにけり。この僧正は、年を経て、香炉をさしあげて煙を立ててぞおはしける。この仙人は、もと使ひ給ひける僧の、行ひして失(う)せにけるを、年比あやしと思(おぼ)しけるに、かくして参りたりければ、あはれあはれと思してぞ常に泣き給ひける。

現代語訳

昔、比叡山の西塔千手院にお住みになられていた静観僧正と申しあげた座主は、夜が更けてから、尊勝陀羅尼を夜通し読み明かすことを、長年にわたってされていた。聴く人もたいそう貴く感じていた。陽勝仙人と申す仙人は、空を飛んでいて、ある時、この僧坊の上を通り過ぎたが、この陀羅尼を読む声を聞いて、下に降り、高欄(かうらん)の矛木(ほこぎ)の上にお座りになった。僧正が不思議に思ってお尋ねになると、蚊の泣くような小さな声で、「陽勝仙人でございます。空を通り過ぎましたが、尊勝陀羅尼の声を承って参ったのでございます」と言われたので、戸を開けて中へお招きになると、飛び込んで、前にお座りになった。会うことなく過ぎた長い歳月の間の積もり積もった話をして、仙人が、「さて、もうおいとましましょう」と立とうとされたが、人の気配に圧倒され、立てなかったので、「香炉の煙を近くに寄せてください」とおっしゃると、僧正は、香炉を近くに寄せられた。そこで仙人は立ち昇るその煙に沿って空へ昇って行かれたということである。その後、この僧正は、長い間、香炉をさしあげて煙を立てていらっしゃった。この仙人は、もと僧正が召し使っておられた僧で、修行を積んでいるうちに失踪してしまったことを長年気にかけておられたが、こうして、かっての弟子が来たことに深く感激していつも思い出しては泣いておられたということである。
                         

語句

■山-比叡山(延暦寺)。■西塔-低本に「西塔」なし。諸本により補う。千手院は最澄(さいちょう)の建立になるという千手堂のこと。■静観僧正-増命(843~927)の諡号(しごう)。天台座主就任は延喜六年(906)■座主(ざす)-天台座主。延暦寺の住持として、天台宗の総監に当たる職。■尊勝陀羅尼(そんしようだらに)-『仏頂尊勝陀羅尼経』一巻(唐の仏陀波利訳)中の陀羅尼。死後畜生道に落ちようとしていた善住王子を哀れんだ帝釈天が救済の法を釈迦に問うと、釈迦はこの陀羅尼が功徳にすぐれることを教え、唱えさせたと伝えられる。陀羅尼は呪文のこと。■夜もすがら-夜通し。■見て明かして-読みあかして。■年比に-長年に。■いみじく-たいそう。■陽勝(やうしよう)仙人-紀氏。能登(石川県)の出身。元慶三年(879)、十一歳で叡山に登って修学。後に大和(奈良県)の金峰山(きんぷさん)に登り、牟田寺(奈良県吉野郡吉野町六田)で仙法を習い、延喜元年(901)、仙道を得て飛行自在の身となったという(『本朝法華験記など』)。なお、陽勝については、菅原信海「『陽勝仙人伝』の形成」(『日本思想と神仏習合』)に詳しい。■坊-僧の住む所。■高欄(かうらん)の矛木(ほこぎ)-欄干の柱の頭部の矛先に似た形状の部分。■ゐ給ひぬ-お座りになった。■蚊の声のやうなる声して-蚊の泣くような細い声で。■のたまひければ-おっしゃったので。■請(しやう)ぜられければ-お招きになると。■年比の物語して-会うことなく過ぎた長い歳月の間の積もり積もった話をして。■今はまかりなむ-もうおいとましましょう。■人気(ひとげ)-人間の発する気。人間くさい空気。■おされて-圧倒されて、邪魔されて。■香炉をさしあげて煙を立ててぞおはしける-再び陽勝仙人が香炉から立ち上る煙を伝わって降りてくる来ることを期待したふるまい。■年比あやしと思しけるに-長年不思議だとお思いになっていたが。■あはれあはれと思してぞ-心にしみじみとお感じになって。

朗読・解説:左大臣光永

【無料配信中】足利義満